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  【重要】暗唱長文が以前読んだものと重複している方はご連絡を
  言葉の森と寺子屋オンエア(その1)
  言葉の森と寺子屋オンエア(その2)寺子屋オンエアと他の教育方法との違い
  教育の世界でも、物のデフレと文化のインフレが進む
  ICT教育を、人間の主体性を育てる教育にするには
  国語力をつける勉強から、国語の成績を上げる勉強へ その1
 
言葉の森新聞 2014年11月2週号 通算第1345号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
【重要】暗唱長文が以前読んだものと重複している方はご連絡を
 言葉の森では、これまで何種類も送られていてわかりにくかった教材を、課題フォルダの1種類だけに絞り、他はウェブで見られるようにしました。
 しかし、この際の課題の長文などの編集の際に、以前既に読んでいた暗唱長文が重複して表示される学年も出てしまったようです。ご迷惑をおかけした皆様、申し訳ありませんでした。
 もし暗唱長文で、既に読んだものが入っていたということがありましたら、ご連絡ください。
言葉の森と寺子屋オンエア(その1)
 言葉の森は、作文の専科教室です。作文の指導だけを約30年間続けてきました。
 なぜ、ほかの勉強、例えば漢字の書き取りとか、計算練習とか、国語の問題とか、算数数学の問題とか、英語の問題とかいうわかりやすいものをやらなかったかというと、そのような勉強は、誰かに教わらなくても自分でできるものと考えていたからです。
 これに対して、作文の勉強というものは、第三者の見る目がないと自分では評価のしようがありません。作文は、音楽やスポーツに似ていて、他人からの評価がないとうまく勉強できないのです。
 しかし、その後、意外と作文以外の基礎的な勉強のできていない生徒がいることがわかり、途中から国語の読解問題なども言葉の森の勉強の中に入れるようにしました。
 この国語の読解問題の解き方のコツは、かなり優秀な生徒で、既に中学3年生や高校3年生の受験モードに入っている生徒でも、よくわかっていないことがありました。これは、たぶん今でもそうです。
 毎月第4週の読解問題は、しばらく前から2問だけに絞って課題フォルダに掲載していますが、これは2問とも正解にしてもらうためです。読解問題は、理詰めで解いて満点を取ることで初めて力がつきます。6割できたとか7割できたとかというところで満足していたのでは実力はつきません。満点を取ることを目指し、もしできないところがあったら答えを見て、なぜそうなのかと自分で理屈で理解して初めて力がつくからです。
 さて、話は戻って、言葉の森では、独学では勉強しにくい作文の勉強を、小学1年生から高校3年生まで、場合によっては幼児から社会人まで長年指導してきました。
 大学入試の小論文は、実は言葉の森の指導は、ほかの予備校などの指導よりもずっと優れていると思います。予備校でも小論文の指導を受け、言葉の森でも小論文の指導を受け、両方を比較できる立場にいる受験生が、皆同じように言葉の森の指導がわかりやすく役に立ったと言っているからです。もちろん、小中学生の作文指導も同様です。
 作文は進歩の遅い勉強ですが、言葉の森のやり方で続けていけば、誰でも必ず上達します。高校生のように入試の小論文を意識して勉強している場合は、大体1年間で自分でもうまくなったという実感がわきます。本当は、教える先生の目から見ればもっと早くから上達しているのですが、本人が自分で実感としてうまくなったと感じるのは1年間ぐらいたってからです。
 ところが、作文の面では上達している生徒が、意外にも、普通の教科の勉強では苦手なものがあったり、能率の悪い勉強をしたりしているということがよくありました。
 それは、なぜかというと、国語の読解問題の解き方と同じように、勉強の仕方がよくわかっていないままただ時間をかけて勉強しているというケースが多かったからです。
 
 その勘違いした勉強の仕方の根は、小学生時代から始まっているようでした。
 勉強は、本来もっと短時間で簡単に楽しく済ませられるものです。それで実力がつくのです。
 ところが、勘違いした勉強法で勉強していると、長時間の複雑な苦しい勉強をしていながらなかなか実力がつきません。しかし、その複雑な苦しい勉強の仕方の方が、子供も親も先生も、真面目にしっかりやっているように感じてしまうのです。
 本当は、小中学生の成長には、勉強よりも、遊びや趣味や読書や対話のような勉強以外の自由な時間が必要なのですが、多くの親や先生は、そういう自由な時間は無駄な時間と考え、生活時間をできるだけ勉強で埋めようとしてしまいます。
 その結果、小学生の最初のころは成績がよくても、中学生、高校生と学年が上がるにつれて、思考力や集中力の不足が表面に出てくるようになり、かえって成績が伸び悩むことも多いのです。また、自由な時間の少なかった子は、大学生や社会人になってから創造力の不足が表面化してきます。
 こういうことがわかってきたので、言葉の森では、作文の勉強とは別に、独自の方法で小中学生の全教科の勉強を見る仕組みを作りました。それが、寺子屋オンエアです。
言葉の森と寺子屋オンエア(その2)寺子屋オンエアと他の教育方法との違い
 寺子屋オンエアは、ウェブ会議システムを使って、少人数での自宅学習を毎日チェックして指導する仕組みです。
 これまでこういうシステムで勉強を教えているところはなかったので、ただ説明をしても実感としてわかりにくいと思います。そこで、既にある従来の勉強法の弱点と比較する形で説明します。
 第一は、通学式の学校や塾での一斉指導との違いです。通学式の一斉指導という教育法の利点は、友達との交流ができることと、教える側の負担が少ないことです。しかし、通学の弱点は、通うのに時間がかかることです。また、一斉指導の弱点は、わかる生徒にとっては参考書を読んで自分で勉強すれば講義を聞くよりももっと能率よくわかることと、わからない生徒にとってはわからないまま講義を聞くだけで終わりになってしまうことです。
 これに対して、寺子屋オンエアの指導の長所は、わざわざ通わなくても自宅で勉強できること、それぞれの生徒が個別に自分に合った勉強をすることができ、その方法もチェックしてもらえることです。
 第二は、紙媒体の通信教材との違いです。紙媒体の通信教材の利点は、自宅でできること、比較的低価格でできることです。弱点は、子供が自分で勉強を始めるのが難しいので親の指示が必要になること、紙の説明だけで理解できるように作らなければならないので、低学年向けの簡単なものは一律に作成できるが、学年が上がると個々の生徒の理解度の差には対応できなくなることです。
 これに対して、寺子屋オンエアの長所は、先生が生徒の勉強状況をチェックできるので、親の指示がなくても勉強が始められることと、個別に対応できることです。
 第三は、通学式の個別指導の塾や、自宅に教えに来てくれる家庭教師などとの違いです。個別指導や家庭教師の利点は、生徒に応じた個別対応ができることです。弱点は、比較的高価なこと、友達との交流がないこと、通学や訪問というものは距離に制約されているので必ずしもよい先生と出会えるとは限らないことです。
 これに対して、寺子屋オンエアの長所は、個別指導でありながら、友達との交流もできることです。また、ネット上の指導のため距離の制約がないので、生徒と先生の相性なども柔軟に調整できることです。
 第四は、ネットを使った通信教育との違いです。ネット教育には多様な可能性がありますが、今出ているものは、紙媒体の通信教材をそのままネット化して発展させたようなものがほとんどです。
 ネットを使っているので、堤出や返却などのスピードがあります。また、紙媒体のものよりもマルチメディアで魅力的な教材が作られ、しかも紙媒体のような印刷や郵送のコストがかからないディジタル配信なので、かなり低価格に作ることができます。
 この典型的な例が、アメリカのMOOCに見られるような一流の授業と優れた教材の無料配信システムです。このネット教育の分野は、いずれはグローバルな数社の寡占状態になると思われます。特に理数系の分野は世界共通ですから、世界の理数系教育を、世界的な1社か2社が独占するというような状態に近づいていくと思います。
 ネット教育の利点は、自宅でできること、優れた教材が低価格で提供されること、マルチメディアの面白さがあること、堤出と返却にスピード感があることなどです。
 しかし、今のネット教育の弱点は、これまでの紙媒体の通信教育をネット化しただけというところにあります。そして、ネット教育を行う企業側の動機は、コストを下げることにあるので、個別指導ではなく一斉指導をスモールステップ化したものになります。そのスモールステップの勉強を生徒が進めていく動機は、ミニテストの評価によって引き出すという形になるのです。
 今のネット教育の弱点は、優れた教材をスモールステップ化した形のものが多いので、低学年の易しい課題のときは誰でもできますが、学年が上がり個々の生徒の得手不得手が出てくるようになると、できる子とできない子の差が出てくるようになります。それをテストで動機づけしても、やはりできる子とできない子の差は出てきます。
 その結果、今の学校や塾の一斉指導が直面している問題である、中間の位置にいる子を焦点に当てた勉強にならざるを得ない面があるのです。
 寺子屋オンエアは、一斉指導ではなく個別指導の教育です。また、授業を教えるような教育ではなく生徒の自学自習を促す教育です。また、生徒が孤独に勉強する教育ではなく、生徒相互の交流も生かす教育です。
 こういう形の教育であれば、できる子はできる子なりに、できない子もできない子なりに、自宅で自分のペースで、個別の指導を受けながら、友達との交流も生かして勉強を進めていくことができます。
教育の世界でも、物のデフレと文化のインフレが進む
 昔は、ただでくれるものなら、要らなくてももらっておくという発想をする方が普通でした。しかし、今は、要らないものなら、ただでも、お金をもらっても要らないという人が増えています。
 物の価値がどんどんなくなり、物でないものの価値が大きくなってきたのです。
 要らないものなら、もらいたくないという考えのもとになっているものは、自分らしい生活スタイルで生きていきたいという価値観です。つまり、物よりも、形のない文化の方が、人間の価値観の基準になりつつあるのです。
 これは、教育の世界でも起こっています。
 今は、優れた教材が低価格で豊富に手に入るようになっています。しかし、だから、今の子供の方が昔の教材の乏しかった時代の子供たちよりも賢くなっているかというとそういうことはありません。
 物としての教材がいくら豊富でも、それをどう使うかという文化が伴わなければ、豊富な物はその豊富さゆえにかえって学ぶことの邪魔にさえなるのです。
 勉強のコツは、1冊を繰り返して完璧に仕上げることです。同じものを同じようにやることが、退屈ではあっても勉強の王道です。しかし、教材が豊富な環境にいると、1冊をそこそこに仕上げたら、すぐに次の新しい教材に取り組むという人が多いのです。
 その結果、どの教材も8割か9割しかできないことになり、その子はいつまでたっても学力が向上しないのです。
 これから、物はますます低価格化が進みます。低価格化が進行するものは、ごく少数の大企業の寡占化の状態に陥ります。それは、競争によって活性化する市場ではなく、ひとつの安定した公企業の提供するインフラのようになっていきます。松下幸之助が述べていた水道哲学の社会、つまり、水道のように物が安価に大量に行き渡る社会になっていくのです。
 一方、文化は高価格化が進行します。人間が関わる個性的なものは、物の値段とは桁が違う形で高価格が進みます。
 例えば、かつての茶道の文化の中では、一つの茶道具が現在の価格で数億円、数十億円で取引されていたものもありました。
 文化というものは、必需性の希薄なものです。お茶、お花、俳句、ゴルフ、サッカーなど、今の世界で文化として確立し、一定の経済規模のあるものも、その文化が全くなかった状態から立ち上げるとすれば、参加者を募るだけでも難しいと思います。それは、その文化が、人間の必要性に根ざしていない個性的、文化的なものだからです。
 このような時代には、教育の内容も、その重点が物から文化へと移っていきます。
 物の教育とは、実力をつけるための教育で、MOOCなどに見られるように安価で優れた教材が豊富に出てくるので、誰もがその教材を利用して最高の教育を受けられる環境を手に入れます。
 しかし、人間はブロイラーではないので、優れた教材を豊富に与えられてもそれにすぐに取り組めるわけではありません。
 物の教育を習得するためには、意欲づけや、その子に応じた取り組み方の手順や、うまくいかなかったときのフォローなど、個性的な対応という文化的なものが必要になってきます。
 文化の教育とは、その物の教育の受け方のノウハウと、その教育によって実力をつけたあとの個性と創造の教育です。
 言葉の森では、今、この教育の「物」的側面より、「文化」的側面を生かす教育の方法を考えています。
 それは、具体的には、これまでの作文指導に寺子屋オンエアの仕組みを組み合わせたようなものになる予定です。
ICT教育を、人間の主体性を育てる教育にするには
 今のICT教育は、子供が楽しく取り組めるように動画や音声のリッチコンテンツを多用し、それぞれの子供の進度に応じたきめこまかい教材提示や評価ができるように教材を細分化し、スモールステップ方式で単元化するという方向に進んでいます。
 この方向は、これまでの、黒板による一斉授業よりもはるかに効率のよいものです。
 しかし、そのICT教育の背景にある教育観に、ブロイラーを育てるような発想を感じることがあります。
 その教育観をひとことで言えば、教育とは与えるべき餌をいかに効率よく食べさせてその子を成長させるかにある、というようなことになると思います。
 効率よく餌を食べさせるというのは、教育の初期には確かに大事です。漢字を覚えたり、計算の仕方を覚えたり、理科や社会の基本的な知識を覚えたりするのは、教育の出発点であり、だれでも身につけなければならない土台です。
 しかし、人間の成長にとって大事なのは、その出発点のあとに、自分の足でどう歩いていくかという時期の教育です。
 ICT教育の多くは、低学年の子供や勉強の苦手な子供が、楽しく効率よく勉強できるようにするという点では、さまざまな工夫がなされています。
 しかし、その先の学年の教育や勉強の得意な子供の教育に関しては、かえってICTのサービスが邪魔になっている面もあるのです。
 勉強の得意な子は、紙の上に書かれている文字情報を自分で読み取り理解するのが、一般に最も能率のよい勉強法です。動画や音声が流れたり、ゲームの要素があったりする教材は、かえってわずらわしいものなのです。
 勉強の本質は、人に教わることではありません。授業を聞いている時間は、まだ何も見についていない時間です。授業のあと、ひとりで机に向い、復習をしたり予習をしたり自分で考えたりする時間が本当の勉強の時間です。
 しかし、今のICT教育は、そういうひとりで考える時間を生かすという発想があまりありません。
 言葉の森では、現在、ネットとパソコンを利用した独自のICT教育を構想しています。
 教育の最も基本的なツールは、モニター画面やキーボードやマウスではなく、本とノートと鉛筆です。その本とノートと鉛筆を活用するために、ネットとパソコンがあるという発想をしていく必要があると思います。
国語力をつける勉強から、国語の成績を上げる勉強へ その1
 言葉の森は、設立当初は、受験とか成績ということをあまり意識せずにずっと作文の勉強を教えてきました。だから、最初のころ言葉の森に参加した生徒は、みんな受験や成績にあまり関係のない子たちでした。勉強のよくできる子や、、小中高一貫校に通っていて受験の心配のない子が多かったのです。
 その傾向は今でもあります。特に小学校低学年の子は、何か必要に迫られて作文の勉強をするというよりも、書くことが好きだから、又は面白そうだからという動機で作文の勉強を始める人が多いようです。
 しかし、そういう子供たちも大きくなれば、みんな入試に直面します。小学生のころ教えていた生徒が、中学生や高校生になると、時どき入試の相談を受けるようになりした。
 最初は、大学入試に小論文があるという生徒に、その大学の入試傾向に対応した文章の書き方を説明するようにしていました。
 言葉の森は、もともとは、大学生の作文指導からスタートした教室なので、受験小論文のノウハウは豊富だったのです。
 ところが、そのうち、国語の読解力をつけたいという生徒が増えてきました。
 実は、国語の得意な生徒は、国語の勉強をしたから得意になったというのではありません。国語力は教わってつくものではなく、国語的な生活環境や生活習慣の中でつくのです。(つづく)
 
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