言葉の森新聞2015年2月2週号 通算第1357号
文責 中根克明(森川林)

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■■2月11日(水)は、休み宿題(再掲)
 2月11日(水)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時-午後7時50分。電話0120-22-3987)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」や課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 課題の説明の動画「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/
 オープン教育の掲示板「森の予習室」にも、学年別の予習のヒントが載っています。
http://www.mori7.com/ope/


■■中1の読解マラソンの1~3月の長文PDFを入れ直しました
 読解マラソンの「問題の木」で、中1の1~3月のPDFファイルがリンク切れになっていました。申し訳ありませんでした。
 現在は、見られるようになっています。
 1月4週の問題は、2月14日まで下記の「問題の木」のページで解くことができます。
http://www.mori7.com/marason/ki.php


■■勉強は、雨だれ岩をも穿(うが)つようなもの

 毎日わずか2、3分、同じ文章を音読して半年間もすると、いつの間にか語彙力がついてくるから、読解力も表現力もついてきます。
 ところが、多くの人は、あるときふと思い立って集中的に難しい勉強に取り組んで、しばらくすると飽きてしまいます。
 雨だれではなく、どっと夕立が降るような勉強です。夕立はさわやかですが、もちろん岩は岩のまま変わりません。
 では、雨だれのような勉強をどうさせるかというと、それはやはり、雨だれのように毎日優しく同じ勉強をさせる大人が必要になるのです。
 子供は自動機械ではないので、一度ボタンを押したらそのままずっと続ける、というようなことはまずありません。
 気が散りやすく、飽きやすく、脱線しやすいからこそ、人間らしい創造性があるのです。
 その飽きっぽさを是認した上で、毎日同じように同じことをさせるのが家庭学習のいちばんの要です。


■■頭のよさは国語力に出る
 頭のよさが関係ある勉強というと、算数数学を挙げる人が多いと思いますが、算数数学は練習の仕方で成績がよくなるので、後天的な努力型の勉強です。もちろん努力には時間がかかりますが、やれば誰でもできるようになります。
 では、もっと頭のよさに関係がある勉強は何かというと、それは国語力なのです。その国語力の中でも、小学生の場合は作文力が、中学生の場合は語彙力や読解力が、頭のよさに関係が深いというイギリスの心理学者の調査結果が出ています。
 国語は、特に勉強をしなくても誰でもある程度はできるので、それほど差のつく勉強だとは思えないと思います。確かに、日常の話題のような易しい語彙だけで済ませられる国語の問題は、できる子もできない子もほとんど差がつきません。
 作文でも同じです。身近な生活作文を書く範囲では、国語の得意な子も苦手な子も、同じようにそれなりの文章を書けるのです。
 差がつくのは、抽象的な語彙が出てくる読解や作文の課題になったときです。そのときに、本当の学力のある子とない子の差が出てきます。そして、その差は、学年が上がるにつれてますます広がっていくのです。


■■思考力をつける作文と、その裏づけとなる問題集読書

 言葉の森の作文指導は、小学校低学年のときは楽しく書くのが基本です。間違いを直すことばかりに熱心な指導では、確かに間違いは直りますが、それよりもすぐに書くことが嫌いになってしまいます。
 間違いは、作文の中で直すのではなく、読む力をつける中で直すのです。
 一年生で会話をカギカッコで書くことと改行することができない子がいたとします。この子に、カギカッコと改行を教えて、次回から直るということはまずありません。何度も何度も同じことを教えても、それができるまでに何ヶ月もかかるのが普通です。
 なぜかというと、普段の日常会話で、会話にカギカッコがついていたり、改行されたりしていることはないからです。あったら、漫画です。
 会話のカギカッコと改行は、本の中で現れます。本を読んでいる子は、自然に、会話はカギカッコがついていて改行されていることを見ています。そういう読書の蓄積がある子は、もし会話のカギカッコと改行ができていないときも、一度説明するだけで次回からはすぐに正しく書くことができるのです。
 言葉の森の作文指導は、低学年のころは楽しい作文ですが、高学年になると考える作文になります。
 低学年のころの楽しい作文の経験があるからこそ、高学年の考える作文も同じように楽しく取り組めるのです。
 考えるというのは、抽象的に考えるということです。
 例えば、意見について理由を書くというときに、理由が書けずに実例を書いてしまう生徒がかなりいます。自分の経験したことに結びつけて書くことはできるのですが、誰にも共通する一般的な理由として書くという抽象的な思考ができないのです。
 この考える力、思考力も、読む力から来ています。
 子供たちが読む本は、物語文がほとんどです。物語文は、ストーリーという事実中心に書かれているので、わかりやすく誰でも読めます。
 これに対して、説明文や意見文は、ストーリーがありません。その代わりに、物事の因果関係などの抽象的な構造が文章の骨格になっています。こういう文章を読むことによって、作文を書くときも抽象的な構造のある作文が書けるのです。
 ところが、子供たちが楽しく読める説明文は、あまりありません。身近なところでは、小学生新聞に載っているコラムなどが読みやすい説明文ですが、こういう文章が本として出されることはほとんどありません。
 そこで、おすすめするのが、国語の入試問題集です。入試問題集の問題文の中には、読みにくい悪文もありますが、概して内容的に優れたものが多いからです。また、内容に興味を持った問題文であれば、出典を参考にしてもとの本を読むこともできます。
 しかし、この問題集読書は、家庭ではなかなかできません。形だけやっているように見えても、ただ眺めているような読み方をしている子が多いのです。
 言葉の森では、寺子屋オンエアなどで、この問題集読書にこれから力を入れていきたいと思っています。


■■12月の森リン大賞より(小5の部)
 森リン大賞とは、パソコンでテキスト入力された清書で、森リン点が最も高かった作品に与えられる賞です。
 感想文の清書の場合、要約の部分が多くなると森リン点が高くなるので、要約ではなく自分の言葉で書いたものが対象になります。
 今回は、12月も森リン大賞(学年別)の中から、80点だった小5のあんみつさんの作文です。
 体験実例の面白さ、調べた話や聞いた話による構成の立体感、結びの一般化された感想など、バランスのよい文章になっています。また、表現の多様性は、よく本を読んでいるからだと思います。
 表現の多様性とは、例えば、次のようなところです。
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「ケーキは、あっさりしていて甘さ控えめのものでなく、甘くて濃厚なものでないと美味しくない。」
というのが母の言い分だ。
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 この内容を伝えるだけなら、「『ケーキは甘い方がおいしい』と母は言った」というようにも書けますが、同じ内容をより多様な表現として書けるところが語彙力のあるところです。
 読書が大事だというのは、このように表現を工夫することができるからです。また、表現を工夫できる人は、それだけものの見方についても微妙な陰影がわかるようになるのです。


楽しく、そして美味しく
あんみつ
 「わあ。美味しそう。」
しゃぶしゃぶの肉を見た私の口から、自然にこんな言葉が出てきた。それと同時に、よだれが垂れそうになったので、私は急いで口を閉じた。この前、自宅でしゃぶしゃぶをした。その時にしゃぶしゃぶ用の鍋を出したのだが、その鍋の持ち手には、ある絵が書いてあった。本当は、2羽の鶴と1輪の梅の花が描かれていたのだが、私は、その絵をまるでウルトラマンに出てくるバルタン星人のような絵だと解釈してしまったのだ。確かに、今思えば日本の鍋にバルタン星人が描かれているわけがない。それでも、おもしろい発想ができる子供の内に面白い発想を存分にして、面白い思い出を沢山作っていきたい。
 肝心のしゃぶしゃぶの味はどうだったのかというと、本当に美味しくて最高だった。だから、私の気持ちは最高潮になった。母方の祖母と祖父がお歳暮として送ってきてくれた近江牛と、父がスーパーで買った国産黒毛和牛の両方を食べた。近江牛は、まだ3歳にもなっていない若い牛だったため、まるでチョコレートのように口の中でとろけていくような柔らかさと美味しさが合った。霜降りだったのに、ちっとも脂っこく感じなかった。そんな近江牛に対し、黒毛和牛は、弾力のある赤身の美味しさがあった。赤身なのに、ちっとも固くならなかった。脂身と赤身の両方を食べたことによって、栄養もバランス良く取れたと思う。また、心身ともに満足出来た。しゃぶしゃぶは少し忙しかったけれど、楽しい夕食になった。
 私は、しゃぶしゃぶについて少し調べてみた。しゃぶしゃぶが生まれたのは昭和27年で、案外最近のことだ。牛肉専門店として営業していた「スエヒロ」というお店の先代店主が考案した。私は、しゃぶしゃぶは中国やモンゴルなどの大陸から伝わってきたものだと思っていたが、実は日本で生まれたものだったのだという新事実を知った。しゃぶしゃぶは、脂を落とすというところがヘルシー好きの日本人らしさを表している。私は、日本人として、日本人が考案したしゃぶしゃぶが世界に広まっていったことに誇りを感じる。
 私は、母に最近美味しい物を食べた時のことについて聞いてみた。母は、少し前に食べたケーキが美味しかったという。そのケーキは、他のケーキ屋のケーキよりもクリームが甘くて濃厚だったそうだ。
「ケーキは、あっさりしていて甘さ控えめのものでなく、甘くて濃厚なものでないと美味しくない。」
というのが母の言い分だ。
 私は、味覚は個人的なものであって、どんな人でも自分の舌以外は使えないと思う。確かに、美味しい、まずい、というだいたいの合意は成立するかもしれない。しかし、それはあくまでその人が感じる味、というだけの話であって、他人が全く同じように感じる保証はどこにもないのだ。そのことを表す諺に、「蓼食う虫も好き好き」が挙げられる。これは、人の好き嫌いは様々で、自分の好みと比べて一概には判断できないということだ。私は、全くその通りだと分かった。食事を楽しく始め、自然に食欲をそそられるような、楽しく、そして美味しい食事をこれからも続けていきたい。


■■資本主義を超えたこれからの社会における教育
 今の経済体制は、行き詰まりを見せています。まだ、これまでのストックがあるので、その行き詰まりは目に見える形として現れてはいませんが、破綻は水面下で進行しています。
 その原因は、おおまかに言えば、世界中の生産力が世界中の消費力を上回るようになったためです。つまり、需要の減少が、供給の減少につながり、供給の減少が収入の減少につながり、それがまた需要の減少につながるという負のサイクルが生まれているのです。
 資本主義の発展期には、この正反対のサイクルが存在していました。需要が伸びるために供給が伸び、供給の伸びに比例して収入が伸び、それが再び需要に投入され、生活は日増しに豊かになっていったのです。
 発展期の社会では、消費に回らずに貯蓄に回された分は、新しい供給を生み出すための投資になっていました。しかし、そこには次々に生み出される供給をすぐに吸収できる貪欲な需要があったのです。
 現在の資本主義の行き詰まりを解消する方法として考えられている一つは、戦争経済です。もう一つは、地球規模のインフラ整備です。しかし、どちらも一時的な対症療法でしかありません。
 物やサービスの生産については、もはや人類の生産力は、人類の消費力を大きく超えているのです。
 したがって今後、経済の行き詰まりが表面化するときは、株価の暴落、バブルの崩壊、倒産、失業、リストラという経済の急収縮が一気に現れます。もともと実際の需要のないところに生まれていた余剰の供給は、その余剰の分だけ消滅するのです。
 こういう将来の社会の変動を予測する人の中には、既に田舎で自給自足の生活を始めている人もいます。国も会社も年金も給与もあてにならないとしたら、自分の生活は自分の手で守らなければならないからです
 しかし、農業を中心とした自給自足の社会は、当面の経済破綻については防波堤の役割を果たしますが、それがそのまま未来の社会の雛形になるわけではありません。自給自足というのは、結局、破綻に対する避難の方法にすぎないのです。
 新しい社会の基盤は、物やサービスの生産を超えた、新しい原理に根差している必要があります。その原理こそが、人間の持つ創造性です。
 工業として生産される物、商業として提供されるサービスのいずれもが、社会全体の需要に対する過剰な供給力を秘めています。新しいものや新しいサービスが登場するたびに、小さな活況は生まれますが、それはもはや資本主義全体の活性化に結びつようなものではなくなっています。
 消費の拡大は、一時的に経済の拡大につながりますが、それはもはや恒常的に供給の拡大を必要するものではなくなり、じきに再び供給過剰の世界が繰り返されるのです。
 これに対して、新しく生まれる経済の原理が創造です。創造は、需要とも供給とも次元を異にする人間生活の原理です。それは、ある面では需要であり、ある面では供給でもあるのですが、単なる量的な需要や供給ではありません。需要としては無限の需要であり、供給としては対応する需要を必ずしも必要としない自足した供給なのです。
 新しい経済の原理は、この創造を軸として形成されます。その創造の核となるものが人間です。
 未来の社会を論じる人の中には、人工知能のような新しい物や技術の生産が人間社会を切り開くと考える人もいます。しかし、これまでの需要と供給という社会の枠の中にいる限り、物やサービスの生産は、永続的な発展の動因にはならないのです。
 創造を軸とした新しい社会を、今の社会になぞらえて描くとすれば、それは、企業を中心に生産者と消費者が同心円を描く社会ではなく、子供を中心にその子供たちを育てる人々が同心円を描く社会です。
 なぜなら、人間の中でも特に子供たちの成長こそが創造の源泉であり、創造を原理とする社会では、その子供たちを育てることが社会全体の関心になるからです。
 農耕社会では、土地を開墾し農作物を育て、それらを収穫するまでの時間が投資の時間でした。工業社会では、工場を建て人を雇い原材料を仕入れ、それらを生産し販売するまでの時間が投資の時間でした。
 創造社会が完成に向かうと、もはや投資という考え方自体もなくなるのですが、今の工業社会の延長にある間は、投資という仕組みが一時的に必要です。創造社会では、子供たちが成長するまでの時間と、その間の教育や文化が投資の内容となるのです。
 経済の破綻から避難する場としての自給自足経済は、自給自足に留まるかぎり避難の場でしかありません。その経済の中心に、子供たちの創造的な成長を位置づけることによって初めて、新しい社会の原理となるのです。
 子供たちに創造的な教育を行う際の最初の前提となるものが、本質的な教育です。
 これまでの教育は、受験を目的とした教育でしたから、子供たちの間に差をつけるための教育を行っていました。その結果、できる子には無駄な知識を教えることによって創造性を枯渇させ、できない子には自信を失わせることによって創造性を枯渇させていました。


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