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言葉の森新聞2007年5月2週号 通算第982号 枝 0 / 節 1 / ID 印刷設定:左余白12 右余白8 上下余白8
  ■1.孤独力
  ■2.正義感と父親
  ■3.睦月に思うこと(まよ/おれお先生)
  ■4.書く前の準備を楽しもう(ひまわり/すぎ先生)
  ■5.勉強って役に立つのかな(たんたん/はらこ先生)
 
言葉の森新聞 2007年5月2週号 通算第982号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
枝 1 / 節 2 / ID
1.孤独力 枝 4 / 節 3 / ID 11063
 勉強の力は、孤独に同じことをする力です。よく、友達と連れ合って図書館に行って勉強をするような人がいます。友達づきあいのいいことは、別の意味で長所ですが、勉強に関してはあまりプラスにはなりません。
 昔、私がある図書館に行くと、朝からひとりで法律の勉強をしているらしい30代ぐらいの人がいました。私は、自分の好きな本を読んだり調べ物をしたりしたあと図書館を出て、夕方またその図書館に行ってみると、朝いた人が同じ場所で同じように勉強をしているではありませんか。そのときに、しみじみと、勉強の好きな人はこういう人なのだろうなあと思ったものでした。
 これは、努力や心がけ以前に、その人が孤独に同じことをするのが好きな性格かどうかという問題です。もちろん、それが単純にいいことだというのではありません。世の中がそういう人ばかりでは、やはり発展しないでしょう。いろいろな性格の人がいるから、このように豊かな社会が生まれたはずだからです。
 しかし、子供の小さいころに、そのように孤独に同じことをする力をつけておくことは大事です。
 そのために一つ親が心がけておくことは、子供が何かに熱中しているときに、それを中断させないということです。
 小さい子は、あることに熱中すると、食事の時間も忘れて取り組むことがあります。親はつい、日常生活の流れを優先させるため、子供に遊びを中断させてしまいがちです。しかし、それは長い目で見て、子供の集中力の発達を阻害します。子供自身が空腹に気づくまで、熱中していることを続けさせるというのがよいやり方です。
 しかし、どうしてもスケジュールどおりにしないと困るという場合ももちろんあります。そのときは、突然「もうやめなさい」と言うのではなく、最初に「あと15分ぐらいしたら、そろそろかたづけてね」と声をかけるのです。そうすると、子供は心理的な抵抗なく、15分ぐらいたつころに自然に遊びをかたづける方向に向かいます。15分過ぎてもなお熱中して止まらないときでも、子供の心にはもう準備ができていますから、「はい、もうおしまい」と言われてもほとんど無理はありません。
 現代の小学校生活では、こういう集中力は、かえって集団活動の流れに乗れないマイナス面を生み出すこともあります。しかし、それも子供が中学生になるころには自然に解決していきます。子供が小学校の低中学年のころまでは、スケジュールよりも集中力を育てることを優先していく方がいいのです。
枝 6 / 節 4 / ID 11064
作者コード:
2.正義感と父親 枝 4 / 節 5 / ID 11055
 壁に落書きをする人がいます。物を食べてその袋をその場に投げ捨てる人がいます。ウソをついたり、いたずらをしたり、カンニングをしたりする人がいます。
 これらの人々に共通しているものは、倫理感のなさです。自分がしていることがいいことか悪いことかと聞かれれば悪いことだとわかりますが、悪いことをしてはいけないという倫理的な感覚がないのです。
 その反対に、だれが見ていなくても、自分が損をすることであっても、正しい行動をとる人がいます。
 何がこの倫理感の有無を分けるかというと、それは、家庭における教育、特に父親的な教育だと思います。
 子供が初めて出合う社会は、家族です。父親と母親は、社会の予行演習として子供の前に現れます。ここで子供は、社会の厳しさと優しさの両方を学びます。
 ところが、父親が社会の厳しさを体現できないと、子供の倫理感は育ちません。この社会の厳しさの役割を母親が代替することはできません。それは、父親が社会の優しさの役割を担えないのと同じです。もちろん多くの例外はありますが、一般的に言って、父親は厳しさを、母親は優しさを表現することに向いているのです。
 例えば、子供を叱るときでも、父親には強力なゲンコツという力があります。母親の叱り方は、小言を続ける形になりがちなので、子供はその叱られ方にだんだん免疫ができてしまいます。一度免疫ができると、あとは叱れば叱るほど、叱られても何も感じない子供になっていきます。
 子供を叱るときは、母親が登場するのではなく、父親にバトンタッチをして、父親から短い強力な叱り方をしてもらうことが必要です。もちろん、父親の叱り方はゲンコツだけではありません。通常は、諄々と諭すという叱り方で十分でしょう。しかし、この叱り方は母親の小言の連続よりも、はるかに子供にとっては叱られたという実感があります。
 弱い父親がなぜ増えたかというと、その父親もまた弱い育てられ方をしたためです。さかのぼれば、敗戦によって、日本の家族教育は内的な権威を失いました。しかし、敗戦の時代に生きた祖父母の代には、まだ明確な倫理感が残っていました。父母の代になってその倫理感が次第に薄らぎ、今の子供の代になって更にかすかになっていったのです。権威と言っても何も大げさなものではありません。親に返事をするときに、「はい」と答えるようなことです。今の子供の中には、親に返事すらしない子も多いと思います。
 対策は、二つあります。
 一つは、母親がもっと父親を立てることです。日常生活のほとんどのことは母親が中心になって運営されていますが、肝心な場面、例えば叱る場面などでは、母親が一歩しりぞいて父親を前面に出すことです。何もかもすべてを母親が中心にやらなければ気がすまないというのは、母親の弱さの現われです。自分に自信がある母親は、父親に譲る余裕を持っています。家族の中で、しっかり者の母親が強すぎるために、父親が弱くなっている家庭はかなりあるようです。
 私は子供のころ何かを買ってもらうと、必ず母親から、「お父さんに、お礼を言いなさい」と言われ、正座をしてお礼をさせられました。今、そういうしつけをしている家庭は少ないのではないかと思います。たとえ、共働きで母親の方が高い給料をもらっていたとしても、そのようなけじめを子供に見せることは大切だと思います。
 もう一つは、父親が強くなる決心をすることです。強くなるということは、子供に好かれることではありません。筋を通すということです。
 私の子供が高校三年生のとき、同じ学年の友達を数人自宅に連れてきて一泊することになりました。私が夜八時半ごろ帰ってみると、その友達が四、五人来ていてみんなで和やかに遊んでいます。ほかの家族もそれぞれ思い思いのことをしています。私は、静かにお茶でも飲んでそのまま休んでもよかったのですが、ふと、ここでしっかりけじめをつけることが大事だと思いました。
 そこで、「あと三十分ほどしたら、みんなであいさつをするぞ」と声をかけました。一瞬、迷惑そうな雰囲気が広がりました(笑)。三十分後、「さあ、みんな集まれ」と声をかけると、子供は聞こえないふりをしています。友達の手前、格好悪いということがあるのでしょう。そこで、私は怒りました。
 もしここでみんなの和やかな雰囲気を優先させて、父親が一度言ったことをうやむやにしたら、そのマイナスの方がずっと大きいのです。
 みんながしぶしぶ集まったので、順に自己紹介して、なぜこういうあいさつが必要なのかということを話しました。他人の家に行って、その家族にあいさつすることは当然です。しかも、一泊して朝までいるのであれば、それぞれの人間がどういう名前でどういう関係にあるのかということを簡単にではあっても互いに知っておくべきです。そうでなければ、ただの動物の離合集散と同じです。そして、そういうことを権限を持って実行できるのは、やはり父親なのです。
 この場合、本当は、母親がそういうお膳立てをしておけば理想的です。例えば、「お父さんが帰ってきたら、一度みんなで集まってあいさつをするからね」と言っておけば、子供は、我が家にはそういうルールがあるのだと納得するでしょう。
 家庭によっては、母親が父親のことを給料運搬人のように見なしているところがあります。そういう家庭では、子供は大きくなると平気で母親に「うるせえな」などという言葉を使うようになります。そのときに、強い父親であれば、「親に対して、その言い方は何だ」と叱り飛ばすことができます。
 母親に「うるさい」などということを平気で言う子供が親になったとき、果たして自分の子供に立派な教育ができるでしょうか。また、社会に出たときに、意義のある立派な仕事ができるでしょうか。
 強い父親と優しい母親のもとに育った子供こそが、強い悪に対しても敢然と立ち向かい、弱い者には限りなく優しい愛情を注ぐことができる人間になるのだと思います。
枝 6 / 節 6 / ID 11056
作者コード:
3.睦月に思うこと(まよ/おれお先生) 枝 4 / 節 7 / ID 11061
 中国に滞在したある日本人の話です。
 中国人の友達もでき、筆談を交えながらなんとかコミュニケーションを楽しんでいましたが、とうとう帰国する日がやってきました。

「絶対に手紙をくださいね」
「……? まあ構いませんよ、どうぞ」

……とそこに差し出されたのは、なんとトイレットペーパーだった……
 
 中国語と日本語の似て非なるところを示唆する笑い話です。英語の教科書でも紹介されているので、聞いたことのある人もいるでしょう。中国で「手紙」といえば、トイレに備えつけてあるあの巻紙。一方日本人はその言葉から、思いの丈がつづられた便箋を思い浮かべるのです。


 
 漢字文化は中国からの輸入品。ですから、日本語の多くが中国語に由来するのも不思議ではありません。しかし、「手紙」の例もありますから油断は禁物。この手のいわゆる「同音異義語」(厳密には「同形異義語」とでも言いましょうか)は探せばたくさんあるのだといいます。

 例えば「勉強」という言葉。
 日本語の意味は一目瞭然ですね。どちらかといえば好ましい印象の言葉かもしれません。もっとも、この言葉の意味する作業が大好きだという人は少数派です(実は、わたしもあまり好きではありません)。
 一方、中国語で「勉強」と言えば…・・・? なんと「無理やり何かをさせること」の意になるのだそう。決して好ましい言葉ではありません。中国語の「勉強」は、自らするものではなく強制されるものなのです。

 「勉強」とはさせられるもの、あるいはさせなければいけないもの。実際にそう考えている人は多いでしょう。普段は日本語を話すけれど、「勉強」に関してだけは中国語を採用しているわけですね。
 
 ちなみに、日本語の「勉強する」は「学ぶ」とほぼ同義にとらえられていますが、語源はまったく異なります。「勉強する」は上述のとおり中国語からの拝借。「学ぶ」は、「真似ぶ」→「まねぶ」→「まなぶ」→「学ぶ」と変化してできたのだそう。学ぶとは真似ること。先達者のやり方を真似て、自分の物にすることです。誰かを真似るのは、その人のようになりたいから。ここには目標と意思があります。「勉強」とは趣が異なるようですね。

 では、あなたは「学んで」いますか、それとも「勉強して」いますか。



 ランクを付けるとすれば、さしずめ3位が「勉強する」で2位が「学ぶ」でしょう。では1位は……? 教科書を書き換えるような発見をしたり技術を生み出したりすること。つまり、真似る側から真似られる側になることです。これが1位。

 壮大な目標ですが、夢は大きく持ちましょう。そうすれば、「勉強する」がやがて「学ぶ」になってゆくことでしょう。
枝 6 / 節 8 / ID 11062
作者コード:oreo
4.書く前の準備を楽しもう(ひまわり/すぎ先生) 枝 4 / 節 9 / ID 11059
 前回の学級新聞は、いかに上手に取材をして「聞いた話」をくわしく入れるかというお話でした。これをさっそく実践して、おもしろい話を書いてくれた人もいますね。

 さて、今回は「前の話」「調べた話」についてお話しましょう。これも、「聞いた話」と並んで、作文の中身を充実させるのにとても大切な部分です。同じ字数の作文を書いても、一つのできごとを、始めから終わりまでくわしく説明していくだけの作文と、途中に「前の話」「聞いた話」「調べた話」を入れて話を転換させたものとでは、まったく印象が違います。後者は、メリハリがあって、読み手を飽きさせない作文になります。
 「前の話」を入れるためには、書く前に、その作文のテーマに合った話を思い出しておく必要があります。うまい具合に、つい最近、そんな経験があれば書きやすいのですが、なかなか思い出せないこともあるでしょう。そんなときは、自分の成長をずっと見守ってきてくれた人、お父さんやお母さんに聞くのも、いい方法です。お父さんやお母さんは、みなさんよりも昔のことをよく覚えているので、
「そういえば、一年生のときこんなことがあったじゃない?」
と、思い出すのを助ける強い味方になってくれることでしょう。
 もう一つ、「調べた話」を入れるためには、文字通り「調べる」という作業が欠かせません。
「調べたことがないので、調べた話は書けません……。」
などと消極的にならず、調べたことがなければぜひ調べてみましょう。ただし、都合よく家に百科事典があるとは限らないので、事前に図書館などに足を運んでおく必要があります。めんどうがらずに調べてみると、百科事典の中にも楽しい発見があるかもしれませんよ。
 また、家で調べるときは、パソコンが使える環境であれば、インターネットを活用してみましょう。インターネットで調べるには、少々コツがいるのですが、何度か練習するうちにメキメキ上達してくるでしょう。インターネットで調べていると、ついつい道草をしたくなるものですが、思わぬところにおもしろい情報があるかもしれません。

 ここまで読んでくると、充実した作文を書くには、事前の準備がとても大切だということがわかるでしょう。作文の準備自体を楽しむことができるといいですね。
枝 6 / 節 10 / ID 11060
作者コード:sugi
5.勉強って役に立つのかな(たんたん/はらこ先生) 枝 4 / 節 11 / ID 11057
 先生は大人になった今も、ときどき思い出す言葉があります。20年前の小学4年生のとき(年齢がバレますね)、算数の授業中にだれかが「こんな計算、大人になったら必要ないよぉ。」と言いました。すると担任の先生が、教室のすみにあった1つの花びんを手にして、こんなことをおっしゃいました。
「この花びんを見て、みんなはどんなことを考えるかな。算数の目でみてごらん。この花びんには何リットルの水が入るかな。次は社会の目で見てごらん。花びんはだれがどうやって作ったのだろうか。理科の目で見たら、どんな物質でできているのか気になるね。ガラスかな、銅かな。音楽の目だってできるよ。たたいたら、どんな音がするかな」。
 そして先生は、こうつけ加えられました。
「みんなは、毎日いろいろな教科を勉強しているけど、大人になるにはどれも大切な教科なんだよ。ある1つの物を見て、どれだけ多くの見方ができるか。1つの考えに満足しないで、いろいろな角度から筋道をたてて考えられる人間になってもらいたいから、いろいろな勉強をしているのだよ」。
 まだ9歳だった先生には意味がよく分からず、「体育の目で考えて花びんを遠くに投げたら、割れるなぁ」などと、くだらないことを考えていましたが、しっかり者のみなさんはどう思いますか(^_^)?
                         
 正直言って、高校で習う数学問題などは、先生が大人になって会社で働いていたときには一度も使ったことはありません。だけど、「使わない」と「必要ない」は違うと思うのです。学んだ知識がたくさんあれば、それが武器になってどんなことにもチャレンジできます。でも何も勉強しなければ、何もできません。ほら、たとえばプールの時間に大きなバスタオルで体を包むと暖かいでしょ。小さなハンドタオルでは、背中すらも暖かくならない。大きいほうが安心、知識はたくさん持っている方が万全ということです。先生はそう思うよ。
                         
 だから、作文はもちろんですが、どんな教科もがんばって取り組んでほしいのです。「長文音読なんて意味ないよ」なんて思っていませんか。先生も小学生のころ「むだ、むだ!」と思いながら、学校の宿題でいやいや音読していました。でも不思議なことに、いまでも「ちいちゃんのかげおくり」「太郎こうろぎ」「一輪の花」「やまなし」など、ところどころですが文章を覚えています。それらの文章が直接何かの役に立つわけではありませんが、先生の脳みその栄養となっているのは確かです。
 みなさん、たくさん音読してください。読めば読むほど、目から耳から口から美しい文章が吸収され、頭の中の栄養となります。作文を書けば書くほど、あなたのバスタオルは大きく大きくなります。ふかふかほわほわのバスタオルを目指してがんばりましょう。
枝 6 / 節 12 / ID 11058
作者コード:harako
枝 9 / 節 13 / ID 11058
 
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