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  7月16日(月)は、休み宿題
  読解マラソンのページ更新
  言葉の創造性
  愛の与え方
  「学習の楽しさ」とは(ひまわり/すぎ先生)
  「なかやまかなとなかまやかな」(かなぶう/なうか先生)
  祖母の味(モネ/いとゆ先生)
  今週の一笑「カラス」
 
言葉の森新聞 2007年7月2週号 通算第990号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
7月16日(月)は、休み宿題
 7月16日(月)は、休み宿題です。先生からの電話はありませんが、その週の課題を自宅で書いて提出してください。先生からの説明を聞いてから書きたいという場合は、別の日に教室までお電話をして説明をお聞きください。(平日午前9時〜午後7時50分。電話0120-22-3987)
読解マラソンのページ更新
 読解マラソンのページが新しくなりました。
 7月のテーマは、海の中です。
 6月までの記録は、現在見られませんが、あとで過去の記録を見ることのできるページを作る予定です。
    
言葉の創造性
 人間の言葉が不思議なのは、自然界にないものを作り出すことができる点です。
 普通、動物たちは言葉を持たないので、仲間どうしのコミュニケーションを一種のテレパシーのようなもので行っています。オオカミが協力して獲物を追いかけるときなどがそうです。人間のように、「おい、おまえはあっちへ行け。おれはこっちに行くから」などという言葉は使わずに、お互いにピピピと相手の考えていることを自分も同じように感じながら行動しています。
 ところが、人間は言葉を発明したために、そういうピピピという感じ方ができなくなってしまいました。そして、その分、更に言葉によるやりとりが洗練されるようになっていったのです。
 しかし、言葉はいったん発明されると実体のように扱うことができるので、言葉どうしを組み合わせることができるようになりました。これが言葉の創造性です。
 例えば、「空飛ぶ猫」などという実際にはありもしない現象を言葉で簡単に作ることができます。もちろん、ネコを放り投げると一瞬そういう状態になりますが、通常ネコを空を飛びません。
 この「空飛ぶ猫」ぐらいでは、創造性といっても大したことはありませんが、もっと複雑な概念と概念を結びつけると、自然界にある以上の価値あるものを生み出すことができます。
 言葉によって価値あるものを生み出すときの材料となるものが長文や読書です。
 いい文章をたくさん読んで、自分の頭の中に将来の創造性の材料をたくさん蓄積していってください。
愛の与え方
 豊かな人は、他の人に何かを与えることができます。愛も同じです。豊かに愛されている人は、その愛を同じように他の人に分けてあげることができます。
 貧しい人は、相手から愛をもらおうとします。愚痴をこぼす、ため息をつく、人を恨むなどは、すべて愛をもらいたいという心の現れです。
 そして、私たちは全員、それほどひどく貧しくはないが、それほど大いに豊かでもない、そこそこの人生を歩んでいます。だから、多くの人は、たまに愚痴をこぼし、たまに人を褒めたり優しくしたりしながら生きています。
 私たちにできることは、その愚痴の度合いを少し減らし、人に優しくする度合いを少し増やすことです。
 そのコツは、第一に、嫌なことがあったら、その分、宇宙の汚れが自分を通してきれいに濾過されたと思うことです。そうすると、嫌なこともよかったことのような気がしてきます。(笑)
 第二は、人に優しくしてあげるときは、自分が優しくしようと思うのではなく、宇宙の愛が自分を通して相手に優しさとして送られると思うことです。そうすると、他人を褒めたり優しくしたりしても自分もその分豊かになったような気持ちになります。
 しかし、人間は有限な生き物ですから受け入れ可能な容量というものがあります。自分の濾過の容量を超えてまで汚れをきれいにすることはできません。また、自分の容量を超えてまで宇宙の愛を他人に送ることはできません。
 だから、第三のコツは、濾過も愛も、自分が楽にできる身近なところでまず実行するということです。身近なところで実行しているうちに、だんだんと容量も大きくなり、更に遠いところまで広げていけるようになるでしょう。
 さて、身近な実例です。お母さんが子供について、お父さんの前で愚痴をこぼします。「○○ちゃんがまたテストで悪い点を取ってきたのよ」。お母さんは、愚痴をこぼすことによって、お父さんから愛を補給したいと思っているのです。しかし、お父さんの愛が豊かでなければ、お父さんもどこかから愛を補給しなければなりません。そこで、お父さんは、お母さんの育て方に文句を言うことによってお母さんから愛を補給しようとします。こうして、家庭の中で愛の奪い合いが始まるのです。
 最初に愛を奪われていたのは子供です。テストで悪い点を取ったということで、子供はどこかから愛を補給したいと思っています。お母さんが豊かであれば、明るく「大丈夫。テストなんか気にしない」と言うことができます。お父さんが豊かであれば、明るく「それじゃあ、そのテストをお父さんと一緒に見直そうか」と対応することができます。こうして、家庭の中で愛を与え合う関係にもなることができるのです。
 テストの点数は単なる物です。形として見えない愛の方が、テストの点数よりもずっと大事なものなのです。
 以上、もう一度まとめて言うと、人から愚痴をこぼされたら、宇宙の汚れが自分を通して濾過されてその分自分もきれいになったと思うことです。そして、宇宙の愛を自分を通してその人に送ることによって、その分自分の愛も増えたと思うことです。
 このことを、これまでのいろいろな場面にあてはめて、ぜひシミュレーションしてみてください。「あのとき、ああいう愚痴をこぼされたので、つい自分もああいう対応をしてしまったけど、実はこういう対応ができたのだなあ」と。
 あなたの周りに貧しい人がいるのは、あなたがそれだけ豊かだからなのです。

 
「学習の楽しさ」とは(ひまわり/すぎ先生)
 「作文の勉強は、楽しくやっていきましょう。」
 いつも私は、みなさんにこう言っています。考えてみると、世の中には楽しいことが溢れています。ただ「ガハハハ!」と大声で笑っておしまいという楽しさから、感動で涙が出るような質の高い楽しさまで、いろいろです。今回の学級新聞では、同じ「楽しい」という言葉で表されることにも、さまざまな質があることをお話したいと思います。
 ピアノを例に挙げてみましょう。習い始めたばかりのころは、片手で「ドレミ……」と弾くぐらいで精一杯。これでは全然楽しくないのでしょうか? そんなことはありません。単音で簡単なメロディーを弾けるだけでも楽しいものです。それに、日に日に自分が上達していくことを感じられたら、楽しみも倍増です。いつかはショパンやリストを弾きたい。目標ができたら、それに少しずつ近づくことが、また楽しみです。

 しかし、ものごとはそう単純ではありません。習い始めのころは毎日上達を感じることができたのに、しばらくたつと、本当にうまくなっているのかどうかわからなくなります。また、難しい課題が出てきて、何ヶ月も同じ練習を余儀なくされたりします。言ってみれば、これは「楽しくない」状態です。楽しくなければ、続けていても意味がないのでしょうか。いやいや、そんなことはありません。これは次の、もっと質の高い楽しさへ向かう準備段階なのです。いつまでも片手でメロディーだけを弾いていて、いつまでも楽しいでしょうか? 難しいと思われたことも、毎日繰り返し練習しているうちに、いつかできるようになる日が来ます。こうして一つ壁を乗り越えると、前よりも質の高い、今まで知らなかった楽しさを味わうことができるのです。

 しかし、一つ壁を乗り越えても、また次の壁が立ちはだかっています。次の壁はさらに困難なものかもしれません。ここで嫌になってやめてしまったら、楽しさはここで終わり。なぜなら、壁を乗り越えるたびに楽しさの質はアップしていくものだからです。
 ピアノを例に挙げましたが、これはスポーツにも勉強にも、どんなことにも当てはまると思います。壁に突き当たると、たいへん苦しいものです。「こんなに苦しいなら、やめてしまおう。」それも一つの選択肢かもしれません。しかしこの壁は、次のさらなる質の高い楽しさを味わうために用意されたものだと考えてみてください。文字通り「苦あれば楽あり」ということです。

 私は、フルートを習い始めて、ちょうど二年になります。現在、これまでで一番の壁にぶちあたっています。もう三ヶ月ほど、ひたすら同じ課題を練習しています。それを聞かされている家族は耳にタコができていることでしょう。それどころか、自分の耳にもタコができるほどです。これを乗り越えたら、どんなに楽しいことが待っているか、今から実に楽しみです。(やせ我慢!)
 さて、最後はやっぱり作文の勉強の話です(笑)。作文の勉強は単調なものに見えて、実はそうではありません。学年が上がると、急にぐっと難しくなるときもあります。難しさの感じ方は人それぞれですが、「難しい、もう嫌だな。」と思ったら、それは自分がぐんと成長するチャンスであり、次にやってくる、さらなる質の高い楽しさを味わう前段階なのです。それを味わう日を夢見て、一緒に乗り越えていきましょう。私も、今の壁を乗り越え、新たな楽しさを見つけたら、またご報告したいと思います。
「なかやまかなとなかまやかな」(かなぶう/なうか先生)


 こんにちは! 記念すべき「なかやま通信」第一号です。
 新しい生徒さんばかりなので、しばらくは自己紹介も兼ねた学級通信にしてみたいと思います。自分に関するキーワードからスタートして、作文に関係する話からどうでもいい話まで、気の向くままに語ってみますね。では、今回は私の名前からスタートです。

 私の名前は、中山佳奈といいます。なかやまかな。逆から読んでもなかやまかな。…あれ? と思った人、正解です。実は惜しいことに、逆から読むとなかまやかなになってしまうのです。
 逆から読んでも同じ言葉になる文字列を、「回文」と言います。みなさん、思いつきますか? トマト、ナズナ、ぼくおおくぼ(僕、大久保)…私がぱっと思い浮かぶのはこれくらいです。
 しかし世の中にはすごい人がいるもので、感動的な回文を思いついた人がいます。紹介しますね。

 鶏と小鳥と鰐→ニワトリとコトリとワニ→にわとりとことりとわに

 確かに、前から読んでも後ろから読んでも同じです。そもそも、どうしてニワトリと小鳥とワニなどという何だかつながっているようでつながらない動物たちを思いついたのかが疑問ですが、それ以上にすごいと思うのは、この、夢に出てきそうなインパクトです。実際私は夢に見ました。自宅の庭に小さな池があって、その中にワニがいます。池のほとりには木が一本生えていて、枝に小鳥が一匹とまっています。その木の幹の周りをニワトリが走っていました…。
  

 回文は言葉遊びの一種です。言葉というのはおもしろいもので、お互いに無関係な単語でも、ある規則性をもってつながれると、意外なほど強い印象を与えることがあります。言葉の森の項目の一つに「ダジャレ表現」というものがありますよね。あれも言葉遊びの一種ですが、同じような性質を持っていると思います。外国の詩を知っている人は、「韻を踏む」という言葉を知っているかもしれませんね。ごくごく簡単に言うと、音の響きをそろえて一定のリズムを生み出す技法のことです。ちょっとだけ、ダジャレに似ていると思いませんか。昔の偉い詩人も、もしかしたらダジャレの天才だったのかもしれません。

 あれれ? 回文になりそこねた中山佳奈という名前からこんなところまできてしまいました。ではみなさん、おもしろい回文やダジャレを思いついたらぜひ教えてくださいね。もちろん、作文に入れてみてもいいですよ。
 
祖母の味(モネ/いとゆ先生)

 うっとうしい梅雨のシーズンが来ました。雨の苦手な私にとって、「あぁ、とうとうやって来ちゃったなぁ。」とため息をつきたくなるほど、ゆううつな季節です。早くかがやく夏の日差しを、思い切りあびたいものですね。
 
 さて、先日、千葉県木更津市にある主人の祖母の家に行ってきました。この家は、昨年祖母が亡くなってからしばらく空き家になっていたのですが、おとなりの家が買い取ってくれることになり、今回は家の中の整理をするために出かけたのです。
 部屋は少しほこりっぽくなっていたものの、祖母が生きていた頃と同じようにこぎれいに片付いており、あちこちに祖母のしわだらけの笑顔が見えるような気がしました。たくさんの親せきが集まり、昔の写真を見つけては歓声を上げたり、祖母のお気に入りだった庭を散歩したりと、思い思いになつかしい家に名残を惜しんでいるようでした。
 私は、料理上手だった祖母の台所用品を形見にいただこうと思い、食器だなをながめていたところ、一冊の本に目がとまりました。「お料理に強くなる本」という題名のその本は、カラーページがうっすらと色あせてセピア色になり、ページをめくるたびに長い年月をかけてしみついた古いにおいがしました。
 そういえば、結婚したばかりの頃、主人と初めてこの家に遊びに来たとき、祖母は分厚いステーキを焼いて私たちにふるまってくれました。
 「若い人たちは、お肉がいいでしょう?」
と、しわくちゃな顔の奥で、いたずらっぽい目が笑っていました。そのときに食べたステーキのソースの味は、おしゃれなレストランではけっして口にできない、素朴で温かい味がしました。
 私は、その後何度もこのソースの味を再現しようと、いろいろな食材を使って試してみましたが、一度も同じ味にはなりませんでした。
 「もしかしたら、あのステーキソースのレシピが、この本にのっているかも?」
と思い、胸を高鳴らせながらページをめくっていくと・・・。あった!ありました。「奥様SOS」というできそこないの広告の見出しのようなページに、昔の黒いダイヤル式の電話のさし絵が書かれていて、その横に「ステーキソースの作り方」というのがくわしくのっていました。
 「そうか〜、かくし味におろしにんにくとみりんが入っていたんだ!」
 私は、その本をありがたくいただいて帰り、さっそく作ってみました。あつあつのステーキの上に、香りの良いソースをたっぷりとかけていただくと、
 「これだ、この味だ!」
と、主人がなつかしそうに目を細めながら言いました。
 ふだんは洋食などあまり口にしない祖母が、若い私たちを喜ばせようと、本を見ながらいっしょうけんめいに作ってくれたのだろうかと思うと涙がこみ上げてきそうで、あわててステーキを口につめこみました。まぎれもなく、あのときと同じ温かい味がしました。
 「また会えたね、おばあちゃん。」
私は、頭の中に思い浮かんだやさしい祖母の顔に、そっとほほ笑みかけました。
          
今週の一笑「カラス」
 言葉の森の教室は、ビルの屋上のようなところにあるので、よくカラスやハトやスズメが遊びにきます。
 その中でいつも来る二羽のカラスはよく慣れていて、人間のすぐそばまでやってきます。
 お菓子をやると、屋上に作ってある小さな池のところに運んでいって、水にひたしてやわらかくしてから食べます。
 それだけならいいのですが、毎日どこからかニワトリの骨をくわえてきては、池にひたして食べるのです。そして、そのまま骨を置いていきます。ちょっと不気味です。
 だから、この前、カラスに言いました。
「おまえ、骨を食べるのはいいけど、ちゃんと片付けろよな」
 カラスの返事、
「アホー」
                                       
 
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