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  【重要】9.1週作文進級テスト。先取りも可
  【重要】8月9日(月)〜14日(土)は休み宿題(再掲)
  振替授業について(再掲)
  夏休み中は返却講評が遅れることがあります(再掲)
  「もっと厳しく注意して……」とは言うが
  長所を見れば、長所が育つ
  優しい母が減って怖い母が増えたのはなぜか
  作文という勉強の特殊性
  暗唱を言えるようになった後も更に反復するのはなぜか
 
言葉の森新聞 2010年8月2週号 通算第1138号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
【重要】9.1週作文進級テスト。先取りも可
 9.1週に、作文進級テストを行います。
 提出が遅れた場合は進級できません。(9月8日ポスト投函まで)
 課題フォルダの字数・構成・題材・表現・主題の●印が全部できていることが合格の条件になります。(表現の項目などで「たとえ」と「ダジャレ」など二つ以上の項目が指定されている場合はどちらかができていればその項目は◎です)。キーワードと字数が採点の基準ですので、指定された字数以上で必要な項目が全部入る作文を書いていってください。中学生以上の時間制限については、今回は採点の基準にしませんが、できるだけ時間内に書き上げる力をつけていきましょう。
 手書きで作文を書く人は、項目ができたところにシールをはっておいてください。
 パソコンで作文を書く人は、キーワードを入れておいてください。
 小学生の場合は、提出する前に、おうちの方が字数と項目シールをチェックしてあげてくださるとよいと思います。
 小学2年生までの生徒は、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。7月以降に受講を開始した生徒も、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。ただし、いずれの場合も、賞状は出ますので、できるだけ字数と項目ができるように書いていってください。
 9月8日ポスト投函が締め切りですので、9月1週に作文が書けない人は、8月中に9.1週の作文試験を先取りして行ってください。
 なお、進級テストは、7月と8月のいずれの月も最低1回は作文を出していることが条件になります。7月又は8月の作文で、どちらかの月で1回も書いていない場合は、9月8日までの間に作文を提出してください。
【重要】8月9日(月)〜14日(土)は休み宿題(再掲)
 予定表に書いてあるとおり、8月9日(月)〜14日(土)は休み宿題になります。
 先生からの電話はありませんが、自宅でその週の課題を書いて作文を提出してください。
 ほかの日に教室に来るか教室に電話をして、その週の説明を聞いてから書くこともできます。
 休み宿題のときに、電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php
振替授業について(再掲)
 振替授業の受付時間は下記の通りです。
 (月〜金) 9時〜19時50分 
 (土)   9時〜11時50分
 振替授業の予約はできません。作文が書けるときに直接教室にお電話ください。なお、夏休み中は、混みあうことがあるため、20分くらいお待ちいただく場合があります。
 8月9日(月)〜14日(土)は、教室が夏休みのため、振替授業もありません。
夏休み中は返却講評が遅れることがあります(再掲)
 夏休み中は、教室が休みになる週と担当の先生が休みをとる週があるため、作文の返却や講評が一時的に遅れる場合があります。ご了承ください。
 
「もっと厳しく注意して……」とは言うが
 体験学習のお母さんから、「もっと厳しく注意してほしい」という要望をときどき受けます。しかし、それは、無条件にお断りしています(笑)。
 厳しく注意すればよくなるという発想に、実はもっと大きな問題があるのです。
 注意したり直したりして作文がうまくなるのであれば、すぐにみんな作文が上手になっています。しかし、作文指導に熱心な先生に教わると、注意したり直したりする指導が増える結果、作文が嫌いになる子が多くなるのです。
 作文を書くときに、「間違った書き方をして叱られたい」と思いながら書く子はいません。みなそれぞれ一生懸命に書いています。
 提出するときも、「さあ、今日は何を注意されるかなあ」と期待しながら出す子はいません。やはり、いいところを見て褒められたいと思いながら作文を出すのです。
 だから、基本は褒めることです。注意したり叱ったりするのは、意識的にさぼっているときだけです。
 では、欠点はどうしたら直るのでしょうか。
 第一は、読む力をつけることです。読む力がつけば、欠点は一言の注意で直ります。
 第二に、そのために、長続きすることを優先し、楽しく勉強することです。
 したがって、家庭でお母さんがすることは、間違いを注意することではなく、いつもよいところを見て褒めて、そのかわり、毎日の読む勉強としての暗唱や読書は妥協せずに続けることです。
 この逆の人、つまり、毎日の暗唱や読書の自習はせずに、作文の欠点だけを直すというやり方をする人が多いのです。
 子供が小学校低学年のときは、だれでも親の言うことを素直に聞きます。その時期に、親が勉強をやらせすぎると、大きくなって子供は親の言うことを聞かなくなります。
 子供が素直に言うことを聞く年齢であればあるほど、勉強に関しては甘く、しつけに関してだけ厳しくという姿勢が大事です。(ただし、その場合のしつけも、最小限のものです。例えば、あいさつをする、返事は「はい」と言う、くつをそろえる、イスをしまう、食事中はテレビを見ない、何でも正直に言う、などそれぞれの家庭でルールとして決めたことだけです)
 このやり方で子育てをすれば、親はいつもにこにこしていられるし、子供はいつも楽しく生活ができるのです。
長所を見れば、長所が育つ
 欠点直し優先ということに関連して、学習障害ということを取り上げます。
 学習障害という言葉は、一種の流行語のような感じがするほどよく使われています。子供の実際の姿を見れば、さまざまな長所が見られるはずですが、学習障害という言葉は、その子供の学習能力のごく一部の不得手な面だけを取り上げて、「ここに欠点がある」というレッテルを貼ってだけという場合がかなりあるご思います。
 これまでも、何人かの保護者の方から、「うちの子は学習障害で……」という相談を受けたことがあります。しかし、どの子も全く問題なく、むしろその学年の平均よりもよく書けるようになる子が多かったのです。
 中には、「学校の先生に、普通の学級ではついていけないから特殊学級に行くようにと勧められたが……」という相談もありました。しかし、その子は、体験学習のあと、すぐにその学年の子が書く作文をよりもずっと充実した作文を毎週楽しく書くようになりました。
 結局、どの子も、先生や親から、「欠点がある」ということだけを見られていたために、本人も自分自身を欠点の面からしか見られないようになっていただけなのです。一体、だれがその「学習障害」とか「特殊学級」とかいうことを決めていたのか、と言いたいところです。
 このように、「学習障害」という言葉の多くは、子供を見るときに、まず欠点から見るという発想によって生まれたものです。
 今ある長所を見ていけば、どんな子も大きな可能性に満ちています。たとえ今、どんなにやる気がないように見えたり、学力が思わしくなかったり、いたずらばかりしているように見えたりしても、少し想像力を働かせてみれば、その子が将来立派な社会人になって活躍する姿が目に浮かぶはずです。
 だから、今ある欠点だけを見て、その欠点を直すことだけ考えるのは、単に大人の想像力の不足なのです。
 現代は、人間の想念力が強くなっている時代です。親や先生が、その子を「だめな子だ」とか「○○障害がある」とか見れば、子供はそういう方向に育ちます。悪いところを見れば、子供は素直なので、その悪い方向に成長します。しかし、親や先生がその子のよいところを見れば、子供は素直にそのよい方向に向かって成長していくのです。
優しい母が減って怖い母が増えたのはなぜか
 私の母は、優しい人でした。母に怒られたり叱られたりしたという記憶がありません。
 小学生のとき、学校をちょっとさぼりたいときがあり、「今日は頭が痛い気がする」と言うと、すぐに熱を測ってくれて、ほとんど平熱なのに、「うーん、ちょっと熱があるから風邪気味かもしれないね。じゃあ、学校休もうか」「うん」ということも何度かありました。
 海辺の街で、言葉づかいの悪い友達が多かったので、たまに家の中で、「ばか」とか「てめえ」などと言うと、悲しそうな顔をして、「そういう言葉はつかうんじゃないよ」と優しく言いました。学校の成績がいいと普通に喜んでくれましたが、成績が悪いとか何が悪いとかいうことで注意されたことがありませんでした。
 かくれんぼをして地べたに寝ころんで服を泥だらけにして帰っても、何も言わずに洗濯をしてくれました。山で遊びまわり、服にアメリカセンダングサの種をいっぱいつけて帰ってきても、静かにその取りにくい種を取ってくれました。
 小学校のころ、夏休みの最後の日の夜になって、工作の宿題を作っていないことに気づき、そのことを母に言うと、「じゃあ、お母さんが作っといてあげる。いいから、寝なさい」と言ってくれました。さすがに夜中に気になってそっと隣りの部屋をのぞくと、母がボール紙と糸巻きでおもちゃのエレベータを作っていました。
 そういう子供時代をすごしたので、母親というのは優しいものだと思っていました。
 ところが、言葉の森で、子供たちに作文を書かせるとき、子供と話していて、「お母さん、優しいでしょ」と聞くと、10人中10人が、「ううん。怖い」と言います(笑)。
 なぜ母親が怖くなったかというと、日本の社会に、学歴主義の広がりという変化があったからだと思います。
 私が子供のころ、学歴というものはそれほど重視されていませんでした。みんな、生活に追われてそれどころではなかったのだと思います。
 しかし、その後、学歴で社会の入口が決まる傾向が出てくると、古い体質の組織では、入口に応じて出口も決まるような傾向になり、学歴で人生設計が大きく左右されるようになりました。
 だから、そういう社会で子供のことを考えれば、親が学歴に力を入れるのは当然です。現代の母親は、子供のためを思って怖い母親になっているのです。
 しかし、子供時代に叱られながら厳しく育つと、頭脳があまり成長しません。
 大学入試は、小中のころの成績よりも高校時代の成績と関連が高く、高校時代の成績は本人の意欲と結びついています。その意欲のもとになるのは、幸福な子供時代の蓄積です。
 また、人生に対する基本的な幸福感や、社会に対する根本的な信頼感や愛情も、ひとえに母親の優しさによっていると思います。
 母親がたまに怖いのはやむをえない面もありますが、できれば怖い役は父親に任せて、母親はできるだけ優しい存在であってほしいと思います。そして、その方が、長い目で見て子供のことを考えてあげたことになるのです。
作文という勉強の特殊性
 算数・数学は、答えが一義的にはっきりしています。もちろん、最先端の数学の勉強は、答えがまだないというところに面白さがあるのだと思いますが、普通の数学の勉強のレベルでは、答えがすっきり出るというところが勉強の面白さになっています。
 国語力に関しても、数学と同じように答えの一義性を求めたものが、○×式や選択式のテストです。しかし、そういうテストで測られる国語力は、本当の国語力とはややずれています。
 数学の勉強は、できなかった問題ができれば力がついたことになりますが、国語の勉強は、できなかった問題の答えが理解できてもできるようにはなりません。
 記述式の問題や作文・小論文の問題では、更にその傾向は顕著で、模範解答を読んで内容がすっかり理解できたとしても、模範解答と同じものが書けるようにはなりません。
 数学は、教科書にすべてが載っているので、教科書を完璧にマスターすれば、その学年の課題は習得できたことになりますが、国語は、たとえ教科書を完璧にマスターできたとしても、その学年相応の国語力がついたとはいえません。
 そこで、言葉の森では、作文・小論文にも、客観的な評価ができるように、項目指導という方法を開発しました。しかし、項目指導という方法だけでは、評価がおおまかすぎるという弱点がありました。
 例えば、小学校中学年で、「書き出しの工夫」「会話」「たとえ」「心の中で思ったこと」などの項目であれば、だれでもすぐにできるようになります。しかし、中学生に、「複数の理由」「伝記実例」「名言の引用」「反対意見の理解」などの項目を指示すると、今度は逆に、ヒントなしには書けない子がかなり出てくるのです。
 その後、項目指導よりももっと細かい客観評価ができるように、自動採点ソフト「森リン」を開発しました。しかし、森リンは、客観性はあるものの、今日がんばったから明日点数が上がるという性格のものではありません。点数の上下を繰り返しながら、1年近くかけて少しずつ点数の平均値が上がってくるという評価です。
 そこで、国語力の評価は、数学の評価とは根本的に違うのではないかと思うようになりました。
 数学の面白さは、「世界は手順を踏めば解ける」ということがわかる面白さです。そこに、一種の美的な感覚もあります。しかし、国語、特に作文には、そういう面白さはあまりありません。
 作文が好きな子は、何を喜びとして作文を書いているかと考えると、その動機は、いい点を取ることでも褒められることでもなく、書くことが楽しいから書いているのだということに気がつきました。
 作文を書いて表現をすることが楽しいという感覚を持てるようになれば、それは国語の点数がよいという自信よりも、ずっと長く続く子供たちの財産になります。
 今後、その発表の面白さを実感できるような評価方法を工夫していきたいと思っています。
暗唱を言えるようになった後も更に反復するのはなぜか
 最初に暗唱を始めたころ、よどみなくすらすらと暗唱できた子が、慣れてくると、だんだん思い出しながら言うようになることがあります。また、意味は合っているが、表現が微妙に違っているということもあります。例えば、「……したら」を「……すると」と読むなどの例です。
 これは、「暗唱の手引」に沿って暗唱の練習をしていないからです。つまり、毎日の反復練習の回数が少なく、「覚えたからいい」、「言えるようになったからいい」、というふうになっているからだと思います。
 暗唱は、「大体言える」という程度では、あまり力がつきません。完璧にすらすらと言えるぐらいになっていることが大事です。
 それは、なぜでしょうか。
 人間と道具との関係を考えてみます。例えば、人が、楽器を使う、絵筆を使う、ペンを使う、剣を使う、という場合です。
 最初は、人が道具を媒介して世界と対峙するという関係になっています。
 しかし、その道具を反復して使っていると、やがて、長期間の練習を経て、人と道具が一体化するようになります。「普通に道具を使う」という段階から、「自分の手足のように使う」という段階になるのです。
 すると、そこで、自分が表現的に拡大するという状態が生まれます。眼鏡が自分の目を拡大し、補聴器が自分の耳を拡大するように、自分の表現力が「道具を使っている」という意識なく、拡大するようになります。
 道具と自分が一体化して、道具による表現が自分自身の表現であるようにできるようになると、その表現力の拡大に合わせて、実は感受性も拡大します。例えば、詩を書く人は、世界を詩的に見ます。詩を書かなかったら感じなかったような細部を感じるようになるというのが、表現力が感受性を規定するということです。
 表現力がなかったときには、見えなかったもの、感じなかったものが、表現力の拡大に伴って、見たり感じたりすることができるようになります。これは、道具を単に道具として意識して使っているときとは、レベルの違う見方、感じ方です。外見上は、「普通に道具として使うこと」と「自分の手足のように使うこと」との間に、あまり差はないように見えますが、自己の拡大という点で、実は質的な差があります。その質的な差が、感受性の差になります。
 暗唱の場合も同じです。思い出しながら言う暗唱と、自分の体の一部になったかのように言う暗唱との間には、質的な差があります。
 自分の一部となった暗唱ができるようになると、そこで言葉の把握力が増してきます。だから、暗唱の力がついてくると、読書をしたときの吸収度も違ってきます。暗唱が理解力を高めるというのは、こういう関係があるからです。

 
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