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  ケヤキ2.2週のお米の読みは「おべい」ではなく「おこめ」です
  森リンの点数修正中
  日本語の持つリズムとα波
  2.4週は清書
  「三年峠」(たんぽぽ/たま先生)
  自然との関わりについて(いろは/いた先生)
  のど元過ぎれば熱さを忘れ 停電は忘れた頃にやって来る(メルトン/うなぎ先生)
 
言葉の森新聞 2007年2月4週号 通算第972号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
ケヤキ2.2週のお米の読みは「おべい」ではなく「おこめ」です
 ケヤキの2.2週の長文で、「お米」のルビが「おべい」とふられていました。もちろん、ただしくは「おこめ」です。
 茶筌(ちゃせん)というソフトを使って、自動的に学年別にルビをつけるようにしており、それを最終的には人間がチェックするようにしています。そのチェック漏れです。申し訳ありませんでした。(*_ _)
森リンの点数修正中
 みなさんの作文の実力が上がってきたために、森リンの点数の基準にしている数値が次第に実態に合わなくなってきていました。そこで、2月19日から新しい基準で再採点することにしました。
 これまでの点数に比べて総合点が全体に下がっていますが、総合点よりも作文検定の級との対応を見ていくと実力がわかりやすいと思います。
 順位の表示は、小学生から高校生までの幅広い年齢層の中での順位です。その課題に取り組んでいる人の中での位置も併せて載せるようにしています。
 
日本語の持つリズムとα波
 日本語の特徴は、マス目文化です。英語と比較してみるとわかりますが、英語は語と語の間に連続性があります。例えば、「This is an apple.」という文を読むときは、極端に言うと「じすぃーずあんなっぽー」で、日本語的に聞くとよくわかりません。日本人が読むともちろん、「じす いず あん あっぷる」です。このマス目文化は、音楽の聴き方にも影響していると言われています。俳句や短歌などの七五調も、日本語の持つマス目性を生かしたものです。
 さて、このマス目文化がなぜいいかというと、音読したときに、日本語独特のリズム感が生まれることにあります。普通に読む早さは1分間に400字程度と言われています。400÷60=6.66で、1秒間に6〜7文字の言葉を読んでいくという計算です。
 ここで、脳波が登場します。精神活動をしているときの脳波はβ波で13〜40Hz(ヘルツ)、安静状態の脳波はα波で8〜13Hz、まどろみ状態の脳波はθ波で4〜8Hzです。
 ここからは仮説ですが、人間の脳波はもともとα波やθ波なのですが、精神活動をしているときは、その本来のα波が撹乱されβ波となるのではないかと思われます。だから、β波というものは独自に存在する波なのではなく、α波の撹乱された状態と言えます。では、なぜ精神活動が活発なときにα波が撹乱されるかというと、精神活動とはほとんどの場合、言語的精神活動だからです。私たちは、普段何もしないときでも言語的に生きています。例えば、包丁で大根を切っているようなときでも、「そう言えば、この前のあれどうしたかなあ。あ、お湯がわいた。えーとお茶の入れ物は」という具合です。この言語を思い浮かべるときの不規則なリズムが脳波を撹乱するのではないかと考えられます。
 それに対して音読は、声に出すという身体上の制約から一定のリズムにならざるを得ません。この一定のリズム、例えば6〜7Hzの音読が脳波のα波を撹乱させないのです。
 日本には、念仏のような単純な語句を音読する文化があります。これも日本語の持つ性質を利用したものですが、この念仏のような単調な繰り返しを続けていると、脳波が撹乱されないばかりか、その語のリズムに逆に脳波が同調するようになるのではないかと思われます。
 今、長文音読は、長文を見ながら音読する形になっていますが、やがて慣れてくると、長文一つを丸ごと暗唱できるようになってきます。暗唱しているときの音読は更にリズミカルになるので、脳波に更によい影響を与えると思われます。
 
2.4週は清書
 毎月第4週は清書です。担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、作文用紙に清書してください。(一度清書したものは、清書しないように注意してください。また、ほかの人の作文を写して清書にすることのないようにしてください)
 清書の意義は、次のとおりです。
(1)これまでに書いた作品をよりよいものに仕上げること(字数を増やす、表現を更に工夫するなど)
(2)他の生徒の清書を読む機会を持つこと(自分の清書を他の生徒に読んでもらう機会を持つこと)
(3)新聞社に投稿する機会を作ること
 清書はできるだけペンで書いてください。しかし、低学年でペン書きが難しい場合は、濃い鉛筆で書いてもかまいません。
 低学年で、文章を書き写す形の清書が難しい場合は、直接新しい作文を清書として書いてもかまいません。
 絵を作文用紙の裏に描く場合は、表に作文を書かないでください。(つまり用紙は1枚の裏表を同時に使わないようにしてください)
 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するものがない場合もあります。そのときは、自由な題名で作文を書いて送ってください。
 清書の作文は返却しません。ホームページの「生徒の里」で見ることができます。小2までの全員の作品及び小3以上の入選作品は、プリントされます。
 用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。 感想文を清書する場合は、最初の「三文抜き書き」や「要約」はカットするか、簡単な説明に変えておく方が作品としてまとまりがよくなります。
 中学生以上の人が清書を新聞社に送る際の字数の目安は、500字程度です。長すぎる場合は、新聞社の方でカットされて掲載されることがあります。字数を縮めるときは、いろいろなところを少しずつ縮めるのではなく、段落単位でまとめて削るようにしていきましょう。第一段落の要約と第三段落の社会実例は削除し、名言や書き出しの結びなどの表現の工夫も削除し、第二段落の体験実例と第四段落の意見だけでまとめるようにするといいと思います。(ただし、新聞社に投稿しない場合は、長いままでも構いません。)
 清書は、ホームページから送ることもできます。作文をホームページから送るときと同じように送ってください。
 よく書けた清書は、自分で新聞などに投稿してください。二重投稿になる可能性があるので、教室の方からの投稿はしません。
 手書きで清書を書いている人は、その清書をコピーして、原本を投稿用に、コピーを提出用にしてください。
 パソコンで清書を送信している人は、その清書をワードなどにコピーして投稿用にしてください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(ペンネームで書いている場合は本名に訂正しておいてください)
(2)学年
(3)自宅の住所
(4)自宅の電話番号
(5)学校名とふりがな
(6)学校所在地(町村名までで可)
●朝日小学生新聞の住所
 104−8433
東京都中央区築地3−5−4
朝日小学生新聞
「ぼくとわたしの作品」係 御中
●毎日小学生新聞の住所
 100−8051
東京都千代田区一ツ橋1−1
毎日小学生新聞
さくひん係 御中
               
 
「三年峠」(たんぽぽ/たま先生)
 昨年末、図書館で「三年峠」というお話を見つけました。(教科書にも取り上げられているということですから、みなさんの中にもすでに知っているという人がいるかもしれませんね。)お隣の国、韓国の童話なのだそうです。内容は次のとおり。

 「三年峠」と呼ばれる有名な峠。ここで転ぶと三年しか生きられないといわれており、村のみんなが恐れていました。いつものようにこの峠を歩いていたおじいさん。気をつけていたはずなのに、ある日、足を滑らせて転んでしまうのです。おじいさんは「あと三年しか生きられない」とひどく落胆し、とうとう病気になってしまいます。それを知った村の少年は、おじいさんにこう言いました。「それならもう一度転べばいい。一度転べば三年生きるのだから、二度転べば六年、三度なら九年生きられるのです」と。その言葉に勇気付けられたおじいさんは、峠に行って、笑いながら何度も何度も転び、すっかり元気を取り戻します。それ以来、「三年峠」は縁起のよい場所として、多くの人が訪れては転んだ、ということです。

 「病は気から」というように、おじいさんは「三年しか生きられない」と考えて病気になってしまいました。しかし少年は「三年も生きられる」というプラス思考、さらには「何度も転べば、もっと生きられる」という発想の転換により、見事におじいさんを救います。おじいさんと少年、どちらの考え方を選んだ方がいいか、答えはすぐにわかりますね。

 落ち込んだり、イライラしたりしていると、よい考えが生まれてきません。「ピンチはチャンス」であるといいますが、ピンチにこそこのように気持ちを切り替えていかなければならないと、このお話は教えてくれています。

 「喜怒哀楽」の「怒」と「哀」を取って「喜楽」→「気楽」。つとめて明るく、前向きに…。そして「何とかなるさ」という「お気楽さ(笑)」で、たくさん笑って過ごしましょう。
自然との関わりについて(いろは/いた先生)
 昨年を振り返ってみると本当に幸せな毎日を過ごすことができました。これといった出来事も無く平和な一年が過ぎようとしていた12月の暮れ、我が家に大事件が起こったのです。
 冷たい雨が降り続く土曜日の朝、所用を済ませ車で戻った私の目に飛び込んできたのは一匹のハトでした。あわててブレーキをかけ、傘をさしてハトを覗き込むと、首が曲がり、人影が近づいているというのにうずくまったままでした。今まですずめやツバメ、インコに文鳥とたくさんの鳥を飼ってきた私は、そのハトを見るなり「もうだめだな。」と確信しました。けれども冷たい雨に打たれ、道路の真ん中でうずくまっていては車にはねられて死ぬのが目に見えています。私は家にいる子どもに
「ダンボールを持ってきてあげて。」
とたのみました。最後ぐらいきれいに死なせてあげたかったのです。
 ゴム手袋をし、ハトを抱き上げダンボールへと入れました。野鳥が人間の手をのがれようとせず動かないのは死がすぐそこまで来ている証拠です。不安そうに見つめる子どもに私は
「もって半日。早くて2、3時間だよ。手を出さないでそのままにしてあげてね。」
と伝えました。
 それから、1時間過ぎ、4時間過ぎ、次の日の朝になりました。私より朝早く目覚めた子ども達が
「おかあさ〜ん、ポッポまだ生きているよ。」(勝手に名前までつけているし……。)
というのです。虫の息ではあっても命はまだ続いていました。それでも私は
「多分だめだから、そのままにしてあげなさい。」
と言って、家へ入りました。が、心配で心配で落ち着いて家事などしていられません。「小さい命が生きようとしている。それに対して私は何もしなくていいのか」という思いと「自然は自然に任せなければならない」という思いが錯綜していたのです。そうこうしているうちに、翌日になりました。朝早く目覚めてハトをのぞきにいくとまだ生きているではありませんか!
 その姿を見た瞬間、私の理性が崩れてしまいました。「生きようとしている小さい命はわたしを選んできたのかもしれない。」何を都合のいいことを、と思われそうですが、そのときは真面目にそう考えたのです。子ども達に近くのスーパーへハトのマメを買いに行かせ、温かさを保てるようライトをダンボールの中へ入れました。そして朝食もそっちのけでありとあらゆるHPをのぞいては、知識を吸収していきました。そこで見つけた「ドバト(公園で見かけるハト)は野鳥ではなく害鳥である」という言葉。
 同じハトでも野鳥として大切に扱われる種があるかと思えば、害鳥として虐げられるものもいる。人間の決めた境界線にいいようのない虚脱感を覚えました。私は言葉の森の講師として、外来種による在来種の危機状況などの資料を読み、一応「自然」について分かったような気持ちになっていました。自然に対して場当たり的な行動を取ってはいけないと。けれど、自分の手にしているハトが「害鳥」といわれることに、言い知れぬ怒りに似た感情がわきあがってしまったのです。ドバトに罪はない。レース用に飼われていたハトが人間のもとに帰ることができず、そこから繁殖して増えたのがドバトです。増やしてしまったのは人間なのに、害鳥といわれることがかわいそうでなりませんでした。
「絶対に治って大空を飛ぼうね。」
そうハトに言い聞かせ介護の日々が始まりました。無理やり口を開けてマメを食べさせ、まっすぐにならない首を見てはため息を一つ。先の見えない治療がこれほどまでにも長く感じるとは思いもしませんでした。けれど私の思いが通じたのか、獣医さんからは治る可能性は低いといわれた首もまっすぐになり、ポッポの外へという思いが強くなってきました。もう、手放すときがきたかもしれない。我が家へきて10日目の朝、そう決心しました。情が移らぬ前に。鳥がいちばん輝いて見えるのは自由に空を飛んでいるときなのだからと……。
 ハトは集団を好む鳥です。我が家の近所の少し大きな公園にはたしかハトがいたはず。そう思って鳥かごを車に積みました。着いてみると残念なことに数匹のハトしかいませんでしたが、あとはポッポの力でなんとかしてもらうしかありません。
「ポッポ、元気でね。もう帰ってきちゃだめよ。」
ハトを脇に抱え、コートで隠して公園の茂みの中へ向かい、そっと胸元を広げました。バサバサっという音と共に、一番高い木の枝まで飛んでいったポッポ。目を細めせいせいしているようにも見えるその姿に安心しました。餌が食べられなかったらどうしよう、カラスにつつかれたらどうしよう、そんな不安もふっとんでしまう光景です。ポッポを背にゆっくりと前へ進み、もう一度振り向いたときにはその姿はありませんでした。
 自然と関わるとき、私たちはいろいろなことを考えなければなりません。生態系を崩す恐れがあること。けれども生態系を崩していると言われている生き物も一つの命なのだということ。
 今でも私のした行為が正しかったのか、過ちだったのか迷うところがあります。首が治ったから良かったものの、一生かごの鳥で終わる可能性もポッポにはあったのです。自然のものに手を出すことの重大さを実感した出来事でした。
 さて余談になりますが、ポッポを自然に帰してから我が家には小さな幸せがたくさん舞い降りています。私達は「ポッポの恩返し」とよんでいます。年末ジャンボ宝くじを買いそびれた私に残されたものは年賀状のお年玉くじ。一等あたればいいなあ。そんな虫のいい話はありませんね、きっと。(笑)

                                 

のど元過ぎれば熱さを忘れ 停電は忘れた頃にやって来る(メルトン/うなぎ先生)

 風雨の中、外出先から戻って車を車庫に入れようとリモコンのスイッチを押したのに微動だにしません。故障かなと思い、手で車庫の扉をこじ開けようとしてもまるで動きません。諦めて玄関のドアを開けてから停電であることに気づきます。照明はもちろん、暖房、パソコン、テレビから、台所まで日常生活のほぼ全てのエネルギーを電気に頼っている場合、いざ停電が来ると非常に心細くなります。気を取り直してロウソクをつけ、お茶でも飲んで・・・。電気が無いとお湯が沸かせないのでした。

 時間が経つにつれてますます電気が恋しくなり、いかに普段自覚の無いまま電気に依存しているかを感じ始めるのです。復旧までに時間がかかったりすると、「もしかして、電気のありがたみを分からせるために電力会社がわざとやっているのではなかろうか。」などと、ひどく被害妄想的な考えが頭をよぎってしまいます。しかし周辺を見回すと、少雨ですが電気のついている家もあります。自家発電です。文句を言う暇があるなら、自分で電気を起こせばよいというわけです。そして私は先ほどの見当違いな世迷言を、頭の隅に追いやります。

 フランクリンが雷雨の中、凧を使って行った電気の実験の成果や、エジソンが尽力した発電機の発明に現代人は大きな恩恵を受けています。電力会社の人たちも、嵐の中、危険な復旧作業に従事しています。彼らのような発明や、実務的な活躍はできなくとも、せめて電気が消えたなら消えたなりに楽しく過ごせる心の余裕をもちたいものです。ろうそくの灯りで語らうというのも、なかなか趣きがあります。停電にでもならなければ、あえてしようという機会も滅多に無いことですし。
 
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