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  創造性を育てる作文
  新しい年に読んだ本
  忘れていませんか? 「読書」(いろは/いた先生)
  頭のよい子が育つ家(うるっち/かん先生)
  声なき声を聞く力(しろくま/いのこ先生)
  2006年度 おいしかったものベスト3(モネ/いとゆ先生)
 
言葉の森新聞 2007年1月2週号 通算第966号

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森新聞
創造性を育てる作文
 新年にあたって、勉強の方向を考えるために、今回はちょっと難しく作文の意義について書いてみます。
 書くことは、最初はただ自分の現実を表すことにすぎません。「今日の朝ごはんは納豆と玉子焼きでした」というような文です。
 しかし、多くの経験を積み、多くの本を読むことによって、自分の現実そのものが次第に豊かになってきます。また、自分の使える言葉も、次第に豊かになってきます。
 書くことと現実の間には、もともと小さな隙間があります。それは、作文は現実の一部分しか表すことができないからです。朝ごはんの納豆にはカラシやしょうゆもついていたはずです。しかし、その調子で細かく書いていくときりがありません。
 しかし、現実と表現の両方が豊かになるにつれて、やがて、作文と現実の間に新しい隙間ができてきます。それは、書くことによって、まだ現れていない現実を明らかにするような意味での隙間です。このとき、書くことは、現実を表すことから一歩進んで本質を表すことにつながっていきます。
 作文が創造的であるというのは、このような意味です。それは、表現の創造であるとともに、あるべき未来の創造でもあります。豊かな創造を生み出すためには、経験や読書という自分の現実そのものも豊かにしていく必要があります。その上で、書くことを通して、自分の現実をより一層豊かにする方向を見つけていくのです。
 今年も、大きな展望を持って言葉の森の勉強をがんばっていきましょう。
新しい年に読んだ本
 年末から年始にかけて、いろいろ本を読みました。
 そのひとつが、「インドの聖者アマチ」の本です。これは、日本ではあまり知られていませんが、マハトマ・ガンジーやマザー・テレサと同じような人です。

 その本を読みながら考えました。

 インドでは、アマチのように、自分のエゴを克服して大きな愛で世界に貢献している人がいます。その裏づけとなっているものは、インドの思想です。同じようにマザー・テレサの裏づけとなっているものは、キリスト教です。
 アマチは、言います。「私たちには聖典があります。日本人も自分たちの聖典を大事にしてください」
 しかし、日本にある聖典とは何でしょうか。日本のオリジナルなものということで言えば、古事記や万葉集です。しかし、そのどこに、人類に対する愛の大切さが書いてあるでしょうか。あるいは、四書五経も日本人の聖典に入るのかもしれません。しかし、本居宣長は言いました。「日本に、インド仏教や論語孟子のような大思想が生まれなかったのは、日本の人民のレベルが高かったので、そういう思想をわざわざ必要としなかったからだ」と。
 では、どうして、聖典のような思想的な裏づけを持たない日本人が、愛と調和のある社会を築いてこられたのでしょうか。そこに、私は、家庭教育における生活習慣の教育を見たのです。
 インドでは、愛を説く思想を学ぶ人が、カースト制度のもとで暮らしています。食べたあとの食器を片付けるのはスードラ(奴隷)の仕事です。ごみを片付けるのもスードラの仕事です。愛を学ぶ一方で、自分の足元で身分制度の差別に虐げられている人を前提とした生活をせざるを得ないのです。
 日本では、人類に対する愛を唱える思想はありません。しかし、親は子供に言います。食べたものは自分で片付けなさい。そして、レストランに行ったときでも、レストランの人が片付けやすいように食器を整えてイスをしまって出てきます。旅館に泊まるときでも、泊まった部屋を片付けて出てきます。これは、旅館の従業員が仕事をしやすくするためです。決して、スードラのする仕事だから散らかし放題でいいとは思いません。
 思想として愛を学ぶことと、日常の生活として思いやりを学ぶことの違いがここにあります。
 人類に宗教が必要なのは、人類のレベルがまだ劣っているためです。一人ひとりが日常生活に思いやりの気持ちを持てれば、宗教のような大思想は必要ないのです。
 キリストは、「あなたたちの中で罪のない人は、石を投げなさい」と言いました。こういう偉大な言葉が必要だったのは、その当時の社会で、罪人に平気で石を投げる人が多かったからです。今、私の身の回りを見渡してみると、罪人に平気で石を投げるような人はほとんどいません。たとえいても、周囲の大多数の人が止めます。だから、キリストはもういなくてもいいのです。

 あるホームページで、「私たちは愛51%エゴ49%にならなければならない」という記事を読みました。そのときは、なるほどと思いましたが、あとから考え直しました。愛とエゴは、限られたパイを取り合うゼロ・サムの関係にあるのでしょうか。愛が52%になったら、エゴは48%になるのでしょうか。
 日本には、だれでも知っているすばらしいことわざがあります。「よく学び、よく遊べ」。愛もエゴもできるだけ豊かに生きる。おいしく食べて心から感謝する。そういう生き方の方が、より明るくより建設的なものなのではないかと思ったのです。

 しかし、話はここで終わりません。
 宗教のような大思想を必要としない社会が来たあとに、人類が必要とする新しい大思想は別の形であるはずです。
 それを考えるのが、これからの人間の課題だと思います。

 
忘れていませんか? 「読書」(いろは/いた先生)
 作文を上手に書くために、わたしは今まで色々なことを言ってきました。「自分らしい思ったことを書く」「五感全てを使って書く」「前の話、聞いた話で話題を広げる」などなど。でも、いちばん必要なものは「読書」「音読」ということを忘れていませんか? 
 どれだけ作文を書き続けてもうまくならないというときは、「読書、音読をしてきたか」という質問を自分自身に投げかけてみてください。きっと答えは「あまりしていないかも……。」というところに落ち着くと思います。
 いい経験をしていたとしても、言葉がなければその経験は伝えることができません。「とてもいい経験だったのだけれど、ちょっと試してみて。」と言うことしかできません。「試してみて。」と言われて、「うん!」とすぐに答えてくれる好奇心一杯の人ならばいいけれど、きっと相手は「だって、どんな楽しさか分からないのに、いちいち時間を割きたくないよ。」と思うはずです。
 作文も同じで「面白かったよ」と書いただけでは読んだ人に面白さは伝えられません。どう面白かったのか、それを伝えるためには言葉の工夫が必要になります。それは先生が指導するだけで理解できるものではありません。先生がポイントの一部分だけをかいつまんで伝えても、言葉の工夫が作文全体に伝わるかと言えば無理なのです。
 「それでは指導時間がもう少し長くなれば。」という考えも出てくるでしょう。けれどもどれだけ長く説明を聞いたところで、やはり体得はできません。なぜなら、自分の頭の中に「知識」が全くないからです。人間は頭の中に存在しないことはどれだけ例を聞かされても、単体の言葉として頭の中に点在するだけです。自分の言葉として使うためには、予備知識=蓄積された文例がなければならないのです。英語を知らない子に、英語を教えてあげると、その言葉を繰り返すことはできても、応用することはできません。それと同じです。
 本を読んでいる子はこちらが一つ例を出すと実にうまく自分のものにしていきます。ちょっとふれただけで反応し、広がる様子は、一滴の水から生まれ水面の波紋のようです。小さな刺激なのに大きな輪がいくつも連なっていくのです。自分の知識を引っ張り出す楽しさは格別です。それを体感してもらいな、と私は思うのです。
 最後に究極の質問を想像してみました。
「本をたくさん読むのですが、文章が下手なのです。」というもの。
これには、二つの答えがあります。一つ目は「まだかたいつぼみだということ。」今から大輪を咲かす準備をしているのでしょう。必ず花は咲くので読書、音読という栄養を与え続けながら気長に待ちましょうね。二つ目は「実は読めていないのかもしれないということ。」字だけを追っていても、自分の頭の中で消化しなければ、情報は素通りしていきます。英語を聞いていても自分にとって関係の無い言葉だと脳が判断したら、とたんに何も耳に入らなくなるのと同じですね。けれども何度か読んでいるうちに、「読めている」ことになります。なぜなら脳が「これは、身近な言葉だぞ。」と反応し始めるからです。だから、いずれは上手に書けるようになりますよ。ゆっくり構えましょうね。
 結局、読書、音読をしていれば確実に伸びるということが伝えたかっただけじゃん! という声が聞こえてきそうです。そう、その通り! 結局読書、音読をしていてへたくそのままということはありません。あなた達の脳は思っている以上に優秀なんですよ。うまく書けないとなげく前に、まずは「読書」「音読」を。そして一生懸命読み続けたのに、へたくそのままだ! というときは遠慮なく先生に言いにきてください。まず無いとは思いますけどね。(笑)
                                      
 
頭のよい子が育つ家(うるっち/かん先生)
 先日、言葉の森の事務局に「プレジデントファミリー」という雑誌の副編集長が取材にいらっしゃっいました。その方も言葉の森の方針に共感され、「うちの子にもやらせたい」というありがたい言葉を残してお帰りになりました。そのときの記事が1月18日発売の3月号に掲載されますので、是非ご覧になってくださいね。

 さて、このプレジデントファミリーをはじめ、子育てや教育に関する雑誌が続々と世に出ているようです。「頭のよい子の生活習慣」「頭のよい親子の勉強方」「頭のよい子の育て方」といった子育て世代の心をくすぐる魅力的な見出しが踊っていますのでご存知の方も多いことでしょう。最近では「頭のいい子の勉強部屋」が話題になり、ついには「頭のよい子が育つマンション」まで販売されるそうです。そんな現象に興味をひかれ「頭のよい子が育つ家」(四十万靖・渡邊朗子著 日経BP社)という本を読んでみました。すでに読まれた方もいらっしゃるかもしれませんね。

 有名中学に合格したお子さんたちは、いったいどんな家で勉強していたのだろう? そこに何らかの共通点はあるのだろうか? 有名中学受験といえば、それこそ勉強部屋にこもって猛勉強をしているのではないだろうか?

 こんな観点で調査をしたところ、ほとんどのお子さんが自分の勉強部屋にこもるどころか、家族の集うリビングで勉強していたという、意外な結果が浮かび上がってきたそうです。そこで、この調査をしたグループが導き出した結論は、頭のよい子を育てるには家族の団らん、コミュニケーションが重要だということでした。そのための家は、開放的なリビングがあり、家族が個室へこもらないような工夫のされた家なのだそうです。

 この本を読み終えて、確かになるほどなあと共感すると同時に、家を整えたら住人までも変わるのだろうかという疑問がわいてきました。リビングで顔をつき合わせて過ごしていてもまったく会話のない家族。たとえばそれぞれが携帯メールに夢中になっているような家族だとしたら、家そのものを変えたとしても、その目的を果たすことはできないのではないでしょうか。たまたま調査にあたったお子さんがリビングで勉強していたから、家族みんながリビングに集う家を作ればよいと早合点してはいけない気がします。要は普段から会話のある親密な家族関係を築くことが重要なのですから。

 私が思うに、言葉の森の課題と格闘しているみなさんは、どんな家に住んでいようと大丈夫。どうしてかというと、課題に取り組む際に、自然と家族とのコミュニケーションを必要とするからです。<前の話聞いた話>ではお父さんやお母さんにインタビューをすることになります。長文を読んで難解な話題や語彙に出会えば、どういうことなのかと尋ねることにもなるでしょう。また、課題によっては家族と共同で準備をする必要があります。「たまごやきをつくったこと」などはそのよい例ですね。作文を書くのはお子さん自身ですが、親御さんにも大いに参加していただきたいと思います。そして書くことをとおして、考える力や創造する力、様々な角度から物事を見る力などを持つ、真に頭のよい子に成長してくれることを願っています。
声なき声を聞く力(しろくま/いのこ先生)
 昨年は、いじめによる自殺のニュースが多く報じられました。子どもを持つ身としては、とても他人事として片づけられないニュースです。私が子どものころも、もちろんいじめはありました。でも、今のように社会問題化するようなことはありませんでした。昔と今とではいったい何が違うのか。テレビや新聞では、識者がこの点について様々な見解を述べていますが、その見解を耳にする度に、当たっているようなそうでないような釈然としない思いを抱いてしまいます。ひとりひとり異なる人間の内面の問題ですから、一つの解釈、一つの方法では解決できないことなのですね。
 私が昔と違うと感じることはいくつかあります。その一つ、想像力のなさについて、考えてみましょう。誰かと話すとき、誰かと関わるとき、私たちはどの程度相手のことを考えるでしょうか? 相手の立場に立って物事を考える。自分が発した言葉や起こした行動に対して、相手がどのように思うか想像する。これは、人と人とが関わる上では、必要不可欠なことです。しかし、どうも最近の私たちは、ついつい自分中心に考えてしまいがちです。また、自分が何かをするときに、「待てよ。」と一瞬考えるゆとりが持てないことも多いのではないでしょうか。子育てに関するある先生の講演で、最近の人間には、「声なき声」を聞く力がないというお話を聴きました。この「声なき声」とは、相手の心から発せられる声。そして、もう一人の自分の声を指します。つまり、私が考える想像力に通じるものでした。いじめという大きな問題を考える場合にも、そして、私たちの日常生活でも、この声なき声があるとないとでは、言動が大きく変わってくるはずです。
 作文を書くという作業でも、この「声なき声」は大いに関係があると思います。テーマに従って考えを整理していると、自分では気がつかなかった自分自身の思いに気づくこともあるでしょう。また、それと同時に自分以外の人間の考え方を想像することもできるようになるでしょう。普段は想像もしなかったような自分の声なき声を知ることで、作文の世界はさらに広がるのだと思います。
 毎週の電話指導の中で、私はみなさんにテーマに沿ったいろいろな質問をしたり、私自身の体験を話したりしています。このことによって、みなさんの頭や心の中にある「声なき声」の姿がはっきり見えてくることを願っています。
2006年度 おいしかったものベスト3(モネ/いとゆ先生)
 最近みなさんの作文で、食べ物のことについて書いてくれた人が何人かいて、とても楽しく読ませてもらいました。そこで、私も今回は食べ物の話題について書いてみようと思います。題して「2006年度 おいしかったものベスト3」です。
 
 まず第3位は、「なみだのオムレツ」。夏の終わりに、風邪をこじらせて気管支炎になってしまいました。一息一息呼吸をするのがつらく、体中が重たくてすわっていることすらできません。もちろん、食欲も全くなくなり、水分を取るのがやっとという状態でした。そんなときに、小5の長男が作ってくれたオムレツ。食べられない私を心配して、自分の一番の得意料理を作ってくれたのです。甘い物好きの長男は、いつも砂糖と牛乳を入れてオムレツを作るのですが、その甘くてふわふわのおかしのようなオムレツは、少しずつ私ののどを通っていきました。「これで、元気になるね!」とうれしそうな息子の顔を見ながら、ありがたさに思わずなみだがこみあげてきました。
                    
 続いて第2位は、「おばあのゴーヤチャンプル」。秋に沖縄へ家族旅行をしたとき、瀬底島という島をおとずれました。そこには、広々とした美しいビーチのまわりに、赤い瓦屋根の昔ながらの民家が立ち並ぶ、なつかしい沖縄の風景がありました。一軒の民家の玄関に、小さな看板が出ています。どうやら、その家に住むおばあ(沖縄では、年配の女性のことを、こう呼びます。)が、家庭料理を作って島の人たちに食べさせているようでした。本物の沖縄の味に出会えるかもしれないと、私たちは胸をおどらせながらお店に入りました。まるで親せきの家にでも来たかのように落ち着ける、だだっ広いたたみの上で食べるおばあの手料理は、どれもこれも心のこもったおいしいものばかり。中でもゴーヤチャンプルには、これでもかというくらいたくさんのゴーヤが入っていましたが、その苦みが沖縄の暑さを吹き飛ばしてくれるように感じられました。
                  
 最後に第1位、「逃げ出したすいか」。以前この学級新聞にも書きましたが、夏に西丹沢という渓谷にキャンプに行きました。キャンプサイトの中には、岩はだが見えるほどすき通った川が流れていて、大人も子供も一日中川遊びを楽しんでいました。せっかくだから、市場で買ってきたすいかを川で冷やして食べようということになり、ざるに入れたすいかをそっと川につけました。流れていかないようにしっかりと岩で固定をして、しばらくテントの中で休けいをした後、そろそろいいかなと見に行きました。すると・・・すいかがない!? さっき冷やしたはずのすいかは、影も形もなくなっています。ふと見ると、川のはるか下流の方に、大きなすいかがどんぶらこどんぶらこと流れていくではなりませんか。「待て〜!!」必死ですいかを追いかけますが、ゴツゴツした岩の上は走りにくくてなかなかスピードが出ません。やっとのことでつかまえたすいかを、ごう快に切り分けてかぶりつくと、冷たさと甘さがかわいたのどにしみわたっていくようでした。あまりのおいしさにみんな口と手をしるでベタベタにしながら、物も言わずに食べていました。
                   
 こうやって書くと、オムレツにゴーヤにすいかと、ずいぶんシンプルな食べ物ばかりですね。でも、食べ物とは見た目のごうかさや値段ではなく、誰とどんなときに食べたかがおいしさの決め手のスパイスとなって、忘れられない味になるのだということがわかりました。
 さあ、2007年はどんなおいしいものにめぐり会えるのかな? そう考えると、今からわくわくしてきます。
 
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