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  読解マラソン始まる(その3)
   朝の十分間読書で家庭での読書不足はカバーできない
   学習塾や家庭教師で国語の力がつかないのはなぜか
   伝統の裏づけのある国語学習法
  「赤い靴」のきみちゃん(はるな/みき先生)
  肥後の守の話(めもま/けい先生)
  要約について思うこと(たんぽぽ/たま先生)
  インプット・アウトプット(はちみつ/おと先生)
 
言葉の森新聞 2006年6月2週号 通算第938号
文責 中根克明(森川林)

読解マラソン始まる(その3)
朝の十分間読書で家庭での読書不足はカバーできない
 朝の十分間読書を取り入れている学校があります。この運動によって、多くの子供たちが読書の面白さに目覚めています。
 しかし、この運動の指導者の中には逆に、この十分間読書に限界を感じている人も多いようです。なぜかというと、客観的な形として成果が表れないものは、教える側が次第に確信を持てなくなってくるからです。十分間読書は、ただ読書をし続けることに意義があるのですが、指導する側はそれではなかなか満足できないのです。
 そして、もっと大きな問題は、学校での十分間読書が、家庭での読書不足をカバーするものであるかのよう思われてしまいがちだということです。読書というものは本来、家庭で行われるものです。好きな本は、だれでも時間を気にせずに一挙に読みたくなるものです。そういう読み方は家庭の中でこそ可能なものであって、時間の区切で管理せざるを得ない学校教育では本来向かないものなのです。
 学校で朝の十分間読書が行われるまでは、家庭の中で本を読む文化がそれなりに保たれていました。しかし、学校で読書が行われると、読書が学校教育の一部であるかのように受け取ってしまう家庭も生まれてくるのです。特に、これまで本を読む習慣があまりなかった家庭では、この影響は決定的です。
 親がそれなりに苦労して子供に読む力をつけなければ、子供は本を読む子には育ちません。読書は躾と同様に、特に家庭教育が中心となって取り組まれなければならないものなのです。
学習塾や家庭教師で国語の力がつかないのはなぜか
 国語の力がないと、塾や家庭教師で何とか力をつけたいと思う人もいます。ところが、塾や家庭教師で国語力がついたという話は、まず聞きません。それは、教え方に問題があるからです。
 ほとんどの先生は、国語の問題を解かせて、その問題の解説をするような形で指導をします。ところが、そういう指導は、教える先生の苦労のわりに、子供には身につくものがほとんどありません。
 国語力をつける方法は、良質の文章を繰り返し読むことによって、言葉の持つ文化をできるだけ豊かに身につけていくことです。しかし、国語力のこのような本質がわからないと、子供にただ文章を読ませるだけの指導はなかなかできません。国語の家庭教師が、担当時間のほとんどを、子供に文章を読ませることだけに充てるというのでは勉強の形にならないからです。
 また、なぜ塾で国語の成績が伸びないかというと、そもそも国語が得意で塾を始めたという人があまりいないからです。学習塾を始めた人のほとんどが、数学や英語が得意で塾をスタートさせたという経緯を持っています。数学や英語は実はやり方さえわかれば教えやすい教科です。そして教えてから成果が出るまでの時間も短いのです。
 しかし、国語はそうではありません。このため、塾における国語指導は、教えやすいところに重点を置いたものになりがちです。教えやすい指導の一つは漢字です。漢字を読み書きする力は大切ですが、国語力の基礎はあくまでも漢字力ではなく読む力です。読む力の一部として漢字力があると考えていくことが大切です。もう一つは古文や漢文です。しかし、古文や漢文は、国語力の本質とはやや異なったものです。
 国語力に到達点のようなものがあるとすれば、それは広い意味における哲学です。世界や人生のさまざまな現象を自然科学や社会科学も含めた学問の総体によって読み取り書き表すこと、それが国語力です。そのためには、文学書に限らず、幅広く読む力をつけていくことが大切なのです。
伝統の裏づけのある国語学習法
 貝原益軒はその著書の中で、論語や孟子を百字ずつ百回読むという勉強法を提唱しています。この益軒の教育論が明治維新以降の日本の発展を支える日本人の基礎的な学力を形成しました。「学問のススメ」や「民約論」などの近代的思想が短期間で普及したのも、それ以前の文化的土台があったからです。
 この益軒の教育論によって明治生まれの祖父から教育を受けたのが、湯川秀樹です。湯川秀樹の兄弟は、兄が冶金学者の小川芳樹(東大教授)、もう一人の兄が東洋史学者の貝塚茂樹(京大名誉教授)、弟が中国文学者の小川環樹(京大名誉教授)です。彼らの受けた教育のエッセンスは、小学校低学年のときから論語や孟子を素読することでした。
 海外でもこのような事例はあります。音読と暗唱によって独学で十数カ国語を身につけ、語学の天才と言われたのが、トロイの都を発掘したシュリーマンです。彼の勉強法は、学ぼうと思う国の言語で書かれた本を音読して丸ごと覚えることでした。
 また、極貧の中から身を起こし、後に東大最初の林学博士になった本多静六も、大学に入学して1年目に成績が悪かったために留年しました。しかし、その挫折をばねに文章を丸ごと暗唱するという勉強法によって成績をトップクラスにしました。留学したドイツの大学でももっぱら教授のテキストを暗唱するという勉強法で最優秀の成績を修め、帰国してからも優れた業績を残しました。
 これらの人々はもともと記憶力がよかったのではありません。繰り返し同じ文章を読み暗唱するという勉強法を採用したために、記憶力も鍛えられていったのです。
 ところで、記憶力自体は、それほど価値あるものではありません。記憶するだけであれば人間は辞書にはかないません。人間が何かを記憶する意義は、その記憶の定着度に応じて、記憶が人間の思考の道具となることです。
 数学の得意な人に共通しているのは、多くの良質な問題を繰り返し解くことによって、解法が記憶の中にしっかり定着していることです。そのため、新しい問題にぶつかっても、自然にその問題にふさわしいいくつかの解法の組み合わせが予測できます。解法が自分の手足のように自由に使える道具になっているから、新しい問題にも創造的に対応することができるのです。数学の苦手な人に、数学の得意な人が解き方を説明すると、苦手な人は、解き方の説明そのものはわかるが、どうして最初にそういう解き方を考えつくのかがわからないという感想を持ちます。考える力は、苦手な人も得意な人も同じです。違いは、解き方という道具が、得意な人にとっては自由な道具になっているのに対し、苦手な人に対してはまだ自由に使える道具になっていないという点だけです。
 国語も同じです。更に言えば、勉強はすべて同じだと言ってもよいでしょう。それぞれの教科にふさわしい語彙や法則が自分の中に道具としてしっかり定着していれば、その土台の上に自由な思考を展開することができます。国語の場合、言葉のリズムを道具として定着させるために、逐語的に音読するという勉強法が、これまでの歴史で証明されている最も確実なやり方なのです。
 言葉のリズムとは、思考のリズムです。数学における公式や解法と同じものが、国語の場合、長短さまざまな言葉によるリズムとなっています。したがって、音読するための教材も、現代語のリズムを持った、説明文意見文に重点を置いたものである必要があるのです。
「赤い靴」のきみちゃん(はるな/みき先生)
        
「赤い靴」、この曲は、だれもが一度は口ずさんだことのある童謡(どうよう)ですね。

赤い靴  はいてた 女の子
 異人さんに つれられて 行っちゃった  
よこはまの 波止場から 船に乗って
 異人さんに つれられて  行っちゃった
    作詞:野口雨情/作曲:家本居長世

 この「赤い靴の女の子」は実在する女の子です。名前は「岩崎きみ」ちゃん。明治35年7月15日、静岡県(旧)不二見村生まれ。彼女のお母さん⇒「かよさん」は、きみちゃんが3歳になった頃、当時開拓地として大変注目を集めていた北海道へ、夫と共に渡り、その開拓へ期待を膨らませ、開拓農場へ入植します。しかしその開拓地での生活の厳しさに、かよさんは泣く泣く、きみちゃんを函館の教会で宣教師をしていたアメリカ人、ヒュイット夫妻に養女として託します。この歌の「異人さん」というのはこのヒュイットさんのことです。
 けれども、きみちゃんが6歳になった頃ヒュイットさんはアメリカへ帰国しなければならなくなってしまいます。もちろんこの知らせは、かよさんの耳にも入ります。
 かよさんの夫である鈴木志郎さんは、就職先で知り合った「野口雨情」と親交をもつようになります。家族間における世間話の折り、かよさんは「実は、私には今娘がいて、このような事情でアメリカへ行きました」という話をしたのでしょう。幸せにアメリカで生きているきみちゃんを思った野口雨情は、「赤い靴をはいた女の子」というイメージを抱き、この歌が生まれました。かよさんは幸せでいるきみちゃんを喜ぶ反面、養女にしてしまった自分への責めの気持ちをこめて、歌をかみしめたと言います。
ところが……、実はきみちゃんは、異人さんの国へは行かれなかったのです。彼女は、当時としては不治の病である結核に、犯されてしまっていたのです。開拓地での過酷な環境も影響していたのでしょう。もちろんヒュイットさんは大切なきみちゃんも連れて行き、病気の療養をさせるのを強く望んでいました。
 しかし船に乗せてもらえません。やむなくヒュイットさんは東京麻布にあるメソジスト系教会の孤児院に預け、横浜港から帰国の船に乗ったそうです。(横浜の山下公園には海の方向を向いたきみちゃん「赤い靴はいていた女の子像」のブロンズ像があります)
 残されたきみちゃんは結核が進み、孤児院でわずか9歳でこの世を去りました。母親のかよさんはきみちゃんがアメリカで幸せに暮らしていると信じ、この事実は知らされずに生涯を過ごしたそうです。ヒュイットさんのこの決断は当時としてはやむを得なかった事とはいえ、様々な意見もあるようですが、きみちゃん本人は、きっとかよさんの元へ帰りたかったでしょうね。
    
 先生の家から地下鉄を二駅行くと、≪麻布十番商店街≫があります。そこのパテイオに、街の人々は、天国にいる彼女の心安らかなことを祈り、平成元年二月、「きみちゃん」の像を建てました。十番納涼祭りには、「きみちゃん」像のかたわらに、チャリテイ広場が作られ子供たちへのチャリテイを呼びかけました。
 多くの人に支えられて、その輪は18年間途絶えることなく続き、一円、五円、十円……と小さいけれど、とてもきれいな浄財(じょうざい)の積み立てとして、毎年ユニセフに寄付されました。去年の春までに、総額、880万円阪神大震災の義援金に70万円。全部で950万円になりました。
 きみちゃんが、もし、生きていたとすれば、100歳を超えています。明治45年、9歳で亡くなったきみちゃん。この悲しい歌を聞くと、先生は、胸がしめつけられたように、キュンと痛くなります。でも、彼女は、今も9歳のままで、【赤い靴】の歌と共に、私たちの心の中で生き続け、世界の恵まれない子供たちのために、歩き続けています。
 みなさんも、この少女の存在を、どうか、いつまでも忘れないでくださいね。(^^)/~~~
            
肥後の守の話(めもま/けい先生)
 朝日新聞のコラムでおもしろいものを見つけました。天野祐吉さんが連載している「CM天気図」で、この日の題名は『考えるヒトビト』。トンボ鉛筆のコマーシャルを題材にしていました。「『トンボが動いている。人が何かを生み出している』とナレーションが言う通り、エンピツが動いているところでは、つねに何かが生まれている。その代表は、なんと言っても『考える』という行為である。『書く』というのは『考える』ということだ。〜」というふうに天野さんは書いていました。
 私もそう思います。いつもみなさんの作文を読みながら、「ふ〜ん、よく考えて書いたな。」と感心したりしています。みなさんは、スラスラ何も迷わないで作文を書いていますか?そんなことはありませんね。「おかあさんはどんな顔で、言ったのかな?」「あのとき、友だちはこう言ったけど、わたしはどんな気持ちになったっけ?それで、友だちはどんな気持ちになったかな?」「もしぼくが○○だったら?」など、エンピツで書いては消しゴムで消して、一生懸命作文を書いていますね。
 作文や感想文を毎週書くというのは、もちろん文章を上手に書く技術を学ぶという目的もあります。しかし、もう一つ素晴らしいこと、それがこの「(書くことで)考える」ということだと、私は思います。書きながら考えて、いろいろなことを思い出す。自分の心の中を探ってみる。友だちの心の中を思いやってみる。これからの夢や希望を見つける。そういう素晴らしい時間だと思います。
 もうひとつ天野さんはこのコラムで大切なことを述べています。みなさんは、エンピツを何で削っていますか?差し込むだけでブオーンと電気で削れる鉛筆削りですか?それとも、手でハドルをぐるぐる回して削れる鉛筆削りですか?それとも、色鉛筆のおまけなどについてくる小さな鉛筆削り?それとも、肥後の守ですか?肥後の守(昔から山を探検するときに持っていって、木を削って遊んだ小刀みたいなナイフ)ですか?「エンピツを小刀でけずる行為を通して子どもたちの脳細胞を息づかせるという大切な行為を、どうして大人たちは奪ってしまうのか。そういうことが、実は教育というものの基本ではないのか...、ちかごろ『考えないヒトビト』がふえているのは、そのせいかも知れない。」と結んでいました。
 わぁ、大変!!そうだそうだ。時間がもったいないから。危ないから。そんな理由で大人は簡単に便利なことを選んで、子どもたちからおもしろいことを奪っているなぁ、そう思いました。我が子が保育園の年長の時、園庭の柳の木の枝を保育園の肥後の守でとんがらせることができたら、自分の名前入りの肥後の守を園長先生がくださいました。そして毎朝、まずエンピツを削ってノートに自分の名前を書くというのが日課。卒園式には、自分の名前入りの肥後の守とエンピツ。そして、エンピツを自分の手で削るという技術、刃物で手や人を傷つけないという技術(宝)をプレゼントされたのでした。だから、我が家には鉛筆削りの機械はありません。子どもたちは肥後の守でエンピツを削って、学校へ行っていました。ところが!肥後の守でエンピツを削ると、新聞紙を敷いても周囲は削りかすだらけになるし、手は真っ黒になるし。面倒くさくなって、色鉛筆のおまけで「これでやったら〜」と言ってしまったのは、私でした。反省!!反省!!
 みなさん、毎週作文を書くと言う素晴らしいチャンスを、お父さんお母さんが用意してくださいましたね。時々は、肥後の守などでエンピツを削って、「考える時間」を楽しんでみませんか?おすすめです。
要約について思うこと(たんぽぽ/たま先生)


 就職のため一人暮らしを始めたのをきっかけに、「ドラマを見ること」が私の趣味の一つになりました。学生時代はよく映画を見に行きましたし、もちろん読書もしましたが、社会人になってからは思うように時間がとれず…(というのは言い訳ですが)。
 子供が生まれてからはさらに時間のやりくりが難しくなり、ドラマの世界から遠ざかっていましたが、最近また少し見られるようになりました。

 この「ドラマ好き」が高じて(?)、あるホームページでドラマのあらすじを書く仕事を始めたのは、約1年前のことでした。内容は、1時間のストーリーを400字前後にまとめるというもの。最初はとにかく放送を見ながら(もちろん録画もしていますが)メモを取り、役者の台詞や動きなども細かくチェックしていました。そして詳しく、わかりやすく…を心掛けながら、書き始めました。

 ところが、いざ書いてみるとこれがなかなか難しいのです。ドラマは映画と違い、時間が短いですから、コロコロと場面が変わります。そして並行してそれぞれのストーリーが展開されていきます。主役だけを追いかけていると、主役が出ていない場面が実は重要だった・・・ということもあったりするのです。これには参りました(笑)。実際、初めて書き上げた原稿は、書きたいことをかなり省略したにもかかわらず、約800字になってしまいました。しかし制限字数は400字程度。半分に削らなければなりません。四苦八苦しながらも何とか指定の字数にまとめて納品したのですが、残念ながらこの原稿はボツになりました。

 その後、採用された原稿と、自分の原稿を比べると、大きな違いがあることがわかりました。それは、私の書いた原稿からはストーリー全体が読み取れなかったということです。自分ではしっかりとまとめたつもりでしたが、読み返してみると、内容の一部にこだわりすぎて、話の全体が見えてこないのです。「木を見て森を見ず」といったところでしょうか。これではいけないと思い、2回目からは毎回、何度も自分の原稿を読み返し、書いては消すことを繰り返しました。それからも何度かボツになりましたがめげずに頑張って、初めて採用されたときは、思わずガッツポーズが出るほど嬉しかったです。今ではずいぶん短時間でできるようになり、ほとんど採用されるようになりました。「習うより慣れろ」とはこのこと。やはり数をこなせば慣れるものだと、実感しています。

 そしてもう一つ、おもしろいことに気がつきました。同じものを見ているにもかかわらず、書く人によって着眼点が違うのです。人が書いたものを読むと「なるほど、こういう書き方もあったのか」と思うこともしばしば。非常に勉強になります。

 この作業を通じて感じたのは、まず「全体がわかるようにすること」。一部だけを取り上げてもおもしろくありません。次に「ポイントだけを短くまとめること」。たくさん書いたものを削るのは大変ですが、字数が少なければ増やせばいいのですから、こちらの方が簡単です。そして「どの部分を選んでも間違いではない」ということ。(完全に内容を取り違えている場合を除けば、)書き方は人それぞれ違っていいのだと考えれば、思い切って書く勇気が出ます(笑)。

 これが「要約」で悩んでいるみなさんの参考になれば幸いです。
インプット・アウトプット(はちみつ/おと先生)
 今年の長いゴールデンウィークも終わってしまいました。どんなお休みだったでしょうか。 最高の楽しみ方は充電、放電です。心と体を放電しながら好きな本を読む。これが私の贅沢な休日の過ごし方です。1日、森の中へ出かけることができました。滝があって、新緑がほこほこと茂っていて、気持ちのいい場所でした。家から高速道路を通りましたが、1時間もあれば行けるところです。そこで敷物の上に寝転がっての読書です。ミステリーの新人賞作家の本です。ミステリー自体よりも登場人物のキャラクターにとても引き込まれました。それは医療現場が舞台の小説です。作者自身が大学病院の勤務医とあって、リアルで、詳しい内容です。しかし、専門用語が出てきても不思議と分かりやすくすっと読めました。たとえや表現がおかしく、おもしろいので、読みながら笑ってしまうこともしばしば。
 理系の人の文章が好きです。理論的、簡潔で分かりやすいということもあるかもしれません。しかし、意外に無愛想ではなく、表現豊かで、詩的な文章もたくさんあります。観察力が鋭いのだと思います。理論や研究結果をただ伝えるのではなく、分かりやすくたとえて表現するのがうまい人がたくさんいます。観察眼に表現力がプラスされた文章にとても魅かれます。
 本を読んでいて、こんなフレーズいいな、うまくたとえるなぁとまねしたくなりました。逆にサボりにサボっていたブログに書き込みをしようと思うと、うまい表現が浮かびません。食べ物の話ですが、ただおいしかったというだけで、どうおいしかったのか、どんな味がしたのかなどを書こうとして詰まってしまうのです。
 これは読書もサボっていたからだと思いました。たくさんの表現に触れ、たくさんの文章を書くことでその悩みが解決すると痛感しました。インプット(入力)がなければアウトプット(出力)はないなぁ、と。きっと理系、文系に限らず幅広い読書をし、音楽や美術、スポーツなどいろんな要素をインプットした人の話や文章は表現が豊かなんだろうなぁ、と思いました。


 
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