言葉の森新聞
2018年4月2週号 通算第1510号 https://www.mori7.com/mori |
森新聞 |
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■作文力は文章力ではなく準備力 |
「材料七分に腕三分」という言葉がありますが、作文の場合は、「準備七分に腕三分」です。 これは、作文だけでなく、スピーチや対話や仕事にも共通することだと思います。 受験に合格する作文を書く力も同じです。 作文力は、上達するのにかなり時間がかかるので、実力で合格作文を書くレベルまで行くには最初からある程度文章力があることが必要になります。 そこまでの実力がまだない人はどうしたらいいかというと、それが準備なのです。 毎回の作文で、テーマに合わせて、自分で考えたり、調べたり、お父さんやお母さんに取材したりするのが準備です。 準備をすれば、材料が豊富になります。 その材料を組み合わせて作文を書くので、長くも書けるし、読み応えのある作文も書けるようになるのです。 そういう練習を行っていると、作文の試験のときにも使える材料が蓄積されていきます。 蓄積される材料の中には、実例だけでなく、表現や主題も含まれます。 それらの実例や表現や主題は、そのテーマのときだけに使えるのではなく、ある程度応用範囲があります。 受験作文コースでは、過去問に沿った課題で勉強しますが、過去問とそっくり同じ課題でやる必要はありません。 例えば、ロボットの話がよく出る学校でも、科学技術一般の課題で材料を増やしていけばいいですし、音楽の話が出る学校でも、藝術一般の課題で材料を増やしていけばいいですし、歯科の話に絞られた学校でも、医療一般の課題で材料を増やしていけばいいのです。 材料を豊富に持っている子は、受験作文のときも、課題に合わせた材料を自分の過去の蓄積の中からすぐに取り出せます。 これが、合格する作文を書くコツです。 この受験作文の準備と同じことを、小学校低学年からやっていくといいのです。 小学校低学年の生徒には、実行課題集という教材があります。小学3年生から6年生まではは題名課題と感想文課題に合わせた予習シートがあります。 これらをもとに、子供が親に聞くだけでなく、親が子供によりよい材料を見つける機会を作ってあげるのです。 この親子の関わりは、確かに親にとって負担になる面があります。 しかし、その負担を楽しむつもりでやっていくといいのです。 ▽関連記事 「子供は家庭の中で育つ」 https://www.mori7.com/index.php?e=2879 |
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■小さいうちにいい子にしすぎないこと――「いい子」には二つの意味がある |
言葉の森に、小学校低学年から来る子には、とてもいい子が多いです。 成績も優秀で、親の言うこともよく聞き、ていねいではきはきしていて、模範的な小学生であることが多いのです。 ところが、そういう子供たちの何割かは、大きくなると悪い子になるのです(笑)。 悪い子というと大げさですが、親の言うことを聞かなくなるとか、学年が上がるとやる気がなくなるとか、そういう意味の悪い子です。 なぜそうなるかと言うと、子供時代のいい子というのは、親の期待に沿う意味のいい子だったので、子供は我慢していい子を演じていたということなのです。 子供時代の悪い子というのは、親が何かを言っても、自分の意に沿わなければ「いやだ」というようなことを言う子です。 親が「こっちに行こう」と言っても、「いやだ。あっちに行きたい」と言うような子です。 その悪い子は、ある意味で自主性があるから悪い子になっていると言えるのです。 一方、子供時代もいい子でありながら、大きくなってもそのままもっといい子になる子もいます。 それは、親の関わり方の差のようです。 子供を、親の言うとおりに育てるのではなく、子供の自主性を尊重しながら親子の関わりを深めているというところにそのコツがあります。 この典型的な例として思い浮かべるのは、いつも同じことを書くようですが、さかなクンの子供時代です。 幼児のころ、さかなクンは、公園で暗くなるまでひたすら泥団子作りを続けました。それをお母さんはずっと見守っていたのです。 このように、自主性を尊重しながら関わりを持つということが子育ての極意です。 自主性を奪うような関わり方ではなく、また放任に近い自主性の尊重でもなく、温かく見守りながらその子のやりたいことを伸ばすとい微妙なハンドルさばきが必要なのです。 その意味で、子育てには、子供それぞれに異なっている面があります。 だから、大事なことは、子供のことをよく見、よく聞き、よく触れ合い、そしてすべてを子供の立場で考えることです。 子供に対する深い関わり方が親のエゴを実現することにならないように、視点をいつも子供の立場に置いておくといいのです。 子供がみんなに評価されるようなことは、親にとってうれしいことですが、コンクールに入選するとか、何かの賞をもらうとかいうことは、子供の成長にとって意味があるわけではありません。 親の自慢にとって意味があるだけです(笑)。 本当のいい子というのは、親にとってのいい子なのではなく、その子供の成長にとっていい子であるということなのです。 本当のいい子というのは、素直でありながら反発もできるという子です。 そういう子でなければ、世の中に出てから、周囲の反対を押し切って自分の意志を貫くということはできません。 と考えれば、もっと大きな視野で子供を見ることができると思います。 話は少し変わりますが、今度の保護者懇談会は、この子育てのコツについて、みんなで話し合うような場にしたいと思っています。 |
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これまでのように、保護者の質問に先生が答えるという形式ではなく、保護者どうしが少人数のグループで子育ての経験を交流するというようなセッションです。 こういうワールドカフェ的な保護者懇談会の企画を考えています。 |
■できていないことを叱るのではなく、できるようにさせて誉めることが大人の役割 |
忘れ物をしたり、遅刻したりする子がいた場合、その忘れ物をしたことや、遅刻したことを叱っても、あまり効果はありません。 人間は、叱られることによって、よい習慣を身につけるのではなく、褒められることによって少しずつよい習慣を身につけていくからです。 だから、親や先生の役割は、子供が失敗したことを叱ることではなく、子供に成功させるようなやり方をさせ、その結果成功したことを褒めることなのです。 評価の本当の役割もそこにあります。 テストというと、子供を冷たく評価して、できていないところを指摘することが目的のように考えている人も多いと思います。 しかし、テストの本当の役割は、そのテストの目標ができるようにさせて、その結果を褒めることにあるのです。 とくに、作文のテストというと、できていないところを指摘することのように考えている人がよくいます。 しかし、テストというのは、そのテストをきっかけにして、これまでできなかったことをできるようにさせることにあります。 例えば、字数がなかなか伸びない生徒も、テストだからということで、先生が協力してこれまで書けなかった字数まで書くようにさせると、それが自信になり、その字数まで書く実力がつきます。 先生の役割は、冷たく評価することではなく、子供と一緒に目標を達成することにあるのです。 そうしたテストのとき、「今日は、千字まで書かなかったら不合格だからね」と事務的に冷たく言う先生と、「今日はテストだから、先生と一緒に千字まで書くようにがんばろう」と熱く言う親身な先生と、どちらいい先生かと言えば、もちろん一緒にがんばろうとする先生の方です。 そして、更にいい先生は、言葉だけでなく、子供に実際にその目標の字数まで書かせてしまう先生なのです。 ▽関連記事 「うまく行っていないときほど、その中でのよいところを褒める」 https://www.mori7.com/index.php?e=2824 |
■暗唱の効果と続け方 |
勉強は理解することであって、覚えることではないと考えている人が多いと思います。 しかし、それは実は逆なのです。 掛け算の九九を考えてみるとわかると思いますが、掛け算を一覧表にして理解して覚えようとすれば、暗唱よりもずっと長い時間がかかります。そして、不正確にしか覚えられません。 音読をして暗唱する覚え方であれば、覚えようという意識をしなくても、自然に口をついて出るようになります。 しかも、その記憶が一生残るのです。 勉強には、理解する知識と、身体化する知識の両方が必要です。 暗唱は、身体化する知識の方です。 |
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百人一首の暗唱をすると、日本語の語彙や情感が身体化されるのです。 そして、効果はそれだけではありません。 学校の勉強で、中学生ぐらいになると、いろいろと覚えなければならない知識が出てきます。 暗唱をしている子は、それらの知識を習得する度合いが速いのです。 暗唱検定に合格する子が増えています。 しかし、まだひとりで家庭で暗唱に取り組むだけでは途中で挫折してしまう子もいるようです。 そういう子供たちのために、寺子屋オンラインの自主学習クラスでは、毎週暗唱のチェックも行うようにしています。 子供はやはり、ほかの友達と一緒に勉強を共有することで楽しく続けることができるのです。 ところで、暗唱のいちばんいいやり方は、動きながらやることです。 だから、歩きながら暗唱したり、体を動かしながら暗唱したりすると、楽に暗唱できるようになります。 また、ゆっくり読むのではなく、できるだけ早口で読むことです。 こういうことがわかってくると、何かを覚える必要があるときに、すぐに取り組めるようになります。 日本語の暗唱だけでなく、英語の暗唱もこのやり方で身につけることができます。 |
■デジタルよりも紙、ばらばらのプリントよりも製本されたもの |
デジタルの情報は便利です。 検索もできるし、コピーもできるし、必要に応じて自分の好きなように加工できます。 だから、情報はデジタルで処理していくといいのです。 しかし、学習はそうではありません。 それは、学習というものが、情報を身体化する作業だからです。 身体化には時間がかかります。 コピー、貼り付けという機械的な作業ではできません。 何度も同じことを繰り返して、少しずつその情報が自分の身体に染み込んでいき、やがて意識せずにその情報が引き出せるようになるのです。 その身体化に必要なものは、同じものを、同じ順序や同じ配置で、同じように繰り返すことです。 そのときに、デジタル情報の加工のしやすさがかえって定着を妨げます。 身体化された情報は、あの辺の棚にある、あのぐらいの大きさの本の、確かあの辺に書いてあったはずだという身体の感覚と結びついています。 だから、学習の基本は紙ベースで、その補助的なールとしてデジタルがあると考えておくといいのです。 その紙についても、ばらばらになりやすいプリント類ではなく、1冊に製本されている問題集の方が基本になるのです。 通い慣れた道は、道順を意識しなくても歩けます。 それは、道順が身体化されているからです。 勉強も、同じです。 早く身につけるためには、1冊の同じ本を同じ順序で繰り返しやるのがいいのです。 1冊の問題集のできなかったところにだけ印をつけてやり直すというのは手間がかかりますが、それが身体化のいちばん能率のよい方法なのです。 |