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  10月29日(火)・30日(水)・31日(木)は休み
  第4週は清書。幼稚園生は作文
   清書の意義と方法
   清書の投稿
   手書き清書の送り方
  読解問題の答えの書き方、送り方
  パソコン入力清書の送り方
  いつもうれしい気持ちでいること
  子供の反抗期と親の権威
  長い字数の作文の宿題を出されたら
  黙読よりも音読、視写よりも音読
  善意の空転から、実利の回転へ
 
言葉の森新聞 2013年10月4週号 通算第1294号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
10月29日(火)・30日(水)・31日(木)は休み
 10月29日(火)・30日(水)・31日(木)は、第5週でお休みです。先生からの電話はありません。振替授業もお休みです。
第4週は清書。幼稚園生は作文
 幼稚園年中と年長の生徒は、第4週も普通の作文を書く練習です。自由な題名で作文を書いてください。
 小学1年生以上の生徒は、清書を行います。
 清書をしたあと、時間に余裕のある場合は、読解マラソン集にある読解問題をしてください。
清書の意義と方法
 清書とは、これまでに書いた作文の中で内容がよかったものを書き直すことです。内容がよいとは、個性、感動、共感などがあるということです。
 書き直すときは、次の点に留意してください。
(1)漢字で書けるところは漢字で書く。
(2)たとえや自作名言を工夫できるところがあれば工夫する。
(3)似た話や続きの話を書くことによって字数を増やす。
(4)作文用紙の空いているところに絵などをかいてもよい。
清書の投稿
 清書した作文は、小学生新聞や一般紙などに投稿してみましょう。
 手書きの清書の原本を、新聞社に投稿したり、コンクールに応募したりする場合は、清書のコピーの方を先生に送ってください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(2)学年(3)自宅の住所(4)自宅の電話番号(5)学校名とふりがな(6)学校所在地(町村名までで可)など。
 投稿する際は、ペンネームを本名に訂正しておいてください。作文の中に友達の名前が固有名詞で入っている場合は、イニシアルなどに直しておいてください。投稿する作文の内容は、保護者がチェックしてあげてください。
 同じものを複数の新聞社やコンクールに送らないようにしてください。これは二重投稿といって、もし両方に掲載されてしまった場合、掲載先に迷惑をかけることになります。
●朝日(あさひ)小学生新聞の投稿先
 104-8433東京都中央区築地3-5-4朝日小学生新聞「ぼくとわたしの作品」係
(毎日(まいにち)小学生新聞は、作文よりも俳句を中心に掲載しているようです。)

 
※清書した作文を投稿しない場合でも、額などに入れて家の中に飾っておきましょう。
手書き清書の送り方
 手書きの清書も作文と同じように先生に送ってください、翌月の1週の作文と一緒に返却します。
 パソコンで清書を入力した場合、手書きの清書は必ずしも先生に郵送などで送る必要はありません。
 
 手書きの清書のスキャン画像を作文の丘からアップロードした場合も、先生に郵送などで送る必要はありません。
読解問題の答えの書き方、送り方
 清書が早く終わり時間に余裕のあるときは、読解マラソン集で読解問題をしてみましょう。
 読解問題は、小学校高学年以上の生徒が、国語の選択式問題のコツをつかむために作られています。高校生の場合は、センター試験などの選択式問題と同程度の問題です。ですから、小学校4年生以下の生徒は、無理に読解問題に取り組む必要はありません。
 問題を解く時間が取れない場合は、読解問題は省略するか最初の2問だけをやる形でも結構です。適当に全問やっても勉強にはなりません。じっくり取り組める範囲で取り組んでください。
 読解問題の答えを作文用紙に書く場合は、問題の番号と答えがわかるように書いてください。書き方は自由です。
 読解問題の用紙は返却しませんが、選んだ番号と正解は山のたよりに表示されます。
 読解マラソンの問題のページから答えを送信すると、その場で採点結果が表示されます。
(この場合、作文用紙に答えを書く必要はありません)
※図解の説明は、「学習の手引」の「10.読解問題と清書の仕方」をごらんください。
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パソコン入力清書の送り方
 4週の清書は、手書きで清書をした場合も、そのあと、できるだけパソコンで再入力したものを「作文の丘」から送ってください。これは、作文の進歩を生徒が実感できるようにし勉強の意欲につなげていくためです。
 清書を送る場合、週は必ず「4週」を選択してください。ほかの月や週を選択すると、その月と週の作文と講評が上書きされてしまいます。感想文を清書にする人は、三文抜き書きや要約の部分は省略するか、自分の言葉に直して書くようにしてください。
 ワードなどのワープロソフトは改行の際のスペースが正しく表示されないので、いったんメモ帳などにコピーしてメモ帳の上でスペースをつけてからインターネットで送るようにしてください。
 自宅でパソコン再入力ができない場合は、先生に(有料で)パソコン入力を依頼することもできます。その場合は、手書きの清書の住所シールの余白に「入力依頼」とご記入ください。
(入力依頼の料金は1文字1円で、翌月の受講料に加算して引き落としいたします)
 パソコンからの清書の送り方は、「学習の手引」の図解を参考にしてください。わかりにくいときは事務局に直接お電話をしてお聞きください。
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いつもうれしい気持ちでいること
 空を見ても、うれしい。木々を見ても、うれしい。
 風が吹いても、うれしい。箸がころんでも、うれしい。
 そういう理由のないうれしさが、本当のうれしさです。
 うれしいとき、人は時にニュースで悲惨な記事のタイトルを目にしても、そこに目が止まりません。読む必要があるものだけを読み、自分の感性に合わないものは自然に見落としてしまうのです。
 ひるがえって、子供の褒め方で、よくできたから褒める、がんばったから褒める、いいことをしたから褒める、というのは相対的な褒め方です。そういう褒め方をしていると、直したい欠点も次々と見つかります。
 本当の褒め方をするために、まず自分がうれしい気持ちになることです。
▽関連記事
「未来の心身教育」
http://www.mori7.com/index.php?e=725
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 子犬は、不眠症になったり、うつ病になったり、アルコール依存症になったり、何かを恨みに思ったり、後悔したり、絶望したり、生きることに不安を感じたりはしません。いつも、自分のありのままの状態に満足して生きています。主人が来れば喜び、遊んでくれれば更に喜び、えさに喜び、散歩に喜び、晴れていても雨が降っていてもただ今いること自体を喜んで生きているように見えます。この子犬の境地になることが、人間の目指す意識のあり方なのです。
子供の反抗期と親の権威
 小学校高学年になって、子供が親の言うことを聞かなくなるのは、親の権威がないからです。それは、小学校低学年のころに、親が権威ではなく権力で言うことを聞かせていたからです。
 ゲーム機の話で言えば、ゲームの時間を決めて子供にコントロールさせるようにするのが権威です。ゲーム機を隠したり、禁止したり、使えなくしたりするのが権力です。
 戦後の日本は、個を主張し権威に反抗することが民主主義であるかのような教育が行われてきました。その結果、親が権威を持てなくなり、子供を正しく叱れないようになってきたのです。
 正面からきちんと叱ることができれば、普段は子供を叱る機会などほとんどありません。だから、楽しい親子関係ができるのです。
 親が子を思い、子が親を思うような関係が、日本における集団の縦のつながりです。だから、子供に伝える倫理観の出発点は、個の主張よりもまず親孝行です。
 子供が中学生になり反抗期になると、子供に遠慮して何も言わなくなる親が多いと思います。しかし、そういうときこそ、親がきちんと子供を叱るチャンスなのです。
 このことに関連して、時々感じるのは、父親の影の薄さです。しかし、それは、父親の責任だけではありません。家庭の中で父親を立てていくような母親の役割が欠けていることも多いのです。
 父親を立てる母のもとで、子供をきちんと叱る父と、愛情あふれる母によって、子供が自然に親孝行に育つというのが、家庭の本来あるべき姿です。
長い字数の作文の宿題を出されたら
 小3の子が、学校から1200字の作文を書いてくるようにとの宿題を出されました。字数には個人差があり、長く書ける子と、長く書けない子の差は、はっきりしています。
 一般に、小3の生徒が書く字数は、300字から600字です。ですから、1200字の宿題というのは、どの子にとっても負担が大きすぎます。
 しかし、こういう長い作文を書く方法は簡単です。いっぺんに1200字を書こうと思うから大変なのです。日数に余裕があれば、1日目に400字、2日目に次の400字、3日目に最後の400字を書けば、合計で1200字です。このやり方は、夏休みの宿題の感想文を書くときにも使えます。
 ただし、1日目に何を書き、2日目に何を書き、3日目に何を書き、最後のまとめの感想をどういう形にするかというおおまかなレイアウトを考えるのはお母さんです。小学生の子供は、小5になるまでは、そういうレイアウトはまずできません。物事の全体の構造との関連で部分を見ることができる能力は小5から育つので、要約の練習なども小5からでないと無理があるのです。
 作文の宿題というのは、あまり意味がありません。書く力のほとんどは、読む力と考える力の結果であって、書く力そのものを伸ばす分野は限られているからです。
 書く力そのものとして伸ばす分野は、構成力、字数力、表記力です。作文の肉付けになる題材力、表現力、主題力のほとんどは、作文の中で勉強するものではなく、読む勉強と考える勉強の中で行うものです。
 だから、小学校低学年で毎日日記を書くというのも、実はそれほど勉強としての意味があるわけではありません。むしろ、日記を書かせて、書いたあと注意することによって、書くことを苦手にしてしまうマイナスの方が大きいのです。
 子供に間違いだらけの作文を書かせて、それを次々と直すというのは、最もよくない勉強法です。いい勉強法は、読む力をたっぷりつけて、自然に正しい書き方を最初からできるようにしておくという方法です。
 では、なぜ言葉の森では、小1(あるいは幼長)から作文の勉強をすすめているかというと、週に1回作文を書くことによって、毎日の読む勉強と話をする勉強のきっかけを作ることができるからです。
 「習い事は6歳から」とよく言われます。それは、6歳のころから始めたことは、勉強というよりも生活の一部になるからです。週に1回作文を書き、毎日音読をし、時々お父さんやお母さんと対話をするということが生活の一部になると、それだけで勉強の最も大事な骨格ができたことになるのです。
黙読よりも音読、視写よりも音読
 子供が小学校中学年になるころから、音読を嫌がるようになることがあります。なぜ音読を嫌がるようになるかというと、音読をすると親に注意されるからです。
 「声が小さい」とか、「読み間違えた」とか、「姿勢をよくして」とか、注意する方が気楽ですが、音読をするたびにあれこれ言われる子供の方はたまりません。だから、音読を嫌がるようになるのです。(又は、親のいないところで読むようになるのです。)
 今の親の世代のほとんどは、子供時代に音読という勉強の仕方をしていません。「慣れるより習え」という理屈本位の教育観が広がっていたころに、子供時代を送った人が多いからです。
 だから、子供に勉強を教えるときも、理屈で教えようとしてしまいます。それが、読み方に対する注意にも表れてきます。注意すれば、すぐにできるようになるはずという理屈に基づいた教育観があるからです。
 しかし、子供の学力は、そういう形ではつきません。下手でも、間違えて読んでも、ふざけて読んでもいいから、何しろ繰り返すことが大事です。繰り返しているうちに、注意したかったようなことは自然に直っていくのです。これが、「習うより慣れよ」という日本に昔からあった教育観です。
 では、なぜ黙読よりも音読の方がいいのでしょうか。それは、黙読で同じ文章を繰り返し読んでいると、すぐに斜め読みになり、やがて文字を眺めるだけになり、読むことにならなくなるからです。同じ文章を繰り返し読むために、音読が必要なのです。
 では、視写はどうなのでしょうか。ある文章を視写するとき、大事なことは、同じ文章を繰り返し視写することです。1つの文章を1、2回視写するだけでは、あまり意味がありません。
 しかし、視写は音読の5倍以上の時間がかかります。同じ文章を5回以上視写するような勉強は、ほとんどの子ができません。音読なら、視写を1回するのと同じ時間で5回以上繰り返し音読することができます。だから、視写よりも音読の方がいいのです。
 視写は、形の残る勉強です。だから、先生も、親も、子供も、視写の方があてのある勉強のような気がしますが、それは形の上だけのことです。勉強を内容本位に考えるなら、視写よりも音読なのです。
 ところで、音読というと、「枕草子」や「平家物語」という有名な文章の音読に意味があるように考える人がいます。それは、文化の音読であって、教育の音読ではありません。
 音読は、誰もが知っている有名な文章を覚えることに意味があるのではありません。自分の好きな文章で、自分が将来書きたいと思うような文章を音読することが教育の音読です。
 音読の目的は、文章を丸ごと理解する力をつけることと、語彙力、表現力、思考力、作文力を向上させることにあります。だから、音読は気長に繰り返すことが大事で、繰り返すためには読み方の注意などはせずに、毎日褒めて楽しく読めるようにしてあげる必要があるのです。
善意の空転から、実利の回転へ
 お金の役割は、貯めることにではなく、物を動かすことにあります。
 人間の希望や善意は曖昧なものなので、よほど強い動機がなければ物を動かすところまでいきません。ところが、お金を介すると、それほど強くない動機でもはっきりと輪郭が見えるようになるので、物事が動き出すのです。例えば、何かがほしいかどうかを尋ねられたとき、どのくらいほしいかを表すのがその物の金額です。
 人間の生活には、さまざまな制約があります。身体も、感情も、言語も、人間の自由を阻む本質的な制約です。しかし、それらの制約が同時に人間の創造性の前提になっています。
 お金もそういう制約のひとつです。だから、お金は、不自由さの源であるとともに、世の中を動かす動因でもあるのです。
 将来、お金の必要のない時代は来るでしょう。既に日本では、江戸時代に、お金が制約でない社会が萌芽状態で生まれていました。それが、「江戸っ子は宵越しの銭は持たぬ」社会でした。
 そういう時代になったとき、必要がなくなるのは貯めるためのお金です。そのとき、お金の役割は、貯めるお金から動かすお金になります。
 これからの時代に必要なのは、お金を貯める人でも、お金を稼ぐ人でもなく、お金を動かせる人なのです。
▽関連記事
「これから来る経済の大きな変化(SF風) その1」
http://www.mori7.com/index.php?e=1809
(その1となっていますが、続きはまだありません。)
 
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