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  9月17日(月)は、休み宿題
  知能を高める教育(その4)
  おうちごはんはいいごはん(ルビー/おぎ先生)
  もしも、しっぽがあったなら……。(しろくま/いのこ先生)
  たとえ表現(かなぶう/なうか先生)
  国語の学習と外国語の学習(ひまわり/すぎ先生)
 
言葉の森新聞 2007年9月2週号 通算第998号

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森新聞
9月17日(月)は、休み宿題
 9月17日(月)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
 電話の説明を聞かずに自分で作文を書く人は、ホームページの「授業の渚」か課題フォルダの「解説集」を参考にしてください。
 「授業の渚」 http://www.mori7.com/nagisa/index.php
 「ヒントの池」 http://www.mori7.com/mine/ike.php
知能を高める教育(その4)
 抽象的に考える能力とは、現象の背後にある本質を考える能力です。
 先日、高校生の生徒が夏休みの化学の宿題を見せてくれました。どのページもほとんど計算問題です。確かにこういう練習問題を多数やれば、計算には慣れるだろうとは思いましたが、あまり知的な勉強とは思えませんでした。
 やればできる問題に取り組むのは、時間の無駄です。私がもしそういう宿題を出す立場の先生だったら、次のような宿題を出します。「この問題集を答えを見ながら読んで、自分が答えを理解できなかった問題だけを書き出してくること」。できる問題を作業的にやるのではなく、できない問題を自覚することこそが真の勉強だからです。ところが、子供も先生も親も、多くの場合、できる問題を解いている姿を勉強している姿と思いがちです。
 しかし、できなかった問題にも二種類あります。単に記憶していないためにできなかった問題は、本当の意味でできなかった問題ではありません。答えを見ればすぐにわかるような問題は、こういう問題です。そうではなく、本当にできない問題とは、その問題の背後にある本質がまだ理解できていない問題のことです。このような問題ができるようになったとき、人間の抽象能力が一つ前進したと言えるのです。
 これは、化学や数学のような問題に限りません。むしろ、学校の勉強では評価される機会があまりない分野にこそ、このような抽象能力が必要とされてくるのです。
 この抽象能力を高める一つの有効な方法が読書です。読書は、言語によって物事を抽象化します。しかし、先に挙げた夏休みの計算の宿題のように、抽象能力をあまり高めない読書もあります。それはどういうものかというと、現象こそ多様に見えるがその背後にある本質にあまり変化がない読書です。これは計算練習と同じで、見た目には次々と新しい問題を解いているように見えますが、やっていることの本質はもうすっかりわかっているという読書です。
 読書の目指す方向は、抽象度の高い読書、つまり難しい本を読むことにあると私は思います。また、自分が既に知っている分野だけでなく、未知の分野に読むジャンルを広げていくのが読書の発展の方向です。
 しかし、人間には成長に応じた発展段階があります。小学生のころから、難しい本や未知の分野の本を読ませようとすれば、かえって読書量が確保できなくなるというマイナス面の方が大きくなります。小中学生のころは、楽しい本や感動できる本を中心に、何しろ多読をするということを重点にする必要があります。多読によって、そのあとの読書の発展につながる言語能力の基礎ができるからです。しかし、単なる多読でなく、難読を志向した多読、つまり自分の興味の持てる分野で説明文や意見文に広がる読書をしていくことが小中学生の読書の課題となります。
 高校生や大学生のころは、難しい本を読める時期です。このころになると、難しいことそのものに挑戦したいという知的好奇心が旺盛になってきます。この時期に、歯が立たないような本に挑戦することで本当の読書力がついてきます。しかし、これもただ難読をするだけでなく、その後の新分野に広がるような未知のジャンルに広がる難読をしていくことが大切です。
 多読→難読→新読という形で、人間の抽象能力が形成されていくのです。(つづく)
 
おうちごはんはいいごはん(ルビー/おぎ先生)
 アメリカで暮らすようになって、つくづく日本の食卓の豊かさを感じます。白いごはんと味噌汁と漬物、なんていう質素な朝ごはんでも、おわんやお皿が3つも並びます。食材だって少なくとも3〜5種類くらいはカウントできるでしょう。
 アメリカの代表的な超簡単朝ごはんは、シリアルでしょうか。シリアルだったらボウルひとつ、食材は牛乳とシリアルのみで、色もほぼ白一色です。アメリカの食事の場合は、お昼や晩ごはんになったとしても、食器の数や食材の種類はそれほどたくさんは増えません。ハンバーガー、パスタ、サンドイッチ、ホットドッグ。どれも一皿で食べられるものばかりです。

 先日、以前勤めていた日本語補習校で教えた生徒が家に遊びに来て、こんな話をしてくれました。

 大学の寮の食べ物はめちゃくちゃまずくて、おまけに日によって当たりはずれがある。ハンバーガーの肉が生だったり真っ黒だったり、サラダのレタスが茶色かったり。唯一、いつも出来栄えに変わりがないのがホットドッグなんだ。だからフレッシュマン(1年生)のころ、数ヶ月間、1日1食はホットドッグという生活を続けていた。
 はじめのころは、けっこう大丈夫だと思ったんだ。でも、病気こそしなかったけどいつもあんまり体調が良くなくて、だるくて、だんだん食事をとるのがイヤになった。
 けっきょく数ヶ月でホットドッグを食べるのをやめた。やめたというより、ホットドッグが食べられなくなったんだ。見ると吐き気がする。あれから数年経ったけど、今でもホットドッグの匂いをかぐと、ウッとくる(笑)
 やっぱり、食事のときにお皿がひとつで味もひとつっていうのはつらい。和食だったら、ご飯と、必ずおかずが別につくもんね。

 高校卒業後、ご両親が日本に帰ってもアメリカの大学に進学することを選んだたくましい生徒でしたが、ひとりになって、お母さんが作る日本食が当たり前だったことへのありがたさを実感したようです。


 2歳からアメリカで育った我が家の12歳の娘は、肉を食べません。宗教的な理由や主義などではなく、単に肉が好きではないのです。ミートソースやマーボー豆腐などに入っているごく少量の肉や、ファーストフードのハンバーガーやチキンナゲットなどは少し食べられますが、それでもできれば食べたくないと言います。
 子供の成長には肉から摂取するたんぱく質が必要なはず、と小さい頃から肉を食べさせようと様々な苦労してきましたが、まったく効果はありませんでした。

 しかしこの春、12歳の誕生日を迎えた娘がついに私の身長を超えたとき、ふと思いました。
 「私たちに合わせて娘に肉を食べさせるのではなく、私たちが娘に合わせて肉をやめたらどうだろうか?」
 幸い、というべきか、近頃「マクロビオティック」という食事による健康法が日本でも話題になっていることだし、この際食生活を変えてみようではないか!
 というのも、肉を食べない娘の好きなものは、玄米・雑穀入りのご飯、豆腐、わかめ、豆類、イモ類、背の青い魚など、いわゆる「健康食」と言われている食材ばかりです。これに野菜を組み合わせれば、肉がなくてもかなバランスの取れた食事になりそうだし、そしてどうやら、肉をたいして食べなくてもちゃんと成長はするようです。

 私たちが住んでいる地域は日本の食材が手に入りにくく、また日本食材は他のものとくらべてかなり割高になりますが、それでも外食するよりは高くつきません。

 日に日に野菜や豆類の割合が多く、肉がなくなっていく食卓に、最初の頃は不満を訴えていた夫ですが、4ヶ月経った今では、仕事の関係で外食して肉を食べると、体が重い、などと言うようになりました。
 ある日、
「なんだかうちのご飯、老人食みたいね・・・」と冗談めかして言ってみた私に娘はこう言いました。
 「ニク(憎)いニク(肉)がなくなって、おうちごはんはいいごはん。むふふ」

 この食生活を続けて、家族の健康状態や体型(笑)がどう変化するのか、ちょっと楽しみです。
 
もしも、しっぽがあったなら……。(しろくま/いのこ先生)
 1年ぐらい前のしろくま通信で書きましたが、私は、「ごはん」という名前の日本スピッツを飼っています。日本スピッツは、今ではすっかりめずらしくなってしまいましたが、私が子どものころは、ちょうど今のダックスフンドのように人気のある犬でした。真っ白のふさふさとした豊かな毛並み。三角にピンととがった耳が特徴です。そして、ふさふさの立派なしっぽも、スピッツのかわいらしさの一つです。
 犬のしっぽには、どんな役割があるのでしょう? ちょっと調べてみたところ、走ったりジャンプをしたりするときに、このしっぽでバランスをとるのだそうです。犬を飼っている人は、走っていて急に止まるときに、しっぽがどのように動いているかよく観察してみるといいでしょう。また、冬には、尻尾はマフラーの代わりになります。寒いときは、鼻先をしっぽでカバーして、冷たい空気を吸い込まないようにするのだそうです。しっぽには、こんなすごい役目があるのですね。
 さて、犬はうれしいときにしっぽをふることは、みなさんもよく知っていると思います。ごはんのしっぽは、ふだんはくるんと上の方に丸まっているのですが、ちょっと気が乗らないときは、しっぽも元気なくだらんとしています。でも、ちょっと何かに期待しているときは、控えめにフリフリしています。そして、とてもうれしいときは、まるでチアガールのポンポンのように激しくゆれるのです。犬のしっぽというのは、自分で動かそうと思って動かすのではなく、自然に動いてしまうのだそうです。つまり、しっぽの動きに、その犬の気持ちが表れてしまうというわけです。ですから、自分の気持ちを知られないようにしたかったら、ひとりでに動いてしまうしっぽを止めようと、力をしぼらなければならないということになります。でも、犬は素直な動物ですから、そんなことをする犬はいないでしょうね。しっぽは、犬の心をうつす鏡なのですね。
 では、もし私たち人間に、しっぽがあったらどうでしょう? イヤな人と話しているとき、ぴくりともしないしっぽ。そこに、だいすきな人がやって来て、押さえようと思ってもふさふさのしっぽが大きくゆれてしまう。顔の表情でいくら取り繕おうとしても、正直なしっぽは言うことを聞いてくれません。想像しただけで、冷や汗が出るようですね。
 私たち人間の社会というのは、何でも自分の思い通りになるわけではありません。すべての人が、自分勝手に行動していたら、人間の社会はめちゃくちゃになってしまいます。腹立たしい気持ち、イヤだと思う気持ち、うれしい気持ちを押さえて行動しなければならないこともありますね。その結果、互いに理解し合えるようにもなるのですが、もし、心が表れてしまうしっぽがあったら、人間関係がなかなかうまくいかないかもしれません。ごはんくんのしっぽを見ながら、「やれやれ人間にしっぽがなくて良かった。」と、あらためて思いました。(でも、あんなふさふさのしっぽは、ちょっとうらやましいのですが……。)

                               
たとえ表現(かなぶう/なうか先生)
 我が家では、スキニーギニアピッグという種類のモルモットを飼っています。名前はえぐもん。ほとんどの人は「スキニーギニアピッグ」という動物がどんな動物なのか知らないと思います。ほんとうは写真を見てもらいたいところですが、「言葉の森」らしく、文章で紹介してみましょう。どんな動物なのか、自由に想像しながら読んでみてくださいね。

 えぐもんは、ひとことで言うと不思議な動物です。どうしてかというと、見る人によってブタに見えたり、ウサギに見えたり、ネズミに見えたりするからです。
 大きさは、だいたい赤ちゃんの頭ぐらい。手足はまるでスズメのように細く、小さく、ダックスフンドのように短いです。顔と手足の先っぽにだけ金色っぽい短い毛が生えていて、あとはつるつるです。ちょうどヒトの赤ちゃんと同じような肌触りかもしれません。肌の色は、もも色がかったはだ色です。ぶくぶくと太っていて、まるで太った金髪のおじさんがはだかのまま小さくなったみたいです。耳はブタの耳にそっくりなので、後ろから見るとブタと見まちがえそうなくらいです。
 しかし、前から見ると、全然ブタには似ていません。まず、目の色がちがいます。えぐもんは、まるでウサギのような真っ赤な目をしています。鼻・口のあたりもブタとは似ても似つきません。半開きになった小さな口元からちらっとのぞく二本の前歯は、まさにネズミそのものです。

 さて、たとえ表現などを多めに使って、あえて彼の外見だけを詳しく描写してみました。みなさんの頭の中ではどんなイメージが作られましたか? もし余裕があれば、「先生へのひとこと」欄に、勝手に想像したえぐもんの姿を書いてみてくださいね(^^)

 たとえ表現は、いろいろな効果を与えることができる表現です。まず、イメージを具体化する効果。ただ単に「細いあし」と書くだけではイメージがあいまいになってしまいますが、「スズメのように細いあし」、「がいこつのように細いあし」「カモシカのように細いあし」「糸のように細いあし」…などと書くと、それぞれ具体的なイメージが読み取れますね。最もスタンダードなたとえ表現といえるでしょう。
 一方、イメージを広げる効果のあるたとえもあります。上のえぐもんの例だと、「まるで太った金髪のおじさんがはだかのまま小さくなったみたい」というたとえがそれにあたります。ただ単に「太っている」と書くだけではイメージされないぐだぐだした感じ、でろんと垂れた締まりのない肉、こっけいなニュアンスなどが、このたとえによって追加されます。具体化してわかりやすくするたとえとは少しちがいますよね。
 また、意外性のあるたとえを使って、ユーモアを感じさせたり、グロテスクな印象を与えたりすることもできます。「金髪のおじさん」のたとえはこのグループに入れてもいいかもしれません。こちらは、イメージをわかりやすく伝えるたとえとは逆に、イメージ的なギャップ(落差)のあるもの同士を結びつけることで成り立ちます。実際、「モルモット」と「おじさん」も、かなりギャップがありますよね。他には、「満点に散りばめられた星々は、まるで私の小さな弟が今朝食い散らかしたパンくずのようだった。」などもこのグループのたとえの一例です。

 たとえには他にも様々な種類があります。とても奥深い表現なのでもっと紹介したいのですが、ここではみなさんが作文で使う機会の多いたとえのグループにしぼりました。その中でも特に、一つ目に書いたたとえのグループを使う機会が多いと思います。高学年の人や、「ありきたりのたとえじゃつまらない! 」という人は、二つ目や三つ目に挙げたグループに属するたとえ表現にも挑戦してみてください。特に三つ目のグループは、高学年で出てくる項目、「ユーモア表現」にも通じますよ。落差のある二つのものを並べて、ユーモアを感じさせるたとえを作ってみましょう。
国語の学習と外国語の学習(ひまわり/すぎ先生)
 前回の学級新聞に続き、ロシア語同時通訳者で作家の米原万里さんの著作『不実な美女か貞淑な醜女か』から、興味深いお話を紹介したいと思います。
 通訳の仕事と言うと、何よりも外国語の能力が重要に思われます。ところが、こんな意外な話があります。
 同時通訳の会社には、多くの通訳志望の人々が訪れます。英語同時通訳派遣会社の最大手の会長は、その人たちが通訳に向いているかどうかを判断するために、英語ではなく、日本語のほうに注目するそうです。母国語である日本語を、より格調高く話せる人を採用するというのです。

 たとえば英語の通訳であれば、日本語を英語に置き換える際に、すばやく正確な理解力が必要であり、英語を日本語に置き換える際には、豊かで的確な表現力が要求されます。日本語の能力が、より高い通訳者を採用するというのは、言葉の理解力、表現力を求めているのです。
 さらに米原さんは、次のように書いています。
「第二言語(二番目に身につける言語)は、第一言語(母語)よりも、決して決して上手くはならない。日本語が下手な人は、外国語を身につけられるけれども、その日本語の下手さ加減よりもさらに下手にしか身につかない。」

 日本人であれば、日本語の能力を磨いておくことが、外国語を学ぶ際にも、非常に重要だということです。日本語の文章を読んだり、自分の意見をまとめたり、まとまった話をするといった能力を高めることが、外国語の学習を進める上でも、たいへん役に立つのです。逆に言えば、日本語でそれができない人が、英語でできるようにはならないということです。
 米原さんは、まずは母国語の基礎を固めることを前提とした上で、基礎固めのできた母国語に、さらに磨きをかけるのが外国語の学習であると述べています。外国語の、理解できない概念に対して、文脈から推し量ったり辞書や百科事典を引くなど、日本語と外国語の往復を続けるうちに、日本語も豊かになり、外国語も豊かになるというわけです。
 長文音読や毎週の作文で、日本語の基礎をしっかり固めてきた言葉の森のみなさんも、中学からは本格的に英語の勉強を始めることになります。英語を学習すればするほど、今まで空気のような存在感しかなかった日本語を、少しずつ客観的に見ることができるようになるでしょう。また、それまでコツコツと努力して磨いてきた日本語の能力が、英語の学習においても大いに生かされるはずです。日本語と英語、それぞれの言語能力を高めあう、理想的な形で学習を進めていければ最高ですね。自信を持って、毎日の長文音読、読解マラソンを続けていきましょう。
 
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