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  推敲(ミニー/さらだ先生)
  ほめるプロ(ペンギン/いのろ先生)
  今日も元気に「あいさつ」(くじら/たま先生)
  名付けの意味を知ることは(スズラン/おだ先生)
  夜中に書いたラブレター(メルトン/うなぎ先生)
  新聞、読んでるかな(ひとみ/かもの先生)
 
言葉の森新聞 2004年12月2週号 通算第866号
文責 中根克明(森川林)

推敲(ミニー/さらだ先生)
 みなさんは「推敲(すいこう)」 という言葉を知っていますか? 小学校高学年以上の子は聞いたことがあるかな?! 「推敲」 とは詩や文章などの語句を何度も練り(ねり)直しよりよいものにすることを意味します。この言葉の由来は、中国の唐(とう)の時代にさかのぼります。唐の国の詩人賈島(かとう)は、自分の作品中の語句の「僧は推す(おす)月下の門」の一句を「僧は敲く(たたく)月下の門」にするべきか迷っていました。ロバに乗って考えにふけっていた賈島(かとう)は、有名な詩人の韓愈(かんゆ)の行列につっこんでしまったのです。けれど韓愈(かんゆ)は、その非礼(ひれい)を怒るどころか、「敲く(たたく)」の方がよいと教えてくれました。このことから、この語ができました。
                    (唐詩紀事 とうしきじ)


 みんなも作文を書いたあとで、「やっぱりこの表現の方がいいかなあ?」 「もっとちがう言葉はないかしら……」 なんて迷ったりすることがあるよね。語句だけじゃなくて「ああ、この一文はないほうがいいや!」 とその文章を丸々けずってしまったり、反対に「ここには説明が入らないと……」 とつけくわえたり、なんだかいそがしい思いをしたことがきっとあるでしょう。「うーん、毎週だよ!」 という声も聞こえるかな。先生は現在ほとんどパソコンで文章を書いているので、比較的(ひかくてき)推敲は時間もかからずにできます。でも、手書きで作文を書いているお友だちは、直したいときにはたいへんだよね。消しゴムで消して直そうとしても、原稿用紙のますめの数があわなくなっちゃうものね。直しているといやになっちゃうときもあるよね。ときどき、みなさんの作文の中にバーッと3、4行ぐらいにわたって線を引いて消してあるところや、また、細い余白に小さな小さな字で文や言葉がつけくわえてあるのを目にします。それを見ると、「わあ! がんばってるなあ!」 と先生は感心します。それは、それでいいよ! 作文を書いた後、ちゃんと自分で読みなおしていることがわかるし、先生は原稿用紙がちょっときたなくなっていても気にしないからね。かえって、作文を書いている途中に、迷って筆がとまってしまうことのほうが残念だから、書く気分がのっているときは、そのまま続けましょう。ただ、自分の書いたものをもう一度読む習慣をつけていきましょう。そのときに、「推敲」 をしてほしのです。「推敲」 はとても頭を使い、力(ちから)をつける時間だと先生は考えます。「推敲」 の時間をもてるようになれば上出来(じょうでき)です。そして、清書のときにこの推敲したものをきれいに書くというようにしていきましょう。                           
 このあいだの日曜日、先生は主人と「馬頭町広重美術館(ばとうちょうひろしげびじゅつかん)へ浮世絵(うきよえ)を見に行ってきました。歌川(安藤)広重は浮世絵師です。広重の「東海道五十三次」 はさすがで感動しました。浮世絵は、広重のような絵師(えし)が全体の絵を書き、それを彫り師(ほりし)が板に彫り、単色で刷ってみて線の具合を確かめ、直しを入れ、今度は色をつけるために何枚かの板を彫り、また刷りながら確かめ、最後に一枚の紙に色ごとに刷っていくという版画です。ひと言では説明できないくらいたくさんの過程(かてい)を経て、ひとつの作品ができていくのです。絵のすばらしさだけでなく、作っていくためのたくさんの苦労がその絵の土台にかくれていて、先生を感動させたのかもしれませんね。
ほめるプロ(ペンギン/いのろ先生)
お家の方へ
こんにちは。今日は「ほめるプロ」ということについて書きたいと思います。「ほめる」ということは、一言で言うと、相手の中に良いものしか見出さない「たし算」とも言えます。さらに、それは相手と自分が共に引き上げあう関係、「かけ算」にまで発展していく、と、著名なカウンセラーは言っています。
ある子どもさんが、テストで60点を取って帰ってきたとき、「よくできたねぇ」と言ってあげられるすてきな大人がいます。すると、子どもたちは、うれしい思いをし、「次はもっとがんばろう!」というエネルギーを持ち続けることができる、そうです。別のケースで、95点の答案を持って帰ってきた子に「惜しい、あと5点だったのに」。これは、相手を「ひき算」して評価してしまうために、マイナスの思考とも言われています。
幸い、「言葉の森」のお父様、お母様方は皆、すでに「ほめるプロ」なのだろうと思います。子どもが50点を取ってきたとしても、「まぁ、よくこんないい点取ってきたねぇ!」と力いっぱい言ってあげられる方ばかりでしょう。仮りに0点のテストだったとしても、「お母さんにちゃんと見せてくれて、うれしいよ。100点を取るのと同じくらい、お母さんうれしい!」そう言ってあげるのではないでしょうか。そのようぬくもりあたためられた子どもは、100点を取ったのと同じくらい励まされ、伸びやかに一歩一歩成長していくのです。そこに、ほめることには力があり、本来持っている力を引き出す、と言われる所以があります。
ほめるプロには、当然、不足な点も見えています。でもそれ以上に意志を持って見ようとしているものがあるとすれば、それは、その欠けを補って余りある、その子自身の存在の尊さです。だからこそ、裏表なく(自己一致して)心の底からほめ、言葉で表すことができるのです。
そのほめ方に特徴があるとすれば、「まだ手の中に無いものを、すでにあるかのように先取りしてほめる」点です。ここに、リンゴの種があるとします。「さあ、手の平の上に、リンゴは何個?」。現実は種だけですから、0個と言えましょう。でも、その種を見て、「無尽蔵のリンゴが見える」と言うこともできます。(事実そうですから。) 実際、農業をなさる方も、採れないと信じて植えたりはしません。たくさんの収穫を一粒の種に「すでに」見出しているからこそ植えるのです。「すでに」を見つめる大人によって励まされるとき、子どもは自分自身の持ち味を楽しみながら、本当に無尽蔵の実を結び続けるようになるようです。
作文指導にあたっている一講師の私は、子ども達を前に、皆様同様(どうよう)「ほめるプロ」になろうと努めています。わずか10分の電話、赤ペン指導、「山のたより」ですが。(*^^*)ノ 子ども達の中に、数え切れない実があるのを見つめながら、「“さらなる”ほめるプロ」をめざしていきたいものです。子ども達が本当に良く学び、良く成長できるために。共に、「かけ算」の関係、互いに引き上げあう関係へと、励まされていきましょう。 
今日も元気に「あいさつ」(くじら/たま先生)
 最近、気になることがあります。あいさつをしない人が増えているということです。みなさんはもちろん、きちんとあいさつができていると思いますが、先生が住んでいるマンションには、悲しいことにあいさつができない人がいるんです。
 あいさつは漢字で「挨拶」と書きます。「挨」も「拶」も押すことで、「押し合う」という意味があり、もとは禅宗で、門下の僧と問答をして悟りの程度を知るということからきているのだそうです。(悟り:知らなかったことを知ること。迷妄(めいもう=心の迷い)を去って、真理を会得すること。「迷い」の反対の意味)

 あいさつとは、「相手に敬意・親愛の意を示す」という行為で、知っている人にはもちろん、初めて会った人にもあいさつをすることで、相手との関係がよくなるのです。(5年生「ニシギギ」の9月3週の長文でも、あいさつについて書いてありましたね。)
 日本では、「今日は(こんにちは)」。「今日(きょう)はごきげんいかがですか」と言っています。

 ニーハオ(中国)、ボン・ジュール(フランス)、グーテン・ターク(ドイツ)、ブエノス・ディアス(スペイン)、ナマステ(インド)、アンニョンハセヨ(韓国)、ズドゥラストビー(ロシア)、グッド・モーニング(アメリカ、イギリスなど)、サワディカー(タイ)、アパカバール(インドネシア)、マルハバン(トルコ、エジプトなど)、ボン・ジョルノ(イタリア)……
 世界のいろいろな国でのあいさつです。どこの国の人も、必ずあいさつをしているのですね。そして驚くべきことに、どこの国の言葉も「こんにちは」のあいさつは「良い日」という意味なんですよ。出会った人に「きょうはいい日だね」と声をかけあっているのです。また神様を信じる国の人々は、「神様のご加護がありますように」、「あなたに幸運を」という意味の言葉をあいさつとして使っています。


 素敵だと思いませんか? ちょっとめんどくさいな、とか、はずかしいなと思うときもあるかもしれませんが、あいさつしないなんてもったいない!(笑) あいさつには、相手も自分も幸せにする魔法のパワーが潜んでいるんですよ。
                         
名付けの意味を知ることは(スズラン/おだ先生)
 私は今、町内会の役員なので、この前まで名簿改訂の仕事をせっせとしていました。
千名ぐらいの名前の整理ですから、住所順やら索引やら、パソコンでできるとはいえ、字に誤りがないか一人一人調べました。そんな仕事をしていて気が付いたのですが、同じ名前の人が誰もいなかったのです。名字が同じ人は沢山いましたが、名前は全部違うのです。その中で珍しい漢字の人、ちょっと年配の人かと思われる難しい漢字の人、なにしろパソコンでは出て来ない字もあるのですから、昔は(といっても昭和の初めでしょう)随分難しい名前を付けたものと感心するほどでした。今は人名漢字には制限があって、先日やっとかなりの字が認められましたね。
 「言葉に森」の仕事をしていて、今まで担当した生徒さんの名前がとても素敵な名前が多くて、「かわいいなあ」とか「元気がよさそう」などと名前から想像していました。
 名前というのは、その字を見ることでどういう人かしらと想像さえしてしまうほど、その人のイメージを作り上げてしまいそうですね。「名は体を表す」とか「名前に恥じないように」などと言われるのも、名前がそれだけその人と切っても切り離せない一体のものなのでしょう。
 赤ちゃんが生まれると分かったときに、親が一番先に考えるのは「名前はどうしよう」ということだと思います。元気で無事生まれることを願い、一生幸せに過ごしてほしいという思いが名前には詰まっているのではないでしょうか。
「言葉の森」でも、「フジのやま」(6年生対象)クラスの課題には「私の名前」という作文課題があります。どうしてその名前になったのか、お父さんやお母さんに聞いてみるチャンスにもなるのですが(案外くわしい理由を知らないことが多いのです)、親が子どもに与える最初のプレゼントだと思いますし、親の気持ちが込められている楽しい答えが出てきます。お父さんやお母さんの名前の由来を聞くことも、大発見をしたときのような楽しいものになっているようです。
 
 と、ちょっと硬い文が長くなりましたので、ここで、クイズを。
世の中のはおもしろい名前が沢山ありそうですよ。読み方をあててください。 
1)一二三四さん 2)一さん 3)二さん 4)五五五さん 5)七五三さん 6)九さん
7)十さん 8)百百さん  
いくつ読めましたか。
答えは1)一二三までが姓で「ひふみ」四が名前で「かつじ」さん。
   2)「にのまえ」さん 二の前は一だから。
   3)「わかる」さん  これはなぜ「わかる」さんなのかわからないそうです。
   4)「ごごもり」さん これもよく分かりません。
   5)「しめ」さん  これは有名な狂言師の方の名前にもありますし、私の知人も同名でした。
   6)「いちじく」さん 一字で九なので。
   7)「みつる」さん 地方によっては「つなし」さんだそうです。
   8)「とど」さん これもよく分かりません。
 数字の名前を数例だけ書いてみましたが、おもしろい読み方をしますね。なるほどと思ったり、どうして? と思ったり、こんなふうに名前は様々なのですね。

 終わりに、長い名前をご紹介しましょう。さあ、誰の名前でしょう。
 「パブロ・デイェゴ・ホセ・フランチスコ・ド・ポール・ジャン・ネボムチエーノ・クリスバン・クリスピアノ・ド・ランチシュ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ」
 縁起の良い祖先の名前を全部付けてしまったのだそうです。最後の「ピカソ」でやっとあの有名な画家だったと分かりました。ピカソさんは全部言ったり書いたりしていたのでしょうか。大変だったでしょうね。
 自分の名前は一生離れないものですから、大事に大事にしたいですね。
夜中に書いたラブレター(メルトン/うなぎ先生)
 「夜中に書いたラブレターは、翌朝かならず読み直せ」とよく言われます。朝になって読み返してみると、顔から火の出るような内容だったりして。
 「あなたは僕の太陽だ。校庭を走るその姿はまぶしすぎる。」
 「全校生徒を敵に回してもあなたを守りたい。」
 ポストに入れる前に(送信ボタンを押す前に)、一晩寝かせたほうがよろしいということです。はい? こんなはずかしい文章を書くわけがない? いえいえ、夜の闇をあなどってはいけません。お父さん、お母さんに聞いてごらんなさい。程度の差こそあれ、似たような体験をされていると思いますよ。
 私の場合、幸か不幸かラブレターをしたためるような度胸はありませんでしたが、日記では幾度となくそんなことがあります。常日ごろの思いを夜更けに綴っては、朝せっせと破り捨てる。「ああ、あぶないあぶない。こんなものよく書くなぁ。証拠隠滅しないと。人様に見られでもしたら、立ち直れない。」
 でも、最近になって思うんです。あの破り捨てた日記、とっておいたほうがよかったのかしら、と。当時と比べれば自意識も感受性も鈍っているでしょうから、気の向いたときにコッソリ読み返しては、忍び笑いすることも可能なのではないか、と。
新聞、読んでるかな(ひとみ/かもの先生)
 テレビ局でドラマをつくるディレクターが、以前に、「忘れられた名文たち」という本を出したことがあります。本を出した動機を、筆者は、おおむね、こう言っています。  
 <私たち一般人は、名文家ではない。しかし、ごく平凡な日本人、たとえばサラリーマンや商店主、主婦やOLの文章を書く能力は、決してばかにならない立派なものだと思う。どんな文章が名文であるかを、よく知っている。その知識をいったいどこで学んだのか。その能力がどこから来たのか、と言えば、大文豪や文学全集に収められている大作品がお手本なのではない>と、言うのですね。そうして、
 <日常読む新聞・雑誌の記事、ごく大衆的な小説、そしてひとからげに「雑文」と呼ばれるものによって養われたものではないか、というのが(筆者の)持論である>と言うのですね。そうして、
 <日常目にふれる「雑文」と呼ばれるものを読んでいるうちに、自然と身に付いたものに違いない。この雑文が、日本人の文章力を支えている。かくいう私(テレビ・ディレクター)が、なんとか文章らしきものを綴られるのも、まったくそのおかげだが、それにしても、この「雑文」の評価が低すぎる。こうした「日本の名文」は、かえりみられることなく消え去る運命にある。どんどん忘れ去られていく、読み返そうにも本がない>
 だから、そういう雑文(名文)を集めた本を出したのだ、と言うのですね。
 この本は、いま、文春文庫に入っていますが、中学生、高校生、大学生のみなさんは、ぜひ、家で取っている新聞の、どこか気に入ったところを、毎日、なるべく読むようにしてください。立花隆という、東大で授業を持ったことのある評論家に言わせると、日本の大学生の7、8割は新聞を読まない、と言うのですね。その結果、日本人は、この情報化時代に、国際的な孤児になってしまう、と言うのですね。少し、飛躍がありそうですが、大学生は新聞を読まず、代わりにテレビを見ることで済ます、テレビは(NHKを除いて)国際ニュースをほとんど取り上げない、だから国際ニュースに疎くなる、と、こういうわけですね。
 これは、いま、大学生の授業を週3回もつ、わたくしの実感とも一致することです。
 
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