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  『プレジデントFamily 3月号』に言葉の森が紹介されています
  清書は新しい作文用紙で
  1.4週は清書
  中学生以上の清書は長くしてもかまいません(再掲)
  受験直前の作文小論文
  人間へのまなざし 社会へのまなざし(うさぎ/きら先生)
  感動体験が心を育て、学力を伸ばす(たんぽぽ/たま先生)
 
言葉の森新聞 2007年1月4週号 通算第968号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
『プレジデントFamily 3月号』に言葉の森が紹介されています
 昨年12月中旬、『プレジデントFamily』の取材がありました。その記事が『プレジデントFamily 3月号』に掲載されています。現在、書店で発売中です。ぜひご覧ください。
 
清書は新しい作文用紙で
 清書は、今学期の作文用紙(右下にバーコード欄があるもの)に書いてください。前学期までの古い作文用紙(左上にバーコード欄があるもの)は、使わないようにしてください。
 バーコードシールは、担当の先生が貼るので、バーコードの欄は空欄のままにしておいてください。
1.4週は清書
 毎月第4週は清書です。担当の先生の説明を参考にして、返却された作文の中から自分でいちばんよいと思うものを選び、作文用紙に清書してください。(一度清書したものは、清書しないように注意してください。また、ほかの人の作文を写して清書にすることのないようにしてください)
 清書の意義は、次のとおりです。
(1)これまでに書いた作品をよりよいものに仕上げること(字数を増やす、表現を更に工夫するなど)
(2)他の生徒の清書を読む機会を持つこと(自分の清書を他の生徒に読んでもらう機会を持つこと)
(3)新聞社に投稿する機会を作ること
 清書はできるだけペンで書いてください。しかし、低学年でペン書きが難しい場合は、濃い鉛筆で書いてもかまいません。
 低学年で、文章を書き写す形の清書が難しい場合は、直接新しい作文を清書として書いてもかまいません。
 絵を作文用紙の裏に描く場合は、表に作文を書かないでください。(つまり用紙は1枚の裏表を同時に使わないようにしてください)
 新しく教室に入ったばかりの人は、返却されている作文がない場合もあります。また、返却されている作文の中に清書するものがない場合もあります。そのときは、自由な題名で作文を書いて送ってください。
 清書の作文は返却しません。ホームページの「生徒の里」で見ることができます。小2までの全員の作品及び小3以上の入選作品は、プリントされます。
 用紙の空いているところには、絵などを書いて楽しい清書にしてください。 感想文を清書する場合は、最初の「三文抜き書き」や「要約」はカットするか、簡単な説明に変えておく方が作品としてまとまりがよくなります。
 中学生以上の人が清書を新聞社に送る際の字数の目安は、500字程度です。長すぎる場合は、新聞社の方でカットされて掲載されることがあります。字数を縮めるときは、いろいろなところを少しずつ縮めるのではなく、段落単位でまとめて削るようにしていきましょう。第一段落の要約と第三段落の社会実例は削除し、名言や書き出しの結びなどの表現の工夫も削除し、第二段落の体験実例と第四段落の意見だけでまとめるようにするといいと思います。(ただし、新聞社に投稿しない場合は、長いままでも構いません。)
 清書は、ホームページから送ることもできます。作文をホームページから送るときと同じように送ってください。
 よく書けた清書は、自分で新聞などに投稿してください。二重投稿になる可能性があるので、教室の方からの投稿はしません。
 手書きで清書を書いている人は、その清書をコピーして、原本を投稿用に、コピーを提出用にしてください。
 パソコンで清書を送信している人は、その清書をワードなどにコピーして投稿用にしてください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(ペンネームで書いている場合は本名に訂正しておいてください)
(2)学年
(3)自宅の住所
(4)自宅の電話番号
(5)学校名とふりがな
(6)学校所在地(町村名までで可)
●朝日小学生新聞の住所
 104−8433
東京都中央区築地3−5−4
朝日小学生新聞
「ぼくとわたしの作品」係 御中
●毎日小学生新聞の住所
 100−8051
東京都千代田区一ツ橋1−1
毎日小学生新聞
さくひん係 御中
中学生以上の清書は長くしてもかまいません(再掲)
 中学生以上の清書は、これまで新聞社に投稿する原稿になるようにということで、500字を目安に縮める指導をしてきました。この縮める練習は、それなりに意義あるものでした。
 しかし、実際に新聞社に投稿する生徒が少ないということと、9月から学年別清書コンクールが行われるようになったことから、敢えて短くする必要は少なくなってきました。
 清書コンクールは、字数の制約はありませんので、内容がよければ長いままの文章でもかまいません。いい内容の文章にするということだけを目標にして清書していってください。ただし、
自分で新聞社に投稿する人は、これまでどおりその新聞社の投稿条件に合った字数で書いていってください。
受験直前の作文小論文
 今回は、受験直前の取り組みの説明です。
 まず、作文小論文の試験では、どういう課題が出るかわかりません。ここがいちばん不安なところです。この不安をなくすには、次のように考えることが大切です。「運がよければ、いい課題が出るだろう(笑)」。
 書きやすい課題が出れば自分の普段の心がけがよかったからだと考えます。しかし、書きにくい課題が出たときは、「こんなに書きにくいのだから、ほかの人もみんな苦労しているだろう。だから自分は自分のベストを尽くせばいいのだ。ラッキー」と思えばいいのです。
 さて、直前までの勉強の中心は、これまでに書いた自分の文章です。どんな参考書よりも自分の書いた文章がいちばんの財産です。書いたものを何度も読み直し、自分なりによく書けているところに赤ペンで線を引いていきます。それを試験の直前まで続けていってください。よく書けているところとは、切れ味のいい表現、感動のあるエピソード、味のある会話などのあるところです。
 試験の当日には、自分の書いた文章のファイルと1冊の本を持って出かけます。本は、空いている時間などに読みましょう。小説よりもノンフィクションの方がいいでしょうが、自分の好きなものでかまいません。これは、面接のときも同じです。何気なく手に持っていった本が、作文試験や面接のときに意外と使えることがあるります。
 試験の会場でも、時間があれば、これまで自分が書いた文章のいいところだけを読んでおきましょう。
 試験が始まったら、課題を見て、これまでに書いた文章の使えそうなところを簡単にメモします。作文に、その使えそうなところが三つも入れば大成功です。もちろん、使えそうなところが何もなくても大丈夫です。これまでに書いたものが頭に入っているので、書いている間に自然に続きが出てきます。
 書いたあとは、もちろん読み返し。1、2文字の訂正なら消しゴムで、それ以上の長い訂正は消しゴムを使うと汚くなるのでなるべく訂正をしないように工夫していきましょう。原則として消しゴムは使わないつもりで書いていきます。これは普段の練習のときも同じです。
 試験までにまだ時間があり、もう少し書く練習をしたいという場合は、自分がこれまでに書いたものと同じテーマで同じ内容を時間内に書く練習をしていってください。新しい課題に取り組む必要はありません。書く時間が取れないときは、頭の中で構成を考えるだけでも練習になります。
 それでは、試験まで、これまでに書いたものを何度も読み返してがんばってください。
                                  
人間へのまなざし 社会へのまなざし(うさぎ/きら先生)
 久々に、講演会を聞いて涙を流しました。「人間へのまなざし 社会へのまなざし」というテーマでの、人権学習の一貫としての講演でした。講師の方の温かい人間味と、伝えたいと言う熱い気持ちがぐんぐん迫ってきました。すべての人が平等で、個性を持って、輝いて生きるために、いちばん伝えたかったのは、きっと人の痛みをわかるということだと感じました。
 お話によると、いじめをなくすためにいちばん必要なことは、雰囲気をつくることだそうです。温かい思いやりの中で育った子どもは、必ず社会にそれを持って行くから、まず子どもたちを取り巻く場の雰囲気をかえなくてはならない。
 そして、たくさんのエピソードを矢継ぎ早に話されました。「戦地で、故郷に残した家族の幸せな日を一日でも永らえるために、死に向かう持久戦を続けた兵士の話」、「障害を持つ子どもさんから届いた手紙にそえられた詩の紹介〜ありがとうはなかなか言ってもらえないから、ぼくはすぐにありがとうを言うようにしているよ〜」、「中学生ながら一家の主婦をこなし、寝たきりの祖母の介護もしている女の子の話と、それを見守る級友のふれあい」、「病気で亡くしてしまったかわいい妹が、最期にいちばん大好きなケーキの上のいちごを自分に食べさせてくれたという兄の話」。そのどれにも共通するのが、当事者の気持ちが周囲の人に余りあるほど伝わっているという事実でした。 聞いている私たちは皆、心をゆさぶられて、自分への問いかけをせずにはいられなかったのです。果たして自分は相手の気持ちにどのくらい寄り添って、それに気付いているだろうか、と。そして、会場には、あたたかい雰囲気がつくりあげられました。

 講演を聞き終えて、たとえ上手くはなくても、人の心を動かす話ができるようになりたいと思いました。せめて、自分の子どもに対しては、心に残る話のひとつも語りたいとしみじみ思いました。そんな感動の不足が、いろいろな心の問題を生み出しているように感じられたからです。親からもらう話は、きっと、特別なものだと思うのです。

 先日、わが子たちに「家族(友人)から学んだこと」という作文を書かせてみました。というのも、入学試験科目に400文字ほどの作文があるからです。さらさらと書いてきた作文を読んで、驚きました。なんと、ほとんど全く同じなのです。目をパチクリです。もちろん、カンニングはしていないはずなので、双子のテレパシーのなせる業でしょうか。
 その内容は、「母(私のこと)から学んだこと」でした。同じ場面、同じ事で説教される場面から始まります。怖い私が、叱ってばかりいるからなのでしょうね。「書き出しの工夫」まで、いっしょでした。(笑)「ちゃんと返事をしなさい。(本当はもっとこわい)」で始まって、「言葉で伝える力は大切」と結んでありました。
 ズッコケ話は、つまり、こうです。中学生になっても、高校生になろうとする年齢でも、作文の種になるのは親からの話なんです。家族のエピソードはとても大切です。言わないでもわかりあえる家族だからこそ、たくさん語り合って種を発芽させ、芽を伸ばしておくことが大切なようです。
 
 
感動体験が心を育て、学力を伸ばす(たんぽぽ/たま先生)
 先月の学級新聞では、自然と触れ合うことの大切さについて書きました。今月も、もう少しお話ししたいと思います。

 自然の中で遊ぶことが、どうして学力につながるのか? 自然科学の専門家である先生の興味深い講義はまだまだ続きます。
 「大人になると、何でも当たり前だと思ってしまう。しかし子供にとっては、毎日が感動の連続なのです。泥だんごが上手にできたとか、土を掘ったら虫が出てきたとか、ちょうちょが飛んでいたとか、きれいな葉っぱをみつけたとか、夕陽がきれいだとか。これらはすべて、『自分で見つけた』ことによる感動です。感動は、人(親)から与えられるものではないのです。」

 先生が小学校の教師をされていた頃、ものしりで有名なAくんという男の子がいました。教育熱心な親御さんは、図鑑や教材を与えました。子供は何にでも興味をもち、すぐに吸収しますから、彼は2年生でありながら、先生が舌を巻くほどの知識をもっていたといいます。

 ある朝先生は、学級菜園の横に茂っている草の葉っぱにたくさんの露がついているのを見つけました。「澄んだ空気と、キラキラ輝く朝露に感動した」とおっしゃいます。そこへ登校してきたAくんにも、この感動を伝えようと声をかけました。「ほらAくん、草の葉っぱに露がついているよ。ここを見て! まあるい水の粒がキラキラ光っているでしょう。」

 「Aくんはしばらくそれを眺めた後、『先生、これは“表面張力”って言うんだよ。』と言って去っていきました。『そんなことも知らないの?』という顔をして(笑)。」

 そこへもう1人、今度はクラスの中でもおっとり(ぼんやり?)していて、あまり勉強が好きでない女の子(Bさん)が通りかかります。「さっきのリベンジだ(笑)」とばかりに、先生は同じように声をかけました。

 葉っぱについたまるい水の粒をじーっと見つめるBさん。しばらくすると「わぁ〜っ!」と驚きの声を上げました。「先生、私の顔が映ってる!!」

 その後、先生とBさんは、「おもしろいねえ、きれいだねえ」と笑いながら、朝露に映る自分たちの顔や太陽の光を見ていたそうです。

 「Bさんはそれから毎日、登校するとすぐに菜園にやってきて同じことを繰り返していました。が、だんだんほかの植物にも興味をもち、『先生、この草は何?』と質問したり、『あ、こんなところに小さい花が咲いてる』などと、自分で小さな発見をするようになっていったのです。」

 先生はおっしゃいました。「これが図鑑で見る自然と、目で見る自然との違いです。」

 「図鑑やテレビの映像からは、本物の自然は伝わりません。じかに自然と触れ合うことから感動する心が生まれるのです。『感動する』とは、心が開いている状態であり、開かれた心はあらゆるものを受け止めることができるのです。コンクリート(人工のもの)で囲まれた生活をしていると、心が閉じてしまいます。そんな中では何も取り込むことはできません。勉強も身につきません。心を開かなければ、自分の気持ちをさらけだすことも、人の気持ちをわかることもできません。」

 自然の中で遊んだ後の講義は、言葉の一つ一つまで鮮明に、そして抵抗なく心の中に染み渡っていくようでした。このとき、私の心は「全開」になっていたのでしょう(笑)。「感動する」とは何なのか、「心を開くこと」がなぜ必要なのかをたくさん考えさせられた一日でした。


                                    
 
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