言葉の森新聞 編集用
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  新学期の教材を発送しました
  3月29日(土)・31日(月)は休み
  3月の作文送信及び読解マラソンの記録は28日(金)までに
  中学生から受講料が変わります
  【重要】作文検定模試
   幼中、幼長、小1の課題とヒント(作文検定模試12級)
   小2の課題とヒント(作文検定模試11級)
   小3の課題とヒント(作文検定模試10級)
   小4の課題とヒント(作文検定模試9級)
   小5の課題とヒント(作文検定模試8級)
   小6の課題とヒント(作文検定模試7級)
   中1の課題とヒント(作文検定模試6級)
   中2の課題とヒント(作文検定模試5級)
   中3の課題とヒント(作文検定模試4級)
   高1、高2、高3、社の課題とヒント(作文検定模試3級)
  自発的な学習意欲を育てるために
  日本の文化力を高めるために
 
言葉の森新聞 2008年3月4週号 通算第1024号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
新学期の教材を発送しました
 新学期の教材は3月17日(月)・18日(火)に発送しました。体験学習中の方にもお送りしています。
 国内の生徒で25日になっても届かない場合はご連絡ください。

★項目シールと住所シールは、4月1週の山のたよりと一緒に送ります★
3月29日(土)・31日(月)は休み
 3月29日(土)・31日(月)は第5週でお休みです。先生からの電話はありません。振替もお休みとなります。
3月の作文送信及び読解マラソンの記録は28日(金)までに
 3月29日(土)、ホームページのデータが一斉に入れ替わります。インターネットを利用して作文を送っている方は、3月の課題を3月28日(金)までに「作文の丘」から送信してください。それ以降は正しく送信できなくなります。
 また、今学期の読解マラソンの記録も3月28日(金)までにお願いします。
中学生から受講料が変わります
 小学生までの受講料は8,200円でしたが、中学生からは受講料が9,100円になります。4月の引き落とし分から受講料が変わりますので、ご了承ください。
【重要】作文検定模試
 3月4週に作文検定模試を行います。
 通信生徒の場合は、通常の作文と同様、自宅で書いて先生に提出してください。自宅で書く形のため、時間制限などができませんので、正式の作文検定ではなく模擬試験という扱いになります。
 通学の生徒の場合は、時間制限のもとで行いますので、正式の作文検定となります。(課題は、通信教室とは異なるものを当日配布)
 通信生徒でも、横浜市港南台の通学教室に来られる方は、正式の作文検定として受検できます。人数に制限がありますので、ホームページから事前に予約をしてください。
 通学の生徒は、予約をする必要はありませんが、通常の曜日と異なる曜日に出席する場合は予約ページで予約をしてください。
予約のページ http://www.mori7.com/mori/yoyaku.php (3月21日(金)午後8時より受付開始)
 通学教室の作文検定の日程は、3月22日(土)〜3月28日(金)(平日は午後4時から6時の間に入室。土曜は午前9時半から10時半の間に入室。時間は75分程度です)
 なお、作文検定も作文検定模試も、今回は費用はかかりません。
 検定結果の返却は4月下旬になる予定です。したがって、4月から退会される予定の生徒の場合は、検定試験ではなく通常の作文として添削したものを4月1週に返却します。

作文用紙の1枚目に自分の住所シールをはってください。住所シールのないものは受け付けません。
まだ作文検定模試を受けるには早いと思われる場合は、住所シールの余白に「作文」と書いておいてください。この場合、作文は翌週に返却します。
●作文検定模試は、誤字などもチェックできるように、できるだけ手書きで書いてください。しかし、パソコンで入力し作文の丘から送ってもかまいません。作文の丘から送られた作文は、すべて作文検定模試の扱いとします。
●学年別の字数の目標は、正味の文字数です。段落や改行の際の空白部分は字数には数えませんので、作文用紙で数える字数よりもやや多めに書いていくとよいでしょう。しかし、字数の目標より長く書いても点数は増えません。字数の目標より短くしか書けなくてもかまいません。
●課題についての質問は、事務局で受け付けます。担当の先生は、詳細については答えられませんのでご了承ください。
 質問は、父母の広場 http://www.mori7.com/nohara/hubo/ 又は、お電話で0120-22-3987(平日9:00-12:00)
作文検定模試の提出締め切りは、4月7日消印までです。それ以降に到着した作文は、通常の添削をして返却します。

幼中、幼長、小1の課題とヒント(作文検定模試12級)
▽課題
 自由な題名
▽項目
 会話(キーワードは、「 」)
 思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
▽字数の目標
 200字
▽解説
 「今日のこと」のような書きやすい題名で、そのときの会話と自分の思ったことを入れて作文を書きましょう。

小2の課題とヒント(作文検定模試11級)
▽課題
 自由な題名
▽項目
 会話(キーワードは、「 」)
 思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
▽字数の目標
 400字
▽解説
 「今日のこと」のような書きやすい題名で、そのときの会話と自分の思ったことを入れて作文を書きましょう。

小3の課題とヒント(作文検定模試10級)
▽課題
 自由な題名
▽項目
 会話(キーワードは、「 」)
 たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
 思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
▽字数の目標
 600字
▽解説
 「今日のこと」のような書きやすい題名で、そのときの会話とたとえと自分の思ったことを入れて作文を書きましょう。

小4の課題とヒント(作文検定模試9級)
▽課題
 家族と遊んだこと、給食やお弁当のこと(どちらかの一つの題名を選んでください)
▽項目
 会話(キーワードは、「 」)
 たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
 思ったこと(キーワードは、思、おもいました、おもいます、おもった、おもう、おもって)
 段落をつけて書く
▽字数の目標
 800字
▽解説
 第一段落に、説明を書きます。「私は、この間の日曜日、家族で……をしました。それは……」など。
 第二段落に、出来事1を会話とたとえを入れて書きます。「最初に、私が……をしました。すると……」など。
 第三段落に、出来事2を書きます。「去年の夏休みは、家族で……をしました。」など。
 第四段落に、感想を書きます。「私は、……と思いました。」など。
 必ずしも、段落のとおりに書く必要はありませんが、作文のどこかに必要なキーワードを入れて書きましょう。

小5の課題とヒント(作文検定模試8級)
▽課題
 私の好きな勉強・私の好きな日(どちらかの一つの題名を選んでください)
▽項目
 体験実例(キーワードは、私、わたし、僕、ぼく、体験、経験)
 たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
 わかったこと(キーワードは、わかった、分かった、わかって、分かって)
 段落をつけて書く
 常体で書く(敬体の「です」「ます」「でした」「ました」などを使わない)
▽字数の目標
 1000字
▽解説
 第一段落に、説明を書きます。「私の好きな勉強は……だ。それは、……」など。
 第二段落に、体験実例をたとえを入れて書きます。「この前、学校のテストで、難しい問題が出た。私は……」など。
 第三段落に、もう一つの実例を書きます。「私が、小学一年生のときに好きだった勉強は、……」など。
 第四段落に、感想を書きます。「私は、好きな勉強のときは、長い時間やってもくたびれないということがわかった。」など。
 必ずしも、段落のとおりに書く必要はありませんが、作文のどこかに必要なキーワードを入れて書きましょう。

小6の課題とヒント(作文検定模試7級)
▽課題
 私の得意な勉強・私の家(どちらかの一つの題名を選んでください)
▽項目
 体験実例(キーワードは、私、わたし、僕、ぼく、体験、経験)
 たとえ(キーワードは、まるで、みたい、よう)
 一般化の主題(キーワードは、人間、人)
 段落をつけて書く
 常体で書く(敬体の「です」「ます」「でした」「ました」などを使わない)
▽字数の目標
 1200字
▽解説
 第一段落に、説明を書きます。「私の得意な勉強は……だ。それは、……」など。
 第二段落に、体験実例をたとえを入れて書きます。「この前、学校の宿題がたくさん出たことがあった。私は……」など。
 第三段落に、もう一つの実例を書きます。「その勉強が得意になったきっかけは、小学一年生のとき……」など。
 第四段落に、感想を書きます。「私は、人間は何か一つ得意なことがあると、ほかのことにも……」など。
 必ずしも、段落のとおりに書く必要はありませんが、作文のどこかに必要なキーワードを入れて書きましょう。

中1の課題とヒント(作文検定模試6級)
▽課題
 長文「ふだん私たちは、コインを」を読んで感想文を書きなさい。
▽項目
 是非の主題(キーワードは、よい、大切、大事、重要、べき)
 複数の理由(キーワードは、理由、なぜ)
 反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
 段落をつけて書く
 常体で書く
▽字数の目標
 1200字
▽長文
 ふだん私たちは、コインを丸いものと見なしている。そして、百円玉、十円玉などと言う。もちろん、「丸い」とか「玉」と言っても、それは決してビー玉のような球形ではなく、つまり、正確には円盤形のことだと、誰でも承知している。コインをテーブルなどの上に置いたとき、あるいは床や地面に落としたとき、見おろすと丸く見えるということだ。コインが自然に安定しやすい姿勢で置かれているとき、人間の視線の自然な角度から見ると、丸い。そこで、私たちは、「コインは円形だ。」という文を承認する。
 けれども、もちろんコインは、年じゅう円形に見えるわけではない。水平方向から眺めれば、あきらかに、薄い長方形に見えるはずだ。短い棒状に見えるはずだ。そして私たちには、そんなことはわかりきっているように思われる。しかし、ものはためしに「コインは長方形だ。」という文を口に出して言ってみると、なぜか、まことに異様な発言をしているような気がする。
 私たちは日常において、いつもある視点からある光景を見る。視点だけではなく、人間の認識一般は、ある立場からの有限のアプローチである。その有限性は、たいてい、言語表現に反映してあらわれる。ある位置にあぐらをかいたまま、腕を組んで眺めているだけでは、ものの真相はよく見えない。自分の認識が――したがって自分のことばが――有限で一面的だと、いつも承知している人は、やがて、実験的に自分の視点を変え、多様なアプローチをこころみることになる。
 文学作品などにおいても、おなじひとつの事実を、きわめてことなることばで言いあらわすことがある。視点がちがう。そのちがいは、おなじひとつのコインに対して「円形である」および「長方形である」という、まるで別の見かたが成立した事情と似ている。そして、そういった表現は、ヨーロッパに古くから伝えられた、たくみに表現する技術体系であるレトリックと深い関係にある。
 レトリックは、私たちの認識と言語表現の避けがたい一面性を自覚し、それゆえに、もっと別の視点に立てばもっと別の展望がありうるのではないか……と探求する努力のことでもある。創造力と想像力のいとなみである。
 たとえば、枝からはなれた果実が地面へ落ちるという事態を目撃したとき、たんに「りんごが地面へ落ちた」と考えるだけでは満足しないことである。ことによると、「りんごに向かって地面が突進してきた」とも考えられはしないか、あるいは「りんごと地面はたがいに引きつけ合った」と考えるべきではないか……と、さまざまな想像力を働かせることであろう。レトリックとはそのように多角的に考え、かつ多角的なことばによって表現してみることである。レトリックは発見的な認識への努力に近い。
 こんにち、価値の多様化ということがしばしば問題になる。それは、ものの見かたの多様性という問題でもある。ひとつの事実を眺め、表現するにあたって、すべての人が、まるで統制を受けたかのように、おなじ視点からおなじことばで語る、という時代ではあるまい。人と人とが理解し合うことも、容易ではない。自分の視点と自分のことばづかいだけが正しいと信じきっている人は、想像力ないし創造力を欠いているために、自分とはことなる立場から見える景色を思いえがくことができない。肝心なのは、相手の立場、別の視点に立ってみればどんなぐあいにものが見えるか、ということを思いえがいてみる能力である。
 このように考えてみると、レトリック感覚は、発見的な認識には欠くことができない上に、人をできるだけよく理解するためにこそ必要なのだ、ということになる。新しい視野を獲得するためにも、また、相互理解のためにも、こんにちほどレトリック感覚の必要とされるときは、かつてなかったように思う。
(佐藤信夫「レトリックの記号論」による。)
(注)アプローチ=接近すること。
▽解説
 第一段落は、身近な実例。普段見慣れているものも別の角度から見ると違って見えるなど。そこから続けて、物事をさまざまな角度から見るのはよいこどだという意見を書きます。
 第二段落は、その理由です。さまざまな角度から見た方がそのものの真の姿がわかるという実例を書きます。例えば、先生や友達も多面的に見て初めて本当の性格がわかるなど。
 第三段落は、もう一つの理由です。物事をさまざまな角度から見た方が新しい発見があるという実例を書きます。なかなか解けなかった数学の問題も角度を変えて考えたら解くことができたなど。
 第四段落は、反対理解と意見。確かに一つの角度から深く物事を見ることにも意味があるが、物事を多面的にとらえることは大切だ、などとまとめます。

中2の課題とヒント(作文検定模試5級)
▽課題
 長文「『ふしぎ』と言えば」を読んで感想文を書きなさい。
▽項目
 総合化の主題(キーワードは、いちばん大切、いちばん大事、いちばん重要、一番大切、一番大事、一番重要、最も大切、最も大事、最も重要)
 複数の意見(キーワードは、意見、見方、考え)
 反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
 段落をつけて書く
 常体で書く
▽字数の目標
 1200字
▽長文
 「ふしぎ」と言えば、「私」という人間がこの世に存在しているということほど「ふしぎ」なことはないのではなかろうか。自分が意志したわけでもない。願ったわけでもない。ともかく気がつくとこの世に存在していた。おまけに、名前、性、国籍、貧富の程度、その他、人生において重要と思われることの大半は、勝手に決められている。こんな馬鹿なことはないと憤慨してみても、まったく仕方がない。その「私」を受けいれ、「私」としての生涯を生き抜くことに全力をつくさねばならない。
 いったい「私」とは何ものであろう。このことは人間にとって、もっとも根本的な「ふしぎ」のようである。この「ふしぎ」な存在について、ある程度、これが私だという実感をもたないと、うまく生きていけない。生まれてから、だんだんに成長していく子どもを見ていると、その時期に応じて「私」という感覚を身につけていくのがわかる。二歳にもなると、「これは自分がするのだ」という明白な意志を表明する。あるいは、「いや」という拒否を示す。これは「私」という存在でこそ言えることである。外界に対して、それに対立する存在として「私」が意識されている。
 このようにして、だんだん「私」の実感ができあがってくるようだが、「私」とは何ものか、というように比較的はっきりとした形の疑問が生じたり、他と異なるものとしての「私」が存在する、と感じるのは、どうも十歳前後のようである。このことは、児童文学の名作の主人公に十歳前後の子が多いことによっても示される。
 (中略)
 「私」のふしぎを忘れたましいのことを忘れて生きている人に、その「ふしぎ」をわからせる点で、児童文学は特に優れていると思う。私が児童文学を好きなのは、このためである。確かに「大人」として生きるのも大変なことだ。お金をもうけねばならない。地位も獲得しなくてはならない。他人とスムーズにつき合わねばならない。それらは大変な労力を必要とするし成功したときには、やったという達成感もある。しかし「いったいそれがナンボのことよ」と「たましい」は言う。その声をよく聴く耳を子どもは持っている。あるいは「たましい」の現実を見る目は子どもの方が持っている。そのような子どもの澄んだ五感で捉えた世界が、児童文学のなかに語られている。だから、児童文学は、子どもにも大人にも読んでほしいと思う。
 たましいというのは、直接にちゃんと定義するなどということはできない。しかし、それは、死んだときにあちらに持っていけるものだ、などと考えてみることもできる。「マッチ売りの少女」があちらに持っていったものと、地位や名誉や財産を沢山持っている人が、あちらに持っていくものと比較したらどうなるだろう。もちろん後者のような人は、立派な戒名を手に入れることが、最近では可能になった。その人が死んで閻魔の前に立ち、立派な戒名を名乗るとして、閻魔さんの家来の鬼が「ふん、それがナンボのものよ」などと言っているところを想像してみるのも面白いことではある。
 たましいなどほんとうにあるのかないのか、実のところはわからない。しかし、それがあると思ってみると、急に途方もなく恐ろしくなったり、面白くなったり、人生を何倍か豊かに味わうことができることは事実である。もちろん、よいことばかりではなく、下手をすると普通の人生を維持できなくなるという危険もあることは知っておかねばならない。
 人生における「ふしぎ」と、それを心のなかに収めていく物語とが、いかに人間を支えているかについて述べてきた。昔はそのことは部族や民族などの集団で、神話を共有することによってなされてきた。このことは現在もある程度まで事実である。すべての宗教はその基盤となる物語をもっている。
 しかし、現在のように個人主義が進んできて、その生き方をある程度肯定するものにとっては、個人にふさわしい物語をもつ、あるいはつくり出す必要があると思われる。と言っても、誰もがそのような物語をつくり出す才能があるわけではない。
 そのために、そのときどき自分にとって必要な物語、あるいはそれに類似のものを他人のつくったもののなかから見つけ出すことをしなくてはならない。それは、ひょっとして古い神話のときもあろう。あるいは、現代作家の書いた児童文学かもわからない。ただそれは自分に完全にピッタリというのはないであろう。自分もこの世のなかで唯一固有の存在と考える限り、そんなことはありえない。しかし、それと共に自分が人間としていかにその存在を他と共有し合っているかを思うと、多くの人に共通の重要な物語があることも了解できるであろう。
 このようにして自分の人生を生きるとき、死ぬときにあたって、自分の生涯そのものが世界のなかで他にはない唯一の「物語」であったこと、「私」という存在のふしぎがひとつの物語のなかに収められていることに気づくことであろう。自分の人生を豊かで、意味あるものとするために、われわれはいろいろな「ふしぎ」についての物語を知っておくことが役立つのではなかろうか。
 賞罰(しょうばつ)憤慨(ふんがい)戒名(かいみょう) 閻魔(えんま)類似(るいじ)唯一(ゆいいつ)
▽解説
 第一段落は、身近な実例。「『私』は、身長は○センチで体重は○キログラム。学校の成績は○ぐらいで、先日の偏差値は○だった。しかし、このようなことがいくらわかっても、『私』自身を説明したことにはならない。『私』はかけがえのないたった一つの存在である。……」
 第二段落は、意見A。「確かに、客観的な指標は大切だ。そのことによって人間には目標ができるし、努力もできる。例えば、私はこの前の○○のテストが○点だった。だから、今度は……」
 第三段落は、意見B。「しかし、同時に、人間には他人との比較では測れないものがある。私には夢がある。それは、ほかの人から見ればあまりに空想的で子供っぽいと思われるものかもしれない。しかし、その夢があるから、自分が生きている意味がある気がする。世界で初めて飛行機を飛ばしたライト兄弟も……」
 第四段落は、まとめ。「このように、人間には、他人との比較の中で評価される自分と、自分自身の物語の中でわかる自分とがある。大事なことは、その二つのバランスをとって現実の社会をたくましく生きていくことではないだろうか。……」

中3の課題とヒント(作文検定模試4級)
▽課題
 長文「何を読むかという前に」を読んで感想文を書きなさい。
▽項目
 生き方の主題(キーワードは、生き、人間)
 複数の方法(キーワードは、方法、そのためには)
 反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
 段落をつけて書く
 常体で書く
▽字数の目標
 1200字
▽長文
 何を読むかという前に、まず何はともあれ、夢中で読むという体験を一度味わう必要があります。読む対象はそれぞれの人によってことなりますが、とにかく面白く楽しい本であることが必要です。そして一度読む楽しさを知ったら、あとは、この面白さの内容を次第に高めることが、楽しさを長つづきさせる秘訣です。たとえば推理小説だけを読んでいると、最後にはせっかく面白かった本も、何となく空虚な感じがしてきます。
 一度読む楽しさを知った人は、あとは放っておいても、読書の本能ともいうべきものによって、自分にぴったりした本をもとめてゆくものです。また百冊の本のリストによって自分にふさわしい本を捜すようになるのも、この時期です。この時期になれば、百冊のリストを見ても恐れをなすどころか、逆に面白そうな本がこんなにならんでいてくれることに、ぞくぞくした楽しさを感じるようになるものです。ですから、読書の楽しさを知るということが、私たちが最初に体験しなければならないことになるのです。
 ある人は訊ねるかもしれません。「いまはテレビや映画や劇画によって読書以上の楽しみを味わえる時代なのに、なぜ古臭い読書などに執着するのですか」と。
 しかしテレビを見るのと本を読むのとは別々のことです。テレビは私たちを自分の外へ引き出しますが、読書は自分の中へ引き戻します。それに読書はいつどこででもできます。汽車の中でも、飛行機の中でも、昼でも、夜なかでも一冊の本さえあれば、自由に別世界に入りこむことができます。同じ本でも、小説は劇画より、もっと自由自在に豊かに想像力の翼に乗って羽ばたくことができるのです。
 読書の楽しさの中で最大のものは、この自由感だということもできます。本の扉を開けると、もう向こうはフランスだったり、江戸時代の日本だったり、幻想の世界だったりするわけですから。そこでは、私たちの人生とは別の人生がはじまっています。別の人々と出会い、数奇な運命をたどることができるのです。深い悲しみや喜びを味わうこともできますし、人生の裏面の赤裸なすがたを見て戦慄することもあります。私たちの魂は地獄を通り天国を通ります。泣いている女にも会います。打ちひしがれた男にも出会います。幸福な人にも恋に悩む人にもぶつかります。私たちは思わぬ人生の寂しさや、孤独感や、人々の愛を体験します。
 こうして一冊の本を読み終えたとき、私たちは読みはじめる前とは、別人になったように思えることがあります。私は『罪と罰』を読んだとき、そんな気持ちを味わいました。しかしこうした経験は読書以外には絶対に味わえません。こうなると、読書は単なる楽しさから、もっと深いもっと複雑なものに変わってゆくことになります。
 読書の対象はこうして詩や小説から哲学や宗教へ、神話や心理学へ拡がってゆきます。しかし読書が生涯を通じて私たちのそばにあるのは、それが何よりも楽しいことだからです。楽しくなければ何にもなりません。その証拠には、何か無理をして勉強し、我慢をして読書をしていた人は、目的を達すると、けろりと読書などしなくなるものです。
 私は自分でもスポーツが好きですし、映画もよく見るほうです。音楽なしでは一日もいられません。それでも、なお読書の楽しみを皆さんに味わってほしいと思うのは、読書によって、そうしたスポーツや映画や音楽の楽しみが、一段と豊かになり深くなるものだからです。
 (辻邦生『永遠の書架にたちて』による)
 赤裸(せきら)
▽解説
 第一段落は、身近な実例と意見。「私は、小学生のとき、よく読みかけた本が止まらなくて、夜中まで読んでいたことがあった。そういう夢中で読むという生き方を大事にしたい。」など。
 第二段落は、方法1。「そのための方法としては、第一に、好きなものを読むことだ。私が小学生のときに熱中した本は、……」など。
 第三段落は、方法2。「また、もう一つの方法としては、読書の大切さをもっと学校教育の中に取り入れることだ。小学生のころは、毎週読書の時間があったが……」など。
 第四段落は、まとめ。「確かに、読書以外にも大切なものは多い。例えば行動力などもそうである。しかし、私は……」と、最初の意見に戻ってまとめる。

高1、高2、高3、社の課題とヒント(作文検定模試3級)
▽課題
 長文「一つの集団は」を読んで感想文を書きなさい。
▽項目
 当為の主題(キーワードは、べき)
 複数の方法(キーワードは、方法、そのためには)
 反対意見の理解(キーワードは、確かに、もちろん)
 自作名言(キーワードは、ではなく)
 段落をつけて書く
 常体で書く
▽字数の目標
 1200字
▽長文
 一つの集団は、一人の裏切者と、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまりその時、集団は論理的に構成されるのである。キリストとユダの伝説が、私にこのヒントを与えてくれた。恐らくあの十三人は、対人関係を独立したメカニズムとして純粋培養するためのベテラン達だったのであり、またそうせざるを得ない環境におかれていたのだろう。
 そこは砂漠である。そして人々は、ひたすらそこを流れ歩く。人々は、住まうことによって得られるそれぞれの位置と関係を、あらかじめ失わされている。それぞれがそれぞれであることの手がかりを、自分から相手への距離と方向に見出すことは不可能であり、同時に、それを「場所」に植え込むことによって不動の関係にすることも不可能である。その集団を、一つの「関係」として支配していたものは、およそ変転してとらえどころのない、奇妙なものだったに違いない。もちろん彼等は、そのとらえどころのない奇妙なものに、次第に手を加えて、法則化しつつあった。対人関係を、それ自体として自己完成させる必要が、彼等にはあったのであり、彼等はそうしはじめていたのである。
 私は、はじめにキリストがあって、そこに十二人が従ったという説を、ほぼ信じない。まず、変転としてとらえどころのない奇妙な関係の中に十三人が居たのであり、それが果てしない放浪の末に、ユダとキリストを生むことによって、一つの「関係」として完成されたのである。
 ユダもキリストも、それぞれがそれぞれを含む「十三人目」だったに違いないと、私は考えている。そして、何よりも、ユダが「裏切者」として発明されることによってはじめて、キリストが「犠牲者」となり得たのであろう。新約時代、彼等十三人が為した最大のことは、「裏切者」としてのユダを発明したことであり、むしろキリストを発明したことではなかったのではないかと、私は考えているのだ。
 人間は、「神の時代」から「神と悪魔の対立時代」を経て、「裏切者の時代」に至った、という考え方はどうであろうか。つまりこれが、対人関係の、とらえどころのない奇妙さを、法則化してきた過程というわけである。悪魔が相対化された神であり、「裏切者」が相対化された悪魔であるならば、これは一つの相対化の過程でありそれに従って人間は次第に、独立した社会的存在になってゆくわけである。少なくとも「裏切者」が発明されるに至って、はじめて人間は、自己完結する対人関係というものを、知り得たのではないだろうか。
 創世記に、アブラハムについての奇妙なエピソードが語られている。「神はアブラハムを試みて言われた。『アブラハムよ、あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で、彼をささげなさい』(中略)彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムは、そこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたき木の上にのせた。そしてアブラハムが手を差しのべ、刃物をとってその子を殺そうとした時、主の使が天から彼を呼んで言った。『アブラハムよ、わらべに手をかけてはいけない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえわたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った』」(第三十二章)
 ここから、私は「裏切者」がやがて発明されねばならないという予感を読み取れそうな気がする。このアブラハムの、神に対して一方的にのめりこんでゆく無気味な心情は、恐らく一方で自らのうちに「裏切者」を用意しそれに対する憎悪で相殺され、安定する事を期待するに違いないからである。つまり、この一方に「裏切者」が存在する事によってはじめて、わが子を殺すという行為は、アブラハムに於て自己完結するからである。「裏切者」とは集団の対人関係の、独立して自己完結しようとするメカニズムが必然的に生み出す、ある形態である。集団は、「神に対するおそれ」というとめどもなく一方的な不安定な心情を、「裏切者」によって、緊張しあう安定したものにすることが出来る。「裏切者」というのは絶対的な悪ではない。「裏切る」という行為は相対的なものであり、従って集団は永遠にそれを対象化することが出来ない。故にそれは、集団の内部を律するメカニズムを持続的に緊張させつづけることが出来るのである。
 新約によれば、キリストは、彼を死刑にした外部勢力に対してよりも、ユダに対して緊張しあっている。つまり、その時、その集団は、外部勢力に対して拮抗することではなく、集団として自己完結することを選びつつあったのであり、そのために自ら「裏切者」を用意してみせたのであろう。
 言うまでもなく、集団が自己完結を目指すのは、集団が衰弱しはじめている証拠である。しかし、集団は常に、いつかは衰弱期を迎えるものあり、自己完結することを目指すのである。現に今でも「裏切者」と「犠牲者」によって自己完結を目指しつつある集団をたびたび目にする事ができる。一つの集団を律する原理は、新的時代からちっとも進歩していないのかもしれないのだ。
(別役実「電信柱のある宇宙」から)
相殺(そうさい)
▽解説
 第一段落は、身近な実例と意見。「初めてのクラス会は盛り上がった。しかし、日がたつにつれて……。私たちは、内部に敵を作らなくてもやっていけるように、個々人がもっと強くなるべきだ。」
 第二段落は、方法と体験実例。「まず第一に、心構えとして、うまく行かないことを他人のせいにするのではなく、まず自分の努力不足として考えることだ。私も子供のころ、サッカーなどのスポーツで相手に負けると、相手チームを批判したり仲間のミスを批判したりしていたが、今は考えを改めて、まず自分の努力不足を反省することにしている。(ほんとかいな)」
 第三段落は、方法2。「第二に、為政者が、内部の敵を作る前に、情報を公開することである。オープンな情報が流れれば、だれかを一方的にスケープゴートに仕立てるというやり方は通用しなくなるだろう。宗教団体なども、内部の話し合いを公開するようにすれば、オウム真理教のような行き過ぎには至らないだろう。」など。
 第四段落は、反対理解と自作名言と意見。「確かに、人間には……。しかし、敵は内部にいるのでも外部にいるのでもなく、ただ自分の未熟さの中にいるのである。」など。

自発的な学習意欲を育てるために
 大人でも子供でも、自発的に何かに取り組むためには、大きな目標だけがはっきりしていて、そのときどきの小さな目標は本人が自ら克服していけるという仕組みになっていることが大事です。
 子供が小学校低学年のころは、親は、細かいことでも子供に指示をすることができます。今の学校教育のスタイルが、先生が生徒に何かを教えるという形になっているために、親も子供に接するときに、つい先生が生徒に接するときのように教えすぎてしまうことがあります。
 例えば、子供に、作文を書かせるとき、音読をさせるとき、読書をさせるときなどに、親はつい、手取り足取りの指示をしてしまいがちです。もちろん、こういう指示の仕方も、親子がコミュニケーションを楽しみながらやっているのであれば問題ありませんが、細かい指示を始めると、つい親は苛立ち、子は不満を持ち始めるようになります。親が子供に教えることが難しいというのは、こういう事情があるからです。
 では、どうしたらいいのでしょうか。
 作文だったら、字数と表現項目だけを指示して、子供が行き詰まって親に聞いてきたときにだけ答えるようにすればいいのです。例えば、「字数は200字以上、たとえと会話を思い出して書いてみよう」という感じです。
 音読だったら、「毎日2ページ、つっかえずにすらすら読めるようになることを目標にして読んでみよう」というようなやり方です。もちろん、最初はつっかえながら読んでもいいのです。何度も読んでいるうちに必ずすらすら読めるようになります。また、読んでいるうちに飽きてきて、ふざけて読んだり速く読んだりしても、それは全然気にしません。むしろ、そういう読み方ができるぐらい余裕ができたことをほほえましく見ていればいいのです。これを、知らない言葉の意味を調べさせたり、本当に読めているかどうか親がテストをしたり、読んだところを要約させたりすれば、途端に音読が苦痛になってきます。
 読書も同じです。「マンガや絵本でない本を、何でもいいから50ページ読んだら今日の勉強はおしまい。あとは何をして遊んでもいいよ」という指示の仕方をすれば、子供は喜んで本を読みます。(学年や実力に応じて、「小3だから30ページ以上」などと柔軟に決めてください)
 親は、大きな方向だけを指示して、細かい選択は子供の自主性に任せていく、というのが自発的な学習意欲を育てるコツです。
(「内輪の父母の広場」から)
日本の文化力を高めるために
 日本文化には優れた面があります。
 その一つは、知的だということです。文盲率の低さももちろんですが、流通している書物の数量でも世界のトップクラスだと言われています。
 もう一つは、温和で優しいということです。犯罪特に凶悪犯罪が少ないのは、日本に住む人(必ずしも日本人とはかぎらない)の性格から来ています。
 もう一つは、誇りが高いということです。日本のリーダーは、聖徳太子の時代から、他国に媚びない自立した精神を持っていました。
 しかし、これらの優れた文化は、自然に生まれたものではありません。文化というものは、やはり歴史的に形成されてきたものなのです。
 その歴史の中核を担っていたのが、読書や言葉を尊ぶ文化です。日本文化は、優れた書物を読むことによって継承されてきたのです。
 ところが、それがここに来て急速に崩れようとしています。
 一つは、読書をしない若者が増えていることです。昔も今も、よく読む人の層は変わりません。変わったのは、読まない層です。本というものをほとんど読まない層が増えているのが現代の特徴です。本を読まない人の特徴は、会話に密度がないことです。本をよく読んでいる人が一言で言うことを、本を読まない人はその何倍もの言葉で話します。そういう人が最近増えているように思います。
 もう一つの問題は、読む本が多すぎて良書が埋もれがちだということです。若い人が本を読む時間は限られています。その限られた時間に、一流の本を読むのではなく、入門書のような本ばかり読んで過ごしてしまう人が多いのです。若いときに難しい本を読まなければ、年をとってからそういう本を読むようになることはありません。若いときにこそ、限られた良書を優先して読む必要があります。
 これらの問題を克服する道は、教育にあります。教育に高い関心を持つのは、日本文化のもう一つの特徴です。現在の教育は、受験教育が中心になっていますが、受験のための教育であっても、それをうまく読書や作文の力を伸ばす方向に生かしていけばいいのです。
 日本語作文小論文研究会の目的は、教育の力によって日本に読書文化と作文文化を作り出すことです。その鍵となるものが、オープンソースの力です。多くの人の意見を吸収しながら、新しい日本文化を作っていきたいと思います。
 
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