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  8月29日・30日・31日は休み
  9・1週は進級試験
  8.4週は清書
  長文の音読が難しい
  知能を高める教育
  人間の特徴(SF)
  作文に使う言葉(かな/やす先生)
 
言葉の森新聞 2007年8月4週号 通算第996号

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森新聞
8月29日・30日・31日は休み
 8月29日(水)・30(木)・31(金)は第5週でお休みです。先生からの電話はありません。
 振替授業もお休みです。
9・1週は進級試験
 9.1週に、作文進級テストを行います。課題フォルダの字数・構成・題材・表現・主題の●印が全部できていることが合格の条件になります。(表現の項目などで「たとえ」と「ダジャレ」など二つ以上の項目が指定されている場合はどちらかができていればその項目は◎です)。キーワードと字数が採点の基準ですので、指定された字数以上で必要な項目が全部入る作文を書いていってください。中学生以上の時間制限については、今回は採点の基準にしませんが、できるだけ時間内に書き上げる力をつけていきましょう。
 手書きで作文を書く人は、項目ができたところにシールをはっておいてください。
 パソコンで作文を書く人は、キーワードを入れておいてください。
 小学生の場合は、提出する前に、おうちの方が字数と項目シールをチェックしてあげてくださるとよいと思います。
 小学2年生までの生徒は、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。7月以降に受講を開始した生徒も、試験は行いますが、全員進級扱いで先の級に進みます。ただし、いずれの場合も、賞状は出ますので、できるだけ字数と項目ができるように書いていってください。
8.4週は清書
★作文用紙の題名名前の欄の下3分の1には、先生がバーコードシールをはりますので、何も書かないようにしてください。★

 毎月第4週は清書です。担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、作文用紙に清書してください。(一度清書したものは、清書しないように注意してください。また、ほかの人の作文を写して清書にすることのないようにしてください)
 清書の意義は、次のとおりです。
(1)これまでに書いた作品をよりよいものに仕上げること(字数を増やす、表現を更に工夫するなど)
(2)他の生徒の清書を読む機会を持つこと(自分の清書を他の生徒に読んでもらう機会を持つこと)
(3)新聞社に投稿する機会を作ること
 清書はできるだけペンで書いてください。ボールペンが滑って書きにくい場合は、サインペンなどで書いてください。低学年でペン書きが難しい場合は鉛筆書きでもかまいませんが、できるだけ筆圧が同じになるように書いてください。(一つの原稿で濃い部分と薄い部分があるときれいに読み取れないことがあります)
 低学年で、文章を書き写す形の清書が難しい場合は、直接新しい作文を清書として書いてもかまいません。
 絵を作文用紙の裏に描く場合は、表に作文を書かないでください。(つまり用紙は1枚の裏表を同時に使わないようにしてください)
 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するものがない場合もあります。そのときは、自由な題名で作文を書いて送ってください。
 清書の作文は返却しません。ホームページの「生徒の里」で見ることができます。小2までの全員の作品及び小3以上の入選作品は、プリントされます。
 用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。 感想文を清書する場合は、最初の「三文抜き書き」や「要約」はカットするか、簡単な説明に変えておく方が作品としてまとまりがよくなります。
 中学生以上の人が清書を新聞社に送る際の字数の目安は、500字程度です。長すぎる場合は、新聞社の方でカットされて掲載されることがあります。字数を縮めるときは、いろいろなところを少しずつ縮めるのではなく、段落単位でまとめて削るようにしていきましょう。第一段落の要約と第三段落の社会実例は削除し、名言や書き出しの結びなどの表現の工夫も削除し、第二段落の体験実例と第四段落の意見だけでまとめるようにするといいと思います。(ただし、新聞社に投稿しない場合は、長いままでも構いません。)
 清書は、ホームページから送ることもできます。作文をホームページから送るときと同じように送ってください。
 よく書けた清書は、自分で新聞などに投稿してください。二重投稿になる可能性があるので、教室の方からの投稿はしません。
 手書きで清書を書いている人は、その清書をコピーして、原本を投稿用に、コピーを提出用にしてください。
 パソコンで清書を送信している人は、その清書をワードなどにコピーして投稿用にしてください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(ペンネームで書いている場合は本名に訂正しておいてください)
(2)学年
(3)自宅の住所
(4)自宅の電話番号
(5)学校名とふりがな
(6)学校所在地(町村名までで可)
●朝日小学生新聞の住所
 104−8433
東京都中央区築地3−5−4
朝日小学生新聞
「ぼくとわたしの作品」係 御中
●毎日小学生新聞の住所
 100−8051
東京都千代田区一ツ橋1−1
毎日小学生新聞
さくひん係 御中
長文の音読が難しい
 ときどき、「長文の音読が難しい」という相談を受けます。
 難しいのは、当然です。難しい文章でも読めるようにするための勉強だからです。
 ここで大人が大きく勘違いをしてしまうのが、数回ですらすら読めるようになるのが普通の勉強だと思ってしまう点です。学校では、確かにそのようなスモールステップの勉強をしています。最初は、大きい文字でひらがなだけの勉強です。それから、少しずつやさしい漢字が入り、文章が少しずつ長くなります。そのように、一歩ずつ抵抗なく段階的に進歩させていくのが現在の勉強です。それは、もちろんそれでいいのです。スモールステップで毎日少しずつ長い期間ををかけて気長にやっていくのが学校の勉強だからです。
 ところが、言葉の森の長文音読は、1日十分程度です。このような短い時間の勉強で、子供が最初から楽にすらすら読めるようなものを毎日読んでいても力はつきません。
 最初は、つっかえつっかえで1日で数行読むのがやっとということもあります。そのときは無理をせずに数行でやめて毎日続けていればいいのです。1日の音読時間の目安は10分程度で、勉強の期間は3ヶ月です。3ヶ月で10〜20編の長文を毎日数行ずつでも読んでいれば、3ヶ月の終わりごろには、驚くほど楽に読めるようになっています。
 そのときに、いちばん大事なのは、親の笑顔です。子供がつっかえつっかえ読んでいるのを聞いて、横でにこにこしていられる親はまずいません(笑)。それぐらい、子供がたどたどしい読み方をするのを聞くのは、親にとっていらいらすることなのです。そこを、忍耐強く、毎日「よく、読めたねえ」と褒めてあげるのが親の勉強です。低学年の長文音読は、子供の勉強である前に、親の忍耐力の勉強なのです。
知能を高める教育
 先日も紹介した苫米地英人さんの本「頭の回転が50倍速くなる脳の作り方」を読んで、関連して考えたことを書きたいと思います。

 小学校低中学年のころは、親が勉強をさせれば、子供の成績はよくなります。この理由は単純で、このころの勉強は表面的なものなので、与えればその分知識は増えるからです。
 もちろん、勉強をさせて成績をよくする方が、勉強をさせずに成績を悪くするよりもずっといいことは確かです。しかし、それ以上に大事なものは、成績をよくするのではなく、頭をよくする勉強をさせることです。
 頭をよくする勉強というのは、抽象的な能力をつける勉強です。例えば、1を10回加えるときに、1+1+1+……と計算させていくのが、成績をよくする勉強法だとすると、1×10という考え方を教えるのが頭をよくする勉強法です。正確に言えば、「考え方を教える」のではなく、そういう「考え方ができることを教える」のが、頭をよくする勉強法です。
 この成績をよくする勉強法と頭をよくする勉強法の違いは、学年が小さいころには出てきません。頭をよくする勉強法をしている子は、むしろ成績があまりふるわないのが普通です。ところが、学年がだんだん上がるにつれて、頭をよくする勉強法をした子の方が伸びてくるのです。
 と言いたいところですが(笑)、実は大学入試のころまでは、その差はまだそれほどはっきりしません。大学入試ぐらいのレベルの勉強では、成績をよくする勉強法に根性で取り組んでいる子の方が、やはり成績はいいのです。その理由は簡単です。今の入試では、頭のよくなる勉強を1時間しかしない子よりも、成績のよくなる勉強を10時間する子の方が、成績がよくなるような試験内容になっているからです。
 本当に差がはっきりしてくるのは、大学入学後です。学校を卒業して、社会で仕事に取り組むようになると、勉強の内容は、1を10回加えるような簡単なものから、もっと複雑なものになってきます。そのときに、抽象的に処理する能力を身につけた子は、次々と出てくる難問に取り組んでいくことができるのです。
 では、その抽象的な能力とは、何でしょうか。(つづく)
人間の特徴(SF)
 以下の話は、実際に確かめたものではありません。ですから、一種のSFとして読んでください。
 人間の特徴は、言語と感情と身体を持っていることです。これが、宇宙にいるほかの知的生命体との大きな違いです。宇宙にいる知的生命体は、神様などという名前で呼ばれることがありますが、要するにいろいろな種類の宇宙人です。と、私はいかにも知っているかのように書きますが、これはあくまでも仮説です。いろいろな資料を見て考えた結果、たぶんこうではないかということです。
 さて、第一に、これらの宇宙人は、言語を持っていません。テレパシーで通じるからです。自分の思っていることがそのまま相手に丸ごと伝わるのですから、これほど便利で確実なコミュニケーションはありません。言語のような不便なものを使っているのは、地球人ぐらいのものなのです。動物も言語を持っていないので、この宇宙人的なテレパシーコミュニケーションでほとんどのことを済ませています。地球人にも本当はテレパシー能力があるのですが、言語の方がパワーが強いので、そのテレパシー能力が開花していない人がほとんどです。宇宙人は、言語を持っていませんが、地球人とコミュニケーションを取るときは、自分たちの伝えたいことを、相手の地球人の言語能力に応じて言語化することができます。
 第二に、宇宙人は、感情を持っていません。こういうと不思議に思えるかもしれませんが、感情つまり喜び悲しみ怒り笑いなどの感情を持っていない生き物は身近にもいます。それは、昆虫です。昆虫が高度に進化すると、意識を持つようになります。地球も進化の方向によっては、昆虫が地球の主人公になる可能性もありました。しかし、そうなった場合でも、昆虫には感情がありませんから、地球はかなり殺風景な文化を持つ星になったと思います。動物でも、高度な哺乳類になると、人間と同じような感情を持っています。しかし、それらの感情のほとんどは喜びと悲しみだけで、人間のような不安、後悔、嫉妬、自慢、ユーモアなどの感情はほとんど発達していません。宇宙人にとっては、この地球人の持つ激しい感情が不思議でたまりません。この感情の持つプラスマイナス双方向のエネルギーを自分たちの人生にも取り入れたいと思って、宇宙人はこれまで研究をしてきました。昔、宇宙人は、地球人の怒りの感情に関心を持っていました。怒りのエネルギーの大きさに着目し、それを自分たちの生活に生かすことを考えていたのです。しかし、地球人は、文化が発達するにつれて次第に怒らなくなってきました。このため、怒りのエネルギーを引き出す方向へ地球人を誘導しようとしている宇宙人もいます。しかし、最近、宇宙人が関心を持ち始めたのは笑いです。笑いは、怒りよりもエネルギー的に弱いのですが、コンスタントに出すことができるので、活用しやすいのではないかと考えているのです。
 第三に、宇宙人は身体を持っていません。これも不思議に思えることですが、物質的な身体というのは、この地球の物質世界と相性がいいので初めて存在しています。宇宙には、地球の物質世界以外のさまざまな世界や次元があります。そこに住んでいる宇宙人は、知的な意識は持っていますが、地球人と同じような身体は持つ必要がありません。そのため、宇宙人には、地球人と地球の生物が持つ、「痛み」や「気持ちよさ」という感覚を理解できません。
 言語、感情、身体を持たない宇宙人のイメージをわかりやすく言うと、知性の発達したトンボの幽霊のようなものです。ちょっとかわいそうなイメージですが。もちろん、地球人と同じような言語、感情、身体をわずかに持つ宇宙人もいることはいます。しかし、その割合は圧倒的に少ないのです。なぜかというと、言語や感情や身体を持つ知的生命体は、その激しい進化の途上で必ず戦争を引き起こし、自らの文化を崩壊させてしまったからです。言い方を換えれば、いま宇宙にいる宇宙人のほとんどは、きわめて緩やかに穏やかに進化してきたので、戦争や破壊を引き起こすことがなかったのです。
 しかし、戦争や破壊を引き起こさないということは、見方を変えれば、それだけ創造性がないということです。そこで、いま宇宙人は、地球人の可能性に注目しています。言語と感情と身体を持ちながら、これだけ高度に発達した星はこれまで宇宙に存在しなかったからです。しかし、地球人はいま一つの岐路に立たされています。それは、地球人の特徴が今後戦争や破壊に結びつくのか、それとも創造に結びつくのか、その方向が宇宙の運命に影響を与えるほど、地球の科学技術が発達してきたためです。
 ここで、私たちがすることは、三つあります。それは、地球人の特徴をよりよい方向に生かすということです。言語に関して言えば、読書と長文暗唱によって、言語の持つ創造性を更に発展させていくことです。感情に関して言えば、喜びの感情を中心にし、喜び以外の否定的な感情を喜びの感情で覆いつくせるようにすることです。身体に関して言えば、苦痛の感覚を克服し、すべての感覚を心地よいものとして感じられるようにすることです。未来の人間社会の目標をひとことで言えば、以上のようなことになると思います。
 
作文に使う言葉(かな/やす先生)
    
 この前、電車に乗っていたときのことです。先生の隣の席で女子高生が、おしゃべりしていました。聞くともなく聞いていると、こんな会話が耳にとびこんできました。
「なにーこれー、ギガかわゆす〜」
「ほんとー、チョーやばいよね〜」
 思わずのぞきこむと、二人はかわいい犬の写真を見ています。どうやら、「ギガかわゆす」というのは「とってもかわいい」ということ。「チョーやばいよね〜」というのは、「危険なくらいに、すばらしい」という意味らしいのです。
 先生は女子高生ではないので、ふだんはこういう言葉は使いません。でも、作文の先生などしているものですから、新しい言葉にはたいへん興味があります。そんなわけで、家に帰ると、さっそくパソコンで現代の若者言葉や、はやり言葉について調べてみました。 するとまあ、出るわ出るわ。 
  
 オケる……カラオケに行く。
 おっさん……「おつかれさん」の略。
 KY(ケーワイ)……空気よめない、の略
 プリコ……プリクラ交換。
 キレカワ……キレイ+カワイイ
 がっつり……「がっちり」の変形で、「きっちり」「しっかり」と同じ。
 どん引き……かなり引かれること。もり下がること。
 
 などなど、ちょっと前にはなかった言葉でいっぱいです。先生は、こういう言葉達を見て、「なんだ、こんなのは日本語の乱れだ。けしからーん」とおじいさんのようなことを言うつもりは全くありません。言葉、というのは日々新しく生まれ、変化していくものだからです。
 もし、言葉が変化してはいけないものなら、わたしたちは大昔の言葉を使わなければなりません。たとえば、平安時代には、「ギガかわゆす」つまり「とってもかわいい」のことを「いと、うつくし」と言いました。うつくし、は昔は「美しい」ではなくて、「かわいい」という意味だったのです。これを現代で使ったら、それこそ、「ドン引き」されることでしょう。
 ただ、こういう新しい言葉を作文に使うこと、それだけは「ちょっと、まったー!」と言いたいのです。なぜならこれらの新しい言葉は、いつ無くなっていくかわからないからです。たとえば、少し前まで使われていた、「ナウい」と言う言葉、今ではおじさんしか使いません。フィーバー(もりあがること)や「チョベリグ」(超ベリーグッド)なんて言葉も、いつのまにか消えました。
 作文というのは何年たっても残っているものですし、いろんな人に読んでもらうものです。ですから、いつ消えるかわからない言葉や、一部の人にしか通じない言葉は使わない方がいいのです。ニュースを読むアナウンサーは「今日、上野動物園でチョーかわいいパンダの赤ちゃんが産まれました」とは言いません。新聞の見出しに「ギガかわゆす! パンダの赤ちゃん誕生」などとも書かれません。それは、そういうわけなのです。
 新しい言葉が、長い年月を生き残り、あらゆる人に通じるようになれば、それはもう、一人前の言葉です。「うつくし」という言葉が「かわいい」という言葉に変わったのが、その例です。でも、それをきちんと見届けるまでは、お友だち同士の会話には使っても、作文には使わない方がいいですね。



                 
 
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