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  作文も、音読も、勉強も、理解より慣れが大事な勉強
  低学年のうちから自分で勉強する習慣を――そして厳父慈母の実践
  精読とはゆっくり読むことではなく素早く何度も読むこと
  作文に生かすことわざの引用と加工
 
言葉の森新聞 2015年10月3週号 通算第1390号

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森新聞
作文も、音読も、勉強も、理解より慣れが大事な勉強
 大人は、子供たちの勉強を見て、間違えたところをすぐに直そうとしたり、できなかったところをすぐに理解させようとしたりしがちです。
 その気持ちはわかりますが、そういう勉強の仕方をしていると、まず教える人がくたびれてきます。そしてだんだん叱るようになってきます。
 次に教えてもらう子の方が最初は真面目に聞いていますが、だんだん気分が乗らなくなってきます。
 そして最後に、教える方も、教えてもらう方も疲れ果ててしまい、勉強が続かなくなるのです。
 勉強の仕方で最も大事なのは、長続きさせることです。どんなによい教え方をしても、長続きしなかったら、その勉強は身につきません。長続きさせることを再優先して勉強させるというのが、勉強の仕方の鉄則です。
 では、長続きさせるためにはどうしたらよいかというと、それはにこやかに見守るだけにするのです。
 それでは、できなかったところがいつまでもできないままではないかと思う人もいると思いますが、できなかったことも繰り返しているうちに自然にできるようになるのです。
 ただし、そのためには、できなかったところを繰り返し勉強する仕組みを作ることが大切です。
 「作文が書けない」「書くことがない」「どう書いていいかわからない」などという質問を体験学習の子供たちから時どき受けます。
 そのときに、教える側が真面目になって、書くことを引き出そうといろいろアドバイスをすると、ますます書けなくなります。
 書けない原因の第一は、読書不足です。第二は、これまで注意されすぎてきたことです。
 だから、アドバイスの方法でいちばんいいのは、口頭でアドリブで書くことを言ってあげることです。
 「じゃあ、今から先生が言うとおりに書いてね。『きょう、ぼくはあさ6じにおきました。あさごはんは、なっとうとたまごやきでした。』はい、書いてごらん」
 こういう感じで言ってあげると、子供たちは、安心して素直に書き出します。そして、途中から、「なっとうとたまごやきじゃなくて、パンとぎゅうにゅうだったんだけど」などと言いながら自分で書くようになるのです。
 書き終えたら、たとえそれがほとんど先生の言ったとおりであっても、褒めてあげて、それでおしまいです。
 言葉の森に体験学習に来る生徒の中には、作文が超苦手という人もよくいます。
 そういう子供たちが、体験学習の1回めから苦もなく書き出し、やがてどんどん書けるようになり、作文が得意になっていきます。
 それは、作文に慣れるように教えているからなのです。
 音読も同じです。
 国語があまり得意でない子は、つっかえつっかえ読んだり、読み間違えたりします。それを近くで聞いているお母さんが、注意して直そうとすれば、音読はますます苦手になり下手になっていきます。
 何も言わずににこやかに聞いていれば、やがて上手に読めるようになります。
 これも、慣れです。慣れれば誰でも上手になるものなのです。
 勉強も同じです。
 算数や数学でできない問題があったとき、教える側はついわかりやすく説明してその場で理解させることがよいことだと思ってしまいます。
 しかし、いちばんよいのは、子供が自分で苦労して、「あ、わかった」というわかり方をすることです。
 
 だから、できなかった問題は、少し説明してわからないときは、それ以上説明をせずに、次の日にもう一度同じところをやって、解法と答えを読ませるといいのです。
 それを何度か繰り返し、それでもわからないときは、問題と解法と答えを書き写し、それを覚えてしまうぐらいにします。
 そうすると、ほとんどの場合、その問題に慣れて自然に理解できるようになります。
 それでもどうしてもわからないときは、生徒掲示板に書いて、先生に聞けばいいのです。
 音楽や運動は、頭での理解よりも身体の慣れだということをみんな知っています。
 知的な理解も大切ですが、そこに使う時間はわずかで、練習量のほとんどは身体が慣れるための時間です。
 勉強もそうです。
 特に、国語や作文の勉強は、他の教科よりもずっと運動や音楽の習得に近い勉強です。
 慣れるためには、いつもにこやかに褒めて、長続きさせていくことが大事なのです。
 戦後教育を受けた世代は、理解というものを重視しすぎるところがあります。
 「丸暗記ではなく、理解することが大事だ」と言う人が多いのですが、本当は、理解よりももっと大事なものが慣れなのです。
 赤ん坊は、歩き方を理解してから歩くのではありません。まず歩き始めて、何度もころんでいるうちに歩けるようになります。
 その場合、大事なのは歩いて向こうに行きたいという目的です。
 勉強の場合は、正解という目的があります。目的さえわかっていれば、多くは慣れでできるようになるのです。
低学年のうちから自分で勉強する習慣を――そして厳父慈母の実践
 小学1、2年生のころは、勉強する内容も簡単で、子供が親や先生の言うことをよく聞く時期ですから、ついいろいろなことを教えたくなります。
 しかし、ここで、親のペースで勉強させると、子供はそのときは楽しくやっているように見えますが、内心は親にコントロールされている自分に肯定的な感情を持てなくなります。
 人間は誰でも自分の意思で自由に行動したいと思っています。人に言われたとおりにやることが好きな人はいません。しかし、「教える―教えられる」という関係ができあがると、言われたとおりにやることが正しいことなのだと自分に言い聞かせてやり続けるようになります。
 こういうやり方が限界に来るのが、小学4年生ごろからです。このころになると自立心が育ってくるので、親に言われたとおりにやることに反発するようになるのです。
 本当は、小学5年生以降の勉強が難しくなる時期に、親と協力して勉強することが大事なのですが、低学年のときに親の言うとおりにやってきた子は、高学年になってから親とうまく協力することができなくなります。
 すると、親は子供の勉強を見ることができなくなり、その結果、学習塾などに勉強を任せるようになり、ますます子供の勉強に関与できなくなり、ただ点数の上でしか子供の勉強の実態がわからないという状態になるのです。
 こうならないためには、低学年のころから、子供が自主的に勉強する環境を作っておくことです。そのためには、親が手取り足取り勉強の内容を指示するのではなく、あらかじめやるべきことを、子供が無理なくできる範囲に絞って決めておき、子供が毎日の習慣としてその勉強をするのを、横で静かに見守るという接し方が必要になります。
 低学年のころは、親が無関心でいると意欲が低下するので、見守ることは大事なのですが、できるだけ口出しをしないようにする必要があります。
 そして、注意はできるだけ少なくし、よくできたときに褒めるという接し方をすることによって、子供は自主的に勉強する姿勢を身につけていきます。
 褒めるというのは、必ずしも直接褒めることに限りません。例えば、本をよく読んでいたら、「○○ちゃんは、本を読むの好きなんだね」というその行動を認めてあげるだけでいいのです。
 しかし、自主的な勉強と褒め言葉だけでは、時に子供がさぼったり、ずるをしたりする場面も出てきます。こういうことができるのも、人間に自主性があるからなのですが、それをそのままにしておくと、あとで修正するのが難しくなります。
 こういう場面で登場するのは、やはり父親です。
 特に男の子は、知っていて悪いことをするということがよくあります。それは、ある意味で、自分がどこまでやると叱られるか試している面もあるのです。
 母親は、そういうときの注意は苦手です。母親の注意は、愚痴のような小言になることが多く、子供を叱るというパワーに欠けることが多いのです。
 叱り方の原則は、厳しく短く一度だけです。何度も同じことを言うような叱り方では、叱られることに免疫ができてしまい、ますます何度も言わないと言うことを聞かないというようになります。
 母親の役割の中心は、叱ることではなく、優しく認めてあげることです。
 その分、父親が厳しい叱り方の役割を分担する必要があります。しかし、それは、父親が憎まれ役を買うというのではありません。厳しく一度だけ叱って、あとを引かない父を、子供は尊敬するからです。
 しかし、それを子供の教育でそのままやってしまうと、子供の自主性が育たなくなることがあります。
 子育てで大事なことは、親がきちんとやることではなく、子供が自分でやるように仕向けることです。
 そうすると、きちんとやれないことも出てきます。しかし、そのきちんとやれないことも含めて子供が自分の力でやることが大事なのです。
 一方、父親は一般的に、手芸や料理のように細かいことが苦手です。
 晩酌のつまみなども、ひとりのときは、冷蔵庫にあるニンジンに味噌をつけてそのままボリボリかじったりします。
 しかし、そのきちんとしない分、肝心なときに子供の前に登場することができるのです。ウルトラマンみたいです。
精読とはゆっくり読むことではなく素早く何度も読むこと
 先日、中学3年生の生徒の保護者から相談がありました。国語の模試の成績が悪かったのでどうしたらよいかというのです。
 そういうときは、点数よりもまず実際の試験問題と解答用紙を見る必要があります。
 点数が悪いと言っても、問題のない悪い点もありますし、重症と言える悪い点もあります。点数は二の次で、まずはその中身なのです。
 試験問題と解答用紙を見てみると、いろいろな問題がありましたが、中でもいちばん重症だと思えたのは、試験問題をじっくり読みすぎていることでした。
 文章の中の単語をいくつも丸で囲んで読んでいるのです。目だけで読んでいるのに比べて、手を動かすと読み方が格段に遅くなります。
 遅くなる分じっくり読んでいるとも言えるのですが、そういう読み方は、時間制限のある試験向きの読み方ではありません。
 国語の問題文は、日常的に読む文章比べると難しいものであることが多いので、繰り返し読む必要があります。繰り返し読むためには、傍線を引いて読む必要があります。傍線を引くのと丸で囲むのとでは、手を動かすスピードが全く違います。
 傍線を引く箇所は、大事なところというのではありません。1回目の読みで、大事なところはよくわからないのが普通だからです。
 では、どういうところに傍線を引くかというと、それは、自分なりによくわかったところ、面白いと思ったところ、何かピンと来たところ、という主観的な感じをもとにしたところです。
 国語の試験問題は、結びの部分に全体の内容理解の鍵となる文章が入っていることが多いので、じっくり読むのではなく、スピードを上げてなにしろ最後まで一気に読むことが大事です。
 これは、読書でも同じです。
 本の内容を理解するには、何しろできるだけ早く最後まで読み切ることで、何日も時間をかけてゆっくり読めば読むほど、内容理解はしにくくなるのです。理解するということは、全体を把握することで、部分を積み重ねることではないからです。
 試験問題の場合も、素早く最後まで読み切ると、全体像がおぼろげながらわかってきます。そこで、最初に傍線を引いた箇所だけを、飛ばし読みでもう一度読んでみるのです。
 傍線を引いた箇所は主観的に引いたところですから、その傍線を引いた箇所をつなげるだけで、自分なりの全体把握ができてきます。
 自分なりの全体把握ができれば、個々の設問を解くときも、傍線の箇所を基準に、どのあたりを詳しく読めばいいのかがわかってきます。
 精読とは、ゆっくり読むことではありません。何度も繰り返し読むことです。繰り返し読むためには、できるだけ素早く読むことと、自分でいいと思ったところに傍線を引いて読むことが大事です。
 本に線を引くというのは、慣れないとなかなかしにくいものですから、普段の問題集読書を利用して、傍線を引きながら読む練習をしておくといいのです。
 精読とは、ゆっくり読むことではなく、何度も繰り返し読むことです。
 文章の理解は、個々の単語や文や段落を積み重ねてできるのではなく、全体を何度もなぞることによってできてきます。
 部分の理解は、全体の理解のあとにやっていけばよいのです。
 その全体を何度もなぞる方法が、音読です。
 音読はひとりでは続けられません。近くで聞いてあげる人が必要です。
 しかし、その人は、音読の仕方についてあれこれ注意してはいけないのです。これが難しい。
作文に生かすことわざの引用と加工
 小学生が、作文にことわざを引用すると、その部分がひとつの光る表現になります。
 平板な事実の中に、感想の深みが出てくるのです。
 しかし、ことわざというものは、意識して出てくるものではありません。その文章の文脈の中で自然のひらめきとして思いつくものなのです。
 だから、子供に、「こういう(事実の)ときに、どんなことわざを使えばいいか」と聞かれても、すぐには答えは出てきません。
 ことわざの引用を意識的にすることは、大人でも難しいのです。
 ところで、ことわざの引用が文章を効果的にするのは、小学生までの間です。
 中学生や高校生、更に大人が文章にことわざを引用すると、その部分だけかえってありきたりの表現になってしまいます。
 せっかく個性的な事実を書いておきながら、それをありあわせの言葉でしめくくってしまうというのがことわざの直接的な引用です。
 大人の場合は、ことわざはそのまま引用するのではなく、加工して引用するといいのです。
 ことわざの引用と同じように陳腐な表現になりやすいのが、流行語の引用です。
 少し前までよく使われる表現に、「背中を押される」というのがありました。自分の迷いを振り切って行動するように促されるというような意味です。
 イメージ力のある言葉ほど鮮度が落ちるのも早いので、何度か使われているうちに、かえって古臭い表現のようになってきました。
 文章は、伝える中身が大事ですから、表現は平凡でいいのですが、その流行語を使いたいときもあります。
 そのときに使うのが、流行語の加工です。
 例えば、「背中を押される」の代わりに、「お尻を押される」とか「お腹を引っ張られる」とかいう表現を使うのです。(かなり変ですが)
 しかし、この流行語の加工は、その流行語が既に共有されている人の間でしか通用しません。
 日本語は、同質の文化環境の中で育ってきた言葉なので、こういう共有の範囲がほかの言語よりもかなり広くなっています。
 例えば、誰かが閉まっているドアを開けようとしたときに、中にいる人が、「山」と言えば、自然に、「川」という言葉が出てきます。「え、山がどうしたの」などと言う人はあまりいません。
 この共有度の高さを生かしたものが、言葉の加工なのです。
 ことわざの加工は、高校生の小論文でも使えます。
 もちろん、それ以前に中身の文章がしっかり書いてあることが重要ですが、小論文を書き終えて時間の余裕のあるときは、文章の結びの5行の表現を工夫していくといいのです。
 その工夫の方法が、ことわざの加工や、流行語の加工や、自作名言や、書き出しのキーワードに戻ることなどなのです。
 ことわざを作文に引用すると、小学生の間は、事実に深みが出てきます。
 しかし、中高生になると、個性的な事実を、ありきたりの見方でしめくくってしまうおそれが出てきます。
 だから、ことわざを使いたいときは、ことわざを加工して使うのです。
 そのいちばん簡単な例は、反対の意味にして使うことです。
 例えば、「木から落ちるサルは滅多にいない」「川を流れるカッパはカッパとは言えない」「ウリのつるにナスビをならす」「五十歩と百歩は二倍も違う」「医者の養生」……いくらでも出てきます。
 
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