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  読解マラソン集小3の長文一部訂正
  無駄のある教育
  人間は考える葦である
  基本に忠実に(モネ/いとゆ先生)
  『頭の良い子が育つ家』(もんぴぃ/おのぴ先生)
  「なぜ、物は落ちるのか」(うさぎ/きら先生)
  限られた人生で……(イルカ/かこ先生)
 
言葉の森新聞 2007年11月2週号 通算第1006号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
読解マラソン集小3の長文一部訂正
 小3秋4番の長文「寝る子は育つ」で、レム睡眠とノンレム睡眠の記述が逆になっていました。
 読解マラソン集には、現在、訂正したものを掲載しています。
http://www.mori7.com/marason/marason_sample.php?id=842959
(知識よりも考え方を優先するために、レム睡眠、ノンレム睡眠という言葉自体をやめて、浅い眠り、深い眠りという記述にしました)
無駄のある教育
 中2の長文集(10.2週)の中に、「学校とは一点から一点への最長距離を教えることである」という一文があります。これは、勉強の本質を表しています。勉強で大事なことは、答えを出すことではなく、どのように答えを出すかというその方法です。答えではなく、答えを出す過程を学ぶことが勉強です。
 私(森川林)の話ですが、昔は、勉強の方法などを知らなかったので、高校生のころ、解けない数学の問題を何時間も考えて夜の街を散歩したことが何度もあります(笑)。今考えれば、すぐに解法を見てあるいは聞いて、その解法をまるごと理解するのがいちばん能率のよい勉強法だと分かるのですが、そのころは真面目に、問題は自分で考えて解かなければならないと思っていました。しかし、そういう回り道の経験があるせいか、今でも何か問題があると、自分で考えればそのうちよい答えが出るという考えを持つようになりました。それが欠点になることもあると思いますが。
 「葉隠」という本に、「分からないことの中には、分かるようにしてあるものもあり、また自然と分かることもあり、どうしても分からないこともある、それが面白いことだ」という言葉があります。これは、自分でよく考えた人の言葉だと思います。しかし、同じ「葉隠」に、「本当の知恵は他人に聞くことだ」という言葉もあります。これもまた、真理だと思います。
 教育評論家の和田秀樹氏と、数学者の森毅氏の数学に対する考え方は、対照的です。和田氏は、解けない問題は考えずにすぐに解法を見て理解せよ、という考えです。森氏は、解けない問題はむしろ考えることを楽しめ、というような意見です。しかし、両者の意見は対立しているのではありません。受験勉強のような能率を重視する勉強では、早く解法を見て理解することが大事です。しかし、ここで能率を上げて余裕のできた時間を、本当に考える問題を解く時間にあてるということなのです。これが、無駄のある教育です。
 では、その無駄のある教育とは、どこで行われるのでしょうか。それは、対話と経験と読書の中においてです。
 小学生のころの勉強は、時間をかければその時間に比例してよくなります。しかし、そこで必要以上に時間をかけるよりも、能率のよい勉強法を心掛けて、あるいは勉強はいったん脇に置いておいて、対話や経験や読書の時間を確保することが、家庭で行う本当の教育になると思います。
人間は考える葦である
 今、世の中には変わったことのできる人が増えています。それは、ひとことで言うと、超能力というものです。またまた、という声が聞こえてきそうですが(笑)本当です。残念ながら、私(森川林)にはそういう能力は全然ないので、以下の話は安心して読んでください。
 さて、そういう超能力を持っている人の中に、宇宙人や神様とコンタクトを取れる人がいます。
 その宇宙人や神様の言っていることは、実に正確で的確で、人間の知らないことまでかなりよく知っています。ですから、彼らの言っていることを聞いていると、まるで宇宙人や神様はすべてを知っているかのような錯覚に陥りがちです。
 ところが、宇宙人や神様の知識の出所は、地球人が何万年も前から蓄積してきた知識のデータベースなのです。また、このデータベースには宇宙人の知識も含まれています。これらの膨大な情報があれば、普通にものごとを常識的に考える力のある人であれば、一見すべてに的確なことを言えるようになります。
 宇宙人や神様は、何かを質問されると、自分でものごとを考えて答えるのではなく、それらの知識のデータベースにアクセスして答えを言っています。言わば、カンニングペーパーを見ながら喋っているということです。えらくも何ともありません。むしろ、そういう背景を内緒にして立派なことを言っているところが、人間的に見てレベルが低いとさえ思います。
 宇宙人や神様は、いろいろなことを知っていますが、これから起こる新しいことは知りません。未来は、人間にとってと同様、宇宙人や神様にとってもやはり未来なのです。ときどき、未来の世の中を見てくる人がいますが、あれは本当の未来ではありません。未来のシミュレーションです。本当の未来は、人間が作らなければ生まれてきません。
 パスカルは、人間は考える葦である、と言いました。大宇宙のほんのわずか一滴の露で折れてしまうかもしれない弱い葦です。しかし、その葦は、自分がそういう葦であることを知っています。倒れながらも、自分がそういう葦として倒れることを知っている葦は、宇宙のすべての力に匹敵する偉大さを持っています。
 これから、世の中は大きく変化していきます。そのときに大事なことは、宇宙人であろうが神様であろうが、他人の意見を盲信しないことです。特に、神様のように、自分を神様だと言っているような相手には、絶対に対等に接するべきです。人間が単に神様に従うような形で生まれる理想の世界は、「動物農場」の世界です。私たちは、宇宙人も神様も地球人も、みなそれぞれの自主性を持って、民主主義の土台の上に理想の社会を作っていくべきなのです。
 ところで、私は、まだ宇宙人や神様と会ったことがありません(笑)。これからも、たぶん会わないでしょう。
 しかし、世間で、「宇宙人が……」とか「神様が……」とかいう話があまりに多いので、その人たちに、もっと広い視野でものごとを見てほしいと思って、ごく常識的な原則論を書きました。
基本に忠実に(モネ/いとゆ先生)
 「読書の秋」、「スポーツの秋」、「芸術の秋」、秋にもいろいろありますが、私にとっての秋は、やはり「食欲の秋」でしょうか。
 9月の3連休を利用して、私の家族、主人の母、主人の妹夫婦の総勢7名で神奈川県の丹沢渓谷にキャンプに行ってきました。紅葉にはまだ一足早かったようですが、川辺の風がとても心地よく、体中に自然のパワーを充電して帰ってきました。
 大人数だったので、毎回の食事の用意が大変でしたが、アウトドアで食べるごはんは本当においしいので、張り切っていろいろなメニューをそろえました。その中で、とても好評だったのが、義母の作ったビーフシチューです。
 義母は、主婦歴40年、仕事でときどきお料理教室を開いているほどの料理の達人です。私は、側でアシスタントをしながら、しっかりとその腕前を拝見させてもらうことにしました。
 きっと、鼻歌など歌いながら手際よく作り上げてしまうのだろうなと思っていたら、義母は「ちょっと待ってね。」と言ってデミグラスソースを手に取りました。そして、パッケージの裏に書いてある「ビーフシチューの作り方」を熟読し始めたのです。
 「あれれ?」肩すかしをくらったような気持ちで様子を見守る私に、義母は
「料理で一番大事なことは、レシピどおりに作ることなのよ。」と、微笑みました。
 「へぇぇ〜っ!」と、私はビックリ。何せ私の料理ときたら、食材の切り方「ま、適当に」、調味料の量「まぁ、これくらいで」、火にかける時間「おいしくなるまで」と本当にいい加減で、レシピなどあまり見たことがなかったからです。そのため、作るたびに料理の味がちがい、「この前の方がおいしかったのに。」と子供たちに文句を言われることもよくあります。
 義母は、計量カップで水や赤ワインの量をきっちりと計り、煮込む時間を時計でチェックしながらシチューを仕上げていきます。夕暮れどきのキャンプサイトには、おいしそうなにおいがたちこめて、通りすがりのキャンパーたちがのぞきこんでいくほどです。
 そして、できあがったシチュ−は、牛肉や野菜のうまみが引き出されていて、まるで三ツ星レストランで食べるような完璧な味でした。自己流のアレンジもいいけれど、まずは基本に忠実にというのが大切なことなのだと実感しました。

 さて、10月になってみなさんが作文を書くときの「項目」が変わりましたね。この「項目」は、言わば料理のレシピのようなものです。1つ1つの項目にそって書いていくことで、みなさんの作文を書く力を引き出すことができるように作られています。しっかりと項目を確認しながら、作文の達人を目指してがんばってくださいね。
          
 
『頭の良い子が育つ家』(もんぴぃ/おのぴ先生)
   
 先日『頭の良い子が育つ家』という本を見つけました。中学受験に成功した家庭を例にとり、頭の良い子が育つための条件を住宅環境の中で考えるという内容なのですが、その中で目を引いたのが合格する子は個室で勉強しないで、ダイニングやリビングルームといった家族が集まる場所で勉強するということでした。大事なのは家族との豊富なコミュニケーションだというのです。
 最近の中学入試の問題は記述式で解答するものが増えてきており、知識を詰め込むだけでは対応しきれない、そこでは文章を使って説明する能力が必要だというのです。そのためには親子の対話を通してその力をつけるのが一番なのだそうです。
 頭の良し悪しはともかく、コミュニケーション能力の必要性は確かに感じます。人に囲まれながらの生活は、必ずしも自分の思い通りにはなりません。何か嫌なことがあっても我慢したり、軽くうけながさなければならないことも多いです。だからといっていつもだまっているのではなく、これだけは譲れないという自分の主張のためにはあらゆる手段を使ってでも相手を説得しようとする気概も必要でしょう。
 今は核家族化が進んでいて、以前のように生まれながらにして大家族に囲まれ、様々な人との関係の中でそれらの能力を身につけられるような機会を持てなくなってしまいました。ですが、このままではいけないと思います。今よく話題になる「きれる大人、きれる子供」そのどちらもコミュニケーション能力の欠如がその根底にある気がしてなりません。
 相手や状況を受けれることと自己主張をすること、その両立は時として難しいことかもしれません。しかし他人とコミュニケーションをとることの楽しさを家族関係をとおして学ぶことはとても意義のあることだと思います。
                  
「なぜ、物は落ちるのか」(うさぎ/きら先生)
 読書の秋です。といっても、忙しい学校生活を過ごすみなさんにとっては、読書のチャンスはむしろ長期の夏休みだったかもしれませんね。私は、年中同じようなペースで本と向き合いますが、若いころに比べるとかなり遅読になっています。途切れ途切れに読むからかもしれません。そのせいか、文芸書を読むことが減り、実用書や論説文を読むことが多くなりました。(長文に疲れる年齢になったのかもしれません)

 しかし、夢中になれる本に出会うとうれしくてたまらないのは、本の種別を問わないのですね。先日も、初めて知ったことがらに「目からうろこ」のうれしさを体験しました。「なぜ、物は落ちるのか」という考察をめぐる論説文に、次のようなことがありました。
 「なぜ物が落ちるのか」と問われたら、ニュートン力学を学んでいる私たちは、万有引力の法則にしたがって説明をすることでしょう。引力が働いているから、物は加速度運動によって落下するのだと、理科で教わったとおり理解しているはずです。「引力」という言葉は、小さい子どもでもちゃんと使えるところがすばらしい、いきわたった知識です。私は、この偉大な発見こそが、物の落下に関わるいちばん古い科学的考察だと思っていました。それ以前はもう、曖昧模糊の迷信の世界だと思い込んでいたのです。
 ところが、科学の眼はもっと古かったのです。ギリシャの哲学者であるアリストテレスが「なぜ物が落ちるのか」という疑問にきちんと答えをだしていました。アリストテレスは森羅万象を、土・水・空気・火の四元素で説明できるとしました。四つの元素は下からこの順で階層をなしているのが本来の位置であり、なんらかの事情でその位置が乱れたときにはチャンスを見て元に戻ろうとするというのです。だから、もともと「土」で出来ている茶碗は、他の元素よりも下に位置するべきであるから、落ちるというわけです。同じように彼は、地震についても、その揺れは地下にあった蒸気が勢いよく地上へ吹き出すために起こるのであると説明しています。「空気」は上から二番目の本来あるべき位置へかえるというわけです。
 なにやら「土」や「空気」に心が備わっているみたいで、キツネにつままれたような気がしないでもないですが、地震は地下で大ナマズや魚が暴れたから起こるといった昔ながらの神話のような話とはちがって、理論的つまり科学的といえないでしょうか。私は、自分が抱いていた「科学的」のイメージが揺れ始めたように思って、感動したのです。
 
 科学的とか非科学的といって、私たちはとかく分別したがります。どういうわけだか、科学的だと安心で有意義であったりして、非科学的だと不安で値打ちを感じなかったりします。しかし、それは真実でしょうか。私たちは科学的かどうかの境界線について、真剣に考えたことがあったでしょうか。「科学的」とは、どういうことなのでしょうか。下手をすると、電力で動くものが「科学的」だという程度の安易な分別をしてしまっているのではないでしょうか。
 知らないものに出会うと不安でたまらなくて、いったいなんであるのか確かめずにはおられない。これが科学の精神の始まりだと思うのです。そうだとすれば、今自分が知っている「科学的説明」の数々をそのまま鵜呑みにして唯一無二だと思い込むことは、科学の精神に照らしてどうなのでしょう。

 じつはこのアリストテレスの説を読んだとき、感動のあまり、娘たちに話して聞かせたのです。その反応は、見事に二分割。
娘1「そのくらい知ってたよ。ギリシャの哲学者たちは、朝から晩まで考えてばかりいて理屈をつくって居たんだと思う。理屈はどこかで破綻したから、近代科学が生まれたんだよ。」
娘2「へえ、すごいね。なるほど、茶碗は土だからか。そんな説明のしかたもあったんだね。じゃあ、鉄の球はどうなるのかなあ。」
このうけこたえ、果たしてどちらが科学的だと思われますか? 

 私たちは、いろんなあたりまえについて、ちゃんと自分で考えてみるべきではないでしょうか。

                                        きら
限られた人生で……(イルカ/かこ先生)
 限られた人生で、大事なことは、「何をするか」ではなく「何をしないか」である。

 「名言の木」という名言を集めたものが教材の中にあります。これは、その中の一つですが、私達現代人はあまりにも忙しすぎて、「何をしないか」と考える以前に「何をするか」ということの方を考えてしまいがちです。「何をするか」というより、「何をするべきか」と言った方がいいかもしれません。今日は何をしなければならないか、何を優先して片付けなければいけないか、朝起きてから夜寝るまでずっとそのことばかり考えているような気がします。「何をしないか」などと言われても、そんなことできない! と思ってしまうかもしれませんね。それはなんだか寂しいような気もします。
 今月の小学生の課題の中に、「秋を見つけたこと」というものがあります。皆さんは、どんな秋を見つけたことがありますか。本当に、純粋な気持ちで秋を感じているのでしょうか。毎日勉強に、仕事に忙しく、分刻みで行動するような私達は、本当に「ああ、秋だなあ」と感じることがあるのだろうかと思ってしまいます。この名言は、現代人の生活そのものを皮肉っているようにも思えてなりませんが、忙しいその手を、その頭を一時でも休めて空を見上げてみる。夏の雲から秋の雲に変わっている空、いつもよりなんとなく高く遠く感じる空。心地よい風の中には、ひんやりとした空気を感じ、キンモクセイのほのかな香りが漂う。そんなことすら感じられなくなってしまっている今の私達の生活は、決して健康的とは言えないのかもしれません。
 先日、新聞に中学一年生の一割が鬱にかかっているという記事がありました。大人ではなく、中学一年生です! この現実が何を物語っているのか、これはただごとではない事態であると私は感じました。忙しすぎる生活や人間関係がストレスを生じさせ、人間本来の正常なリズムを奪ってしまっているのかもしれません。この子達が大人になったら、どうなってしまうのでしょうか。恐ろしい結末が待っているかもしれません。それは決して大袈裟ではなく、ある意味で警告を発しているのかもしれません。
 人生ですべきことはたくさんあります。将来を見据えて、今のうちにしておいた方がよいということもあります。もちろん寿命は決まっているのですから、その間に出来る限り、しかも悔いの残らないように楽しい充実した人生を送りたい、誰もが心のどこかでそう思っていると思いますが、あまりにも余裕のない人生もつまらないものです。今していることを思い切ってやめてみる。一日でもいい、一時間でもいい、三十分でもいい。頭の中から全てを追い払って、何も考えずに自然と向き合ってみる。なにも山や海に行かなくても、身近にある空や風や景色でいいのです。そうやって頭を空っぽにすることで、本来の自分を取り戻すことができるかもしれませんし、何かを発見することができるかもしれません。大人も子供も、現実から逃避することは不可能です。「今日はこれをやめよう」と思うこともできないかもしれませんから、せめて窓を開けて、四季の移り変わりを肌で感じたいものです。
 
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