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  10月8日(月)は、休み宿題
  知能を高める教育(その8)
  調べる手段(なら/なら先生)
  『14歳からの哲学』(ほたる/ほた先生)
  長所と短所(うるっち/かん先生)
 
言葉の森新聞 2007年10月2週号 通算第1002号

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森新聞
10月8日(月)は、休み宿題
 10月8日(月)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php
知能を高める教育(その8)
 頭のよさとは、二次元的に足し算をするような能力ではなく、三次元的に掛け算をする能力だと述べました。
 足し算から掛け算に移るとき、一つのパラダイムの転換があります。簡単な計算ならば、慣れている足し算を猛スピードで行う方が早く答えにたどりつくかもしれません。しかし、問題が複雑になるにつれて、足し算のスピードアップは次第に限界近づき、掛け算の優位性がはっきりしてきます。しかし、足し算にいくら熟達しても、掛け算への飛躍はそこからは生まれません。足し算から掛け算に移るには、パラダイムの転換が必要だからです。足し算が量的に進化したものが掛け算なのではなく、足し算とは質的に異なった出自を持つものが掛け算だからです。
 ところが、学問の世界では、足し算をがんばることが到達点になってしまうところがあります。哲学も、経済学も、物理学も、医学も、それらの学問自体が膨大な体系を持っているので、その学問に熟達した人ほど、パラダイムの転換が難しくなります。ある分野で頂点に達した学者であればあるほど、新しいパラダイムを受け入れることが困難になります。これは努力や心構えの問題ではなく、人間の能力の仕組みがもともとそうなっているからです。
 では、人生において異なるパラダイムを身につける能力は、どこからやってくるのでしょうか。その最も大きな源泉は、年をとることです。年をとると、若いころには一方向からしか見られなかった社会や人生の様子が、異なる枠組みで見ることができるようになります。若者が、二次元的な能力で優れているときに、その二次元のレベルでは到底太刀打ちできない老人が、三次元的なレベルでは若者よりも頭のいい見方ができることがあります。
 井戸を掘ることを考えついた海蔵さんは頭のいい人でした。そして、実行力もありました。今で言うやり手のビジネスマンにもなれた人です。そのお母さんは、井戸掘りなど考えつきもしません。年をとっているので実行力もありません。ただ年をとっているだけです。しかし、その年齢が、若い海蔵さんには見えない三次元的な視野を生み出したのです。「おまえは、悪い心になっただな」と言ったお母さんの発言は、三次元から来ています。二次元にいた海蔵さんは、そのひとことで、自分の発想の限界に気づいたのです。

 もちろん、パラダイムの転換に必要なのは、年齢だけではありません。ほかにも、新しい経験や苦労、難しい読書、柔軟な姿勢などが、新しいパラダイムを形成することに役立ちます。
 そう考えると、子供たちが読むべき本も、自ずからその方向性が決まってきます。それはひとことで言うと、パラダイムのある本です。人気のある本の中にも、パラダイム形成にあまり役立たないパターン化された本があります。目立たない本の中に、子供たちのパラダイム形成に大きく役立つ本があります。
 もちろん、パラダイムという観点から意識的に文章を書いている作家はいません。いるとしたら、言葉の森長文作成委員会のメンバーだけです(笑)。だから、私たちが子供たちの本を選ぶ場合、その本がどれだけ子供たちに新しい視点をもたらすことができるかということを第一に考える必要があります。
 しかし、本自体にパラダイムがあるとともに、ある本をパラダイム的に読むかどうかということも重要です。一見、パラダイム形成とは無縁のように見える本を、一つのパラダイムを提起した本として読むことができるのです。例えば、桃太郎や浦島太郎は、ただの昔話です。しかし、これを大人が、ある現実に当てはめて子供たちに話して聞かせれば、その本は、子供たちにとってパラダイム形成のテキストとなります。
 パラダイム的に読むことが可能な本の典型が古典です。なぜかというと、古典は、異なる世代の大人にも子供にも共通して読まれた本だからです。東洋で言えば、四書五経、西洋では聖書が、その古典の役割を果たしてきました。四書五経や聖書の価値は、その本に書かれている内容だけにあるのではありません。その内容が、さまざまな時代の現実に当てはめられてきたという文化の厚みの中にあるのです。
 パラダイム的な書物も大事ですが、それ以上に大事なのが、読書をパラダイム的にする文化です。大人も子供も共通の文化として読む本があれば、子供たちの世界認識や自己認識は飛躍的に高まります。
調べる手段(なら/なら先生)
 先日、文化庁が発表した「平成18年度国語に関する世論調査」は、新聞やテレビでも大きく採り上げられたので、覚えている人も多いと思います。いろいろな調査項目の中で、特に話題になったのが「漢字が書けないときに調べる手段」という項目です。参考までに、数値を示しておきましょう。文化庁HPからの引用です。
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 「本の形の辞書」(60.6%、複数回答可)
 「携帯電話の漢字変換」(35.3%)
 「ワープロ・パソコンの漢字変換」(21.3%)
 「電子辞書」(19.4%)
 「インターネット上の辞書」(10.1%)
 年齢別に見ると以下のとおり。
 「本の形になっている辞書」は,年齢が高くなるとともに割合が高くなり,50代以上では約7割となっている。「電子辞書」は,16〜19歳で特に高い(5割近く)。「インターネット上の辞書」は,30代で最も高い(2割強)。「携帯電話の漢字変換」は20代で特に高い(約8割)。ワープロ,パソコンの漢字変換は,30代,40代で高い(3割台半ば)。 
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 漢字が「書けない」ときなので、意味を調べる必要がない場合ということでしょう。いろいろな「調べる手段」が登場し、場面に応じて使い分けをしているということが、この調査からわかります。
 今回は「調べる」という話題です。この夏、ある高3生の推薦入試の相談を受けました。(言葉の森の生徒ではありません。)3000字の論文提出が課せられているとのこと。論文作成の中で、題材探しが必要になるのですが、確認したところほとんどがインターネットで検索して見つけてきた題材だそうです。出所が明らかでないので聞いてみると、その多くは「ウィキペディア」からのものだと。その生徒は「ウィキペディア」の文章を、ほぼそのまま引用しようとしていました。残念ながら、それは認められません。
 「ウィキペディア」は誰でも自由に執筆・編集ができるオンラインの無料百科事典です。ちょっと気になることがあったときに、気軽に検索し、その概要を知ることができます。その大きな特徴は「誰でも自由に」という点、そして、匿名で執筆・編集ができるということです。それは、裏を返せば無責任に、もしくは意図的に、事実と異なる情報を書き込むことができるということでもあります。実際に、最近の出来事ですが、省庁に都合のいい(と思われる)記事が省庁のコンピュータから書き込まれたということが各社新聞で報道されました。ここまで込み入った話でなくても、あるときに参考にした記事が、直後に編集されて内容が変わっていた・削除されていたということも少なくありません。つまり、何かを論じる根拠や資料としては、不確定な要素が多いということです。
 だからといって、一切参考にするな、ということでもありません。「ウィキペディア」の記事を糸口にして、より深く、別の角度で調べてみるということであれば、かなり効果的だと思います。要は、「いかに使うか」ということでしょう。
 また、インターネットの普及により、多くの人が自分の意見を世界に向けて発信することができるようになりました。特に、ブログが普及したことによって、誰もが発信者となり、一方で誰もが受信者となる、そして受信したものに対して発信できる、そんな状況になりました。興味のあることについて検索すると、たくさんのブログが見つかります。これもまた「調べる」ということに関わる場合があります。ある事柄についてどんな意見があるかなども、複数のブログを比較してみることもあるでしょう。ただし、参考にしたブログ中の文章を、ブログ作成者に断りなく引用してはいけません。この点は、一般の著作物と同様に考えるべきでしょう。ネット上で実名は出されていなくても、作者が特定できるものですから。そうそう、言葉の森のHPで、他の人の作品を読んで参考にするときも、同じですよ。
 さて、その高3生ですが、何か活字のものを読んだか・図書館に足を運んだかと聞くと「まだです。」と。題材に使う予定の自治体や企業に、思い切って直接問い合わせをしてみては、と促すと「答えてくれるかどうかわからないし。」と弱気です。今回は、期限の迫った試験だったので、やむを得ない面もあったのでしょう。しかし、「調べる」ための手段はたくさんあるはずですし、手段が異なれば得られる情報も変わるかもしれません。インターネットという便利な手段を手にしたからこそ、別の手段にも目を向け、場面や状況によって手段を使い分ける力が必要になってくるのだと思います。「漢字の書き方」を調べるのと「漢字の意味」を調べるのとでは、使うものが異なるようにね。
 
『14歳からの哲学』(ほたる/ほた先生)
【ある哲学者の旅立ち】

 今年の2月、哲学者の池田晶子さんが亡くなりました。私より3歳年上なだけの、まだ40代半ばでした。ご病気だったらしいのですが、訃報は新聞にも載りました。池田さんは、私もこの学級新聞でずいぶん前に取り上げたことがある、『14歳からの哲学』の著者です。わかりにくい、とっつきにくい「哲学」という学問を、そして「考える」とはどういうことかを、わかりやすい言葉で私たちに語りかけてくれた人でした。

 彼女の著書を何冊か読んでいると、「機械の操作が苦手」「パソコンも持たない」「自分で考えて得た『知識』以外の情報はいらない」「じいっとして自然や宇宙を感じ考えていると、それだけで充分」などなど、人としてはとても現実感がないというか、浮世離れしているというか、「そこまで徹底した生き方って素敵だなあ」と、私は何となく憧れのようなものを感じていました。

 そして、「もともと体すなわち肉体という存在に、実在感を覚えにくい。」「思考の実在感の前には、肉体なんてあってなきがごとき存在だ。」(『暮らしの哲学』)などと書かれているものですから、これはもう仙人のような人ではないか、と不思議に思っていましたら、本当に早くにあちらへと旅立たれてしまいました。最後の著作となったこの『暮らしの哲学』には、このような記述があります。

「最終的には、この『自分』というものをこそ、捨ててしまいたいのだ。完全に姿を消して、そんなものはいないかの如くに振る舞う。……そして、自分が死んだということすら気がつかないぐらいに自分がいなくなった時、人生と存在の本当がわかるのだ。どうしてもそんな気がする。」

 この時、すでに病気療養中だったはずですから、ご自分の行く先を見据えてのことだったのかもしれません。ですが、これを読む限り、彼女は本望だったのかな、とも思いました。後世の人々にとっては、惜しい人を亡くしましたが。

【なぜ14歳なのか】

 彼女の著作、『14歳からの哲学』は、なぜ「14歳」なのか。それについて、前述の本に、興味深い話が載っていました。

 一時、14歳の少年が犯す犯罪について、社会問題化したこともありましたが、池田さんによると、精神の発達において、人は14歳で「人間として生まれる」のだと言います。つまり、それまでは生物として生まれ、育ってくる。そして14歳ごろになって、初めて言語と論理を獲得するのだというのです。つまり、ものごとを「理屈によって理解できるようになる。」

 そして実際に、このような体験を書かれていました。ある中学へ出張授業をしに行くことになり、前もって生徒達に「戦争は本当に悪なのだろうか」というコラムを読んでもらい、それについての作文を書いてもらったそうです。そうしたら、なんと1年生の半分近くが、「戦争は悪ではないとわかりました」という作文を書いたというのです!

 これが3年生になると、「ちゃんと自分で考えることが大切だとわかりました」というふうに書いてくるそうです。ここに、13歳と15歳との間、14歳という大切な時期があると、彼女は言います。13歳は、まだ、自分の言葉で考える訓練ができていない。だから、言われたまま素直に、うなずいてしまう。まだ、一人前の人間として生まれていないのですね。

★今回は少し難しい話になりました。いま、言葉の森で作文を学んでいる生徒さんは、14歳前か、ちょうどその年頃の生徒さんが多いと思います。「自分の言葉で、自分で考える」訓練がどんなに大切か。それは、14歳ごろにちゃんと「人として生まれることができるかどうか」にかかわっているのです。さあ、がんばって難しい長文も読んでいかなくちゃ、ね。
長所と短所(うるっち/かん先生)
 今日はみなさんにちょっとした問題を出してみたいと思います。
「あなたの長所と短所を思いつくだけいくつでも書き出してください。」

 紙と筆記用具さえ用意すればすぐにできます。読み進める前にまずはチャレンジしてください。生徒のみなさんは自分のことについて、保護者の方はご自分のことについてはもちろんのこと、ぜひお子さんについても考えてみるとよいと思います。

 さあ、結果はいかがでしたか? ほとんどの人が短所はいくらでも思い浮かぶのに長所は数えるほどしかあげられないそうです。実は私もそのひとりでした。(笑)人には誰にでも長所と短所があります。進級試験にあたる9.1週は「私の長所・短所」という課題を出される学年があります。
「短所はたくさんあるけど、長所はなんだろう? ダメだ。全然思いつかないよ。」
ため息をつきながら電話口で困り果てる生徒さんが毎年必ずいます。しかし、ほんとうにそうでしょうか? 

 光があれば陰ができるように、全てのものには表と裏というような二面性があります。長所と短所という観点は、あるひとつの性質のよい面に、あるいは悪い面に焦点を絞っているといえます。そう考えると、長所は一転して短所になりうるし、逆に短所は長所と捉えることもできるのです。長所と短所は表裏一体といわれるのはそのためですね。たとえば私の二男。落ち着きがなく飽きっぽいところが目立ちます。これは彼の短所といえそうです。しかし、少し視点を変えてみると好奇心旺盛でいろいろなことに興味を持ちチャレンジするという長所として捉えることができます。

 それでは、はじめに書き出してもらったみなさんの長所・短所リストをもう一度用意してください。ズラッと並んだ短所の数々。もう見たくないって?(笑) 確かにそのとおりです。自分の短所なんて指摘されなくても嫌というほど充分わかっているものです。それではちょっぴり視点を変えて、この厄介な短所たちを全て長所に変えてしまいましょう。

 ★優柔不断→慎重
 ★頑固→確固たる自分の意見を持っている
 ★人の顔色をうかがってばかり→協調性がある

こんな具合にポジティブに捉えてみるのです。短所のひとつひとつを線で消し、新たに長所リストに加えてみましょう。これで長所の数がぐっと増えたはずです。改めて自分の魅力を再発見するかもしれません。ちなみに私の短所は大雑把。これは、おおらかとしましょうか。また、慎重さに欠けるという欠点は思い切りがよい、大胆ということに変更してしまいましょう。

 子どもが自分の短所ばかり把握している一因は親の何気ない口癖にあるそうです。自分のことは案外わからないものです。大人でさえ首を傾げることがあるのですから子どもならなおさら。絶対的な存在である親に
「あなたは行動が遅いんだから。」
「全く飽きっぽいわね。」
などと、日頃から欠点を指摘され続けると、子どもはそれを自分の短所として素直に認めてしまうのです。イライラしているときや時間のないときなど、ついこのような言葉を投げてしまいがちですが、くれぐれも気をつけないといけませんね。その逆もまた真で、
「あなたはマイペースなところがとてもいいわね。」
「チャレンジ精神旺盛でいいと思うわ。」
と明るく褒め続けると、子どもはその点を自分の長所と捉えるようです。そこで、先ほどご紹介した方法が役立つのです。この短所がなければ……そう苦々しく思っている部分は全て長所に変えてしまいましょう。そうして褒め続けるのです。

 長所リストを眺めていると、
「なーんだ。私だって結構いけるじゃん! 」
とエネルギーが沸いてきます。褒められた子どももきっと同じ気分を味わっているのでしょう。褒められると俄然やる気が出てくるのはそのためですね。何のてらいもなく自分の長所を明るく述べることのできる子。考えただけでも素敵じゃないでしょうか? 自分の強みを知っていることは単なる勉強ができることよりもはるかに賢いことだと私は思います。そんな子どもに育つよう、親である私たちは明るい褒め上手を目指したいものです。
 
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