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  2月23日(日)・24日(月)は、休み宿題
  オンライン作文クラスはなぜ上達が早いか――発表で育つ学力の個性
  勉強が楽しいものという感覚を持つために
  読めていない読解力、解けていない読解力――質問する生徒ほど力がつく
  合格しなくたって大丈夫
 
言葉の森新聞
2020年2月3週号 通算第1599号

https://www.mori7.com/mori

森新聞
2月23日(日)・24日(月)は、休み宿題
 2月23日(日)と24日(月)は、休み宿題です。
 オンラインクラス及び先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日9時~19時50分、土曜9時~11時)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 課題の説明の動画「授業の渚」http://www.mori7.com/nagisa/
オンライン作文クラスはなぜ上達が早いか――発表で育つ学力の個性
 オンライン作文クラスはなぜ上達が早いかと言うと、皆が必ず作文の準備をしてくるからです。
 その準備の中心は、自分の体験実例や両親への取材です。
 テーマに合わせて具体的な実例を考えてくるので、そのテーマが自分のものになるのです。

 人間は、ただ人から教わっただけのことはすぐに忘れてしまいます。
 しかし、自分が人に教えたことは、ずっと深く自分の中に残ります。
 だから、勉強は教わるよりも教える方が力がつくのです。

 作文の準備の発表は、教える勉強です。
 もちろん、個別指導の時間の中では、先生に教えてもらうことがあります。
 しかし、実力が伸びるのは、自分が準備してきたことを皆の前で発表することによってなのです。

 この準備が更にはっきり出てくるのが、創造発表クラスの発表です。
 自分で研究したり実験したりしたことを、皆の前で発表します。
 その発表の中で、自分の研究した中身が確実に自分のものになるとともに、学力が個性的に成長していきます。

 これからの勉強で大事なことは、この学力の個性です。
 これまでは、国語・数学・英語・理科・社会が満遍なくできることが勉強rの目標でした。
 受験のための勉強では総合点が合否の基準ですから、苦手なものが少ないほど合格可能性が高くなるからです。
 そういう時代が長く続いてきたために、親も子も成績を見るとつい悪いところに目が行き、その悪いところをどうにかしようと思ってしまうのです。
 もちろん、欠点は少なくするのに越したことはありません。
 しかし、これからの時代に重要なのは、欠点が少ないことではなく、ダントツの長所があることです。
 それが学力の個性なのです。

 ダントツの長所というと、初めから自分には無理だと思ってしまう人がいるかもしれませんが、それは学力をこれまでの主要教科のようなものとして考えているからです。
 これからの学力は、そういう枠組みに入らないものになります。

 例えば、理科という教科全体ではなく、理科の中でも生物の分野が好きで、その生物の分野の中でも鳥という生き物が好きで、その鳥についての関心の中でも特に鳥を飼うことが好きで、というようにどんどん深く細分化された学力に分かれて行くのです。
 そういう細分化された学力が例えば10通りあり、そして、もう一つ分野でも細分化された学力が10通りあるとすると、その組み合わせは10×10の100通りになります。
 こう考えて行けば、いくつかの学問の分野を組み合わせてダントツの学力セットを持つということは、誰にとっても十分に可能なことになるのです。

 そして、個性的な学力を持つことの利点は、ただ仕事に役立つというだけでなく、その学力をさらに伸ばすことが自分の楽しみになるというところにあります。
 現在は、東大の推薦入試や京大の特色入試だけが個性的な学力の受け皿になっていますが、これからの先進的な大学や会社は、すべてこの方向に進みます。

 全教科がオールマイティにできるというだけの学力は、AIの学力と変わりません。
 将来の入試は、辞書持ち込み可、スマホ持ち込み可になるか、あるいは入試そのものがなくなるでしょう。
 学力の個性を持ち、それを伸ばしていく意欲さえあれば、他人からの評価は二義的なものになるからです。
勉強が楽しいものという感覚を持つために
 日曜日9時の作文読解クラスでは、小学1年生から4年生までの子供たちが、毎回作文の準備をし楽しく発表しています。

 低学年の自由な題名課題が多いせいもあり、一週間の間に行った出来事を写真や動画で発表する人が結構います。

 あるとき、YouTubeの動画で作文の準備をアップロードした子がいて、それを見た他の子供たちも、作文の予習をYouTubeでアップロードしたがるようになりました。

 毎回そういうことを続けるのは大変なときもあると思うので、たまに構想図だけの発表や、場合によっては口頭だけの発表になってもいいと思います。
 しかし、この毎回の子供たちとお母さんの作文の準備の発表は、あとになると必ずいい思い出になります。

 私(森川林)も、子供が保育園に通っていたころ、連絡ノートに毎日、子供に関する笑い話のようなことを書くようにしていました。
 朝の忙しいときですから結構大変でしたが、今になってそのノートを読み返してみると、当時の忙しかった中でも面白かった子供との交流が思い出されてきます。

 現在、小学校低中学年の子のお母さんは、子供の作文の予習の準備や創造発表クラスの発表の準備などで苦労しているだろうと想像できますが、それは何年かたつと、必ず懐かしい思い出になっていると思います。

 親子でそのような関わりが持てる時期は、小学校時代のほんのわずか数年で、子供が大きくなるともうそのような交流はできなくなります。
 だから、しばらくの間の辛抱だと思って、子供と楽しく作文や発表の準備をしていってくださるといいと思います。

 この苦労がどういうところでプラスになるかというと、それはただいい思い出になるというだけではありません。

 子供は、お母さんやお父さんの後ろ姿を見て育ちます。
 お母さんが、毎週と作文や発表の準備で、いろいろな実験や経験を工夫して苦労しながらも楽しんでいる様子を見せると、子供は勉強というものは本来楽しいものだという感覚を持つようになります。
 これが最も重要なことなのです。

 今の子供たちの多くは、勉強は辛くて苦しいもので、面倒だが我慢してやるものだという感覚を持っています。
 そういう子供たちが大きくなり、大学生になり、社会人になると、受験が終わったからもう勉強はしなくて済むというふうな考え方になります。

 勉強は、本当は自分が自由な時間を持てるようになってから、自分から進んで楽しいものとしてやっていくものです。

 この勉強の面白さというものを感じることができるのが、お母さんやお父さんが楽しそうに勉強的なことをしていた後ろ姿なのです。
読めていない読解力、解けていない読解力――質問する生徒ほど力がつく
 読解力は、読む力と解く力が組み合わさったものです。
 だから、読解力がないという場合、どちらの比重が高いかによって対策も異なってきます。

 読めていない読解力とは、設問の周辺だけを見て答えてしまうような読み方をするレベルの読解力です。
 長い問題文の中で、「AはBですか」という設問があったとき、AとBの話が書いてある1、2行あとのところだけを見て答えてしまうような読み方です。

 ところが、読解検定のような難問の場合、その設問が問われている箇所からかなり離れたところに、もっと重要なAとBの話が出ていることがあります。
 そして更に、内容的にはAとBのことであっても、表現の上でAやBという言葉が使われていない場合もあるのです。

 こういう問題文を読む力をつけるには、かなり時間がかかります。
 しかし、方法は簡単です。その方法とは、難しい文章を読む練習を続けることです。

 そのもっともやりやすい方法が、問題集読書です。
 しかし、問題集読書は続けにくいので、自主学習クラスなどでやっていく必要があります。

 なぜ家庭では続けにくいかというと、問題を解いて○×をつける勉強ではなく、ただ繰り返し読む勉強なので、親子だけで続けるには張り合いがなさすぎるからです。
 高校生ぐらいになれば、勉強に対する自覚があるので、問題集読書という勉強も続けられますが、小中学生が自分の意志だけで問題集読書を続けるのは難しいと思います。


 さて、もう一つの「解く読解力」は、「読む読解力」とは異なります。
 読む力のある子なのに、正しく解けていないという場合が、解く読解力がないということです。

 正しく解けない理由は、設問の答えを問題文の中だけに限定せず、自分の考えや世間の常識の範囲で考えてしまうからです。

 この場合の対策は、比較的簡単です。
 (1)一般論として考えるのではなくその問題文に書かれている範囲で、(2)必ずしもそうとは言えないところがあるとすれば、(3)その選択肢は○ではない、という三重否定を頭の中で考えて選択するのです。

 解く力をつけるためには、考える力がなければなりません。
 しかし、逆に言えば、こういう二重否定、三重否定の論理の筋道をたどっていける思考力があれば、国語の読解問題は誰でも100点近い点数が取れるようになるのです。

 例を挙げてみます。
 「浦島太郎」の話をもとにした問題文があるとします。
 その問題文で、「浦島太郎は亀を助けました」とだけ書いてあったとしたら、設問の選択肢に、「太郎は、亀がかわいそうなので助けました」とあった場合、この選択肢は○ではないのです。
 自分の感覚や、浦島太郎一般の話の範囲では、正しいように見えても、問題文の範囲に限ってみれば、「必ずしも正しいとは言えない」から「○ではない」ということです。


 読解検定をやっていて国語の成績が上がる生徒は、自分の選択がなぜ間違っていたのかという質問をよくする生徒です。
 先日、「国語の得意な丘」や「保護者掲示板」に、何人かの生徒から質問が入っていました。
 こういう質問をする生徒は、必ず国語の成績が上がります。

 だから、今度、質問専用の掲示板を作り、できるだけ検定試験のあとに質問を入れてもらうようにし、生徒どうしが互いの質問を見られるようにしようと思っています。
合格しなくたって大丈夫
 毎年この時期になると、「志望校に合格しました」という知らせとともに、「合格しませんでした」という知らせも受けます。

 そのときに、いつも思うのが、「合格しなくたって大丈夫」ということです。

 勉強をよくしていて、考える力も十分にあり、読書も好きで、性格もよく、絶対に合格してほしい生徒が合格しなかったという報告を受けると、「その学校は人を見る目がなかったんだなあ」と思います。
 合格しなかったのは、受験した生徒の問題ではなく、受けた学校の問題です。
 だから、合格しなかった人は、それを乗りこえて、「合格しなくてよかった」と思うような人生をこれから歩むことになるのです。

 私も昔、出版社と新聞社を受けて、ペーパー試験はもちろん楽勝でしたが(ホントか)、面接で軽く落とされました。r

 それまで、大きい試験で不合格になるというようなことはなく初めての経験だったので、心からがっかりしましたが、すぐに、「あんなところに受からなくてよかったと言えるような人生にしよう」と考えを切り換えました。

 だから、不合格の人も、考えを切り換えることです。
 たぶんもう切り換えていると思いますが。

 しばらくすると、不合格ということが、自分の人生の一つのエピソードになります。
 生きていれば、山もあり谷もあり、時には山頂に立つことも、谷底に落ちることもあります。
 しかし、振り返ると、それらがどれも自分の人生のそれぞれの色どりになって、その人の個性を形成していくのです。

 不合格になった人は、その不合格が自分の勲章になるような生き方をこれからしていってください。
 失敗は、あとから振り返ると、すべて自分の勲章になるのです。




                             
 
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