目標と方針 編集用
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前書き
 なぜ目的と計画を立てるのか
 目的を立てることの限界
 限界を押し広げることに美がある
世界と目的
 世界の本質は「ない」ことの否定としての「ある」である
 重要なものは自己と世界の関係である
 目的とは何か(四つの本質)??目的の空間的側面??
 目的と年代の関係??目的の時間的側面??
教育
 教育の意義
 教育の分野
科学と宗教を超える教育の意義
未来の展望
 現代の情勢
今後の基本方向
日本の教育産業における情勢と今後の方針
世界の教育産業における情勢と今後の方針
作文文化の創造
言葉の森
 言葉の森の目標
 補足説明
 指導・運営・経営
経営の方向
 未来に向けての経営
 現在に向けての経営
 過去に向けての経営
2003年の方針
 未来に向けての方針
 現在に向けての方針
 過去に向けての方針
2004年の方針
 情勢
 長期方針
 短期方針
 内部方針
 解説
生徒数の推移
事務処理上の注意事項
 メールは毎日チェック
 細かいことにも返信を
 連絡の窓口は山田さん
 自宅にいない場合は、留守電にするか携帯の連絡先を
 日時指定のあるものは厳守
 評価データの送信が遅れるときは事前に電話を
 評価データは、毎週、全員の分を
 在籍していない週は、評価を入れない
 2回続けて生徒が不在になったときは連絡を
 清書には生徒コードを記入
 生徒の移動は、事後報告で
 不明なことはこまめに確認
 メーリングリストへの返信は宛先を確認して
 言葉の森新聞の連絡事項も読んでおく
 父母からの要望には線引きをして対処
 事務局宛のメールで参考になるものは紹介します
目標と方針
2004年1月3日 文責:中根克明(森川林)
前書き
なぜ目的と計画を立てるのか
 世の中には、必要に迫られて行動する人もいる。また、そういう場合や時代がある。一方、自分の好きなことを好きなままに行動する人がいる。また当然、そういう場合や時代がある。これらは、ひとつには個人の性格の問題であり、もうひとつには時代やその場の状況の問題である。
 そして、これら二つの行動形態の間に、目的を立て計画を立てて行動する形態がある。
 これら三者の間に優劣があるのではない。どの行動形態を主にするかは、個人の好みとその場の状況と時代の状況による。そして、私はこっちを選んだ。(笑)
目的を立てることの限界
 人間の認識には限界がある。
 それはひとつには、人間の認識に、知識の有無に左右される制約が伴うからである。小学生時代に正しいと思っていたことが高校生になったときに一面的な考えだったとわかることがある。同じように40代に正しいと思っていたことが60代に一面的だったと思うことがあるかもしれない。こういう認識の持つ不完全さと比較すると、必要に迫られた行動や気ままな行動はそれ自体充実した完全性を持っている。認識に基づいた行動に選択の余地があるのに比べて、必要に迫られた行動や自由気ままな行動には選択の余地がない。選択の余地がないということは、それだけそれらの行動が完全であるということである。しかし、当然それらは、豊かな可能性を持たないという意味での完全性である。
 また、人間の認識にはもうひとつ、より本質的な限界がある。それは、生物全体を含めた認識そのものの持つ制約である。世界には、時間や空間以外の次元があると考えられている。それは、一次元の次に、二次元、三次元が続くことを考えると、当然四次元、五次元、……多次元があると予想されるからである。また、二次元の平面をはう青虫にとって、人間の住む三次元の世界が認識しにくいように、三次元に住む人間には、四次元以上の世界は認識しにくい。
 だから、目的と計画を考える場合、当然これら二つの認識の限界を前提にして考えることになる。こういう限界を好まない人は、神の言葉やインスピレーションやほかの何か大きな権威に頼ることになるが、そういう立場は、私はとらない。
限界を押し広げることに美がある
 さてしかし、人間の行動の根本的な動機は最終的には好みの問題に帰着するとしても、私は人間は原則として目的と計画に基づいた行動選択の立場をとるべきだと考えている。それは、必要に迫られた行動や自由気ままな行動は人間以外の動物でもできる行動であり、多くの場合知的怠惰の証だからである。また、神や権威に基づいた行動はロボットでもできる行動であり、これもまた多くの場合知的怠惰の証にすぎないからである。
 人間の認識は不完全であり、不完全であるからこそ進歩する。それは、野の花があるがままの完全さで咲いている美しさとはまた異なる、人間的な美である。これに比べると、神の国にあるような完全性とは、造花の美のようなものにすぎない。
世界と目的
世界の本質は「ない」ことの否定としての「ある」である
 世界、つまり人間の認識の及ぶ範囲でとらえられる私たちの周りの世界は、次のように考えることができる。
 世界は、そのものであり続けようとしている。そのものであり続けるということは、そのものでないことへの不断の否定である。
 その否定は、人間の認識の及ぶ範囲で考える場合、四つの方向で行われている。
 第一は、常に過去を否定しつつ現在を生起させているということである。空を飛ぶ小石は、絶えず一瞬前の自分の過去にいた場所を否定しながら、空を飛ぶ小石という自分自身を維持することができる。
 第二は、常に未来を否定しつつ現在を維持しているということである。成長する苗は、未来の実をならせるべき自分を抑制しつつ、現在の葉を茂らせねばならない。もし、芽を出したと同時に、葉も花も実もならせるとしたら、それは、生まれたと同時に枯れることを意味している。当然そういうものはこの世には存在し得ない。つまり、世界は常に未来を否定しつつ存在しているのである。
 第三は、自分自身の外部を否定しつつ自分自身であり続けているということである。ウサギは常にライオンから逃げながら生きている。犬は、暑いときに舌から気化熱を放散しながら、寒いときに筋肉を震わせて体内の温度を上昇させながら生きている。
 第四は、自分自身の内部を否定しつつ自分自身であり続けているということである。その象徴的な存在が、物質の中に生まれた意識である。
 世界の進化ということを考えた場合、存在という世界がそれ自身であり続けるために不断に自分自身を否定し、それが今日見るような豊かな世界を生み出したと考えられる。その存在の否定の極致に意識が登場したことを考えると、意識が「意識を否定する」存在そのものを否定すること、つまり意識による存在の規定こそが世界の未来に待っていると考えることができる。
 内部の否定ということをもっと単純に論理の上だけで考えることもできる。つまり、「ウサギ+ライオン」の世界を考えた場合、「ウサギ」と「ライオン」が常に内部で互いを否定し合っているから、つまり「ウサギ」と「ライオン」がともに「ウサギ+ライオン」の世界を否定しているからこそ「ウサギ+ライオン」の世界が成り立っている。
 以上、四つの方向をひとまとめにして、世界の中に生まれた否定が世界を世界たらしめているということができる。
重要なものは自己と世界の関係である
 さて、世界に無数にある否定の中で私たちにとって最も重要なものは、自己という否定である。世界にあるさまざまな否定が子分だとすれば、自己こそは否定の親分である。自己という否定なくしては、世界は私にとって存在の意味を失う。世界はお前のためにあるのではないと言われればそれまでだが、なぜ今私がいるかと言えば、私を取り巻く世界がその世界そのものであるために、私という否定を必要としたのだと考えることができる。
 確かに、人間だけで60億人近くもいることを考えると、自己もまた無数にあるのであり、自己の先にある否定として自己を超越した意識を想定することはできる。だがそれは、世界の進化の更に先の段階の話として考えるべきものである。
目的とは何か(四つの本質)??目的の空間的側面??
 自己もまた、自己そのものであり続けようとする。それは、自己でないことへの不断の否定である。その否定の、世界に投影されたものが目的である。簡単に言えば、おなかがすいたから、あそこにある木の実を取って食べようということである。
 目的は、世界を情勢として出現させる。木が高すぎるというようなことである。
 また、目的は世界に対峙する自己を長所短所として出現させる。木登りは得意だが、今日はちょっと足をくじいているというようなことである。
 自己の持つ目的はそれぞれの場面に応じて無数にあるが、本質的な目的は次の四つである。
 第一は、幸福である。現代の社会では生産性の観点からものを見る習慣のために、役に立たないものは意味がないと考えられがちだが、あらゆるものはそれ自体が幸福であることに第一の意味がある。
 第二は、向上である。自己は絶えず自己自身を向上させるという目的を持っている。石ころやバラは石ころやバラらしくありたいとしてがんばっているだけだが、人間における自己はそのより発展したかたちである「よりよい自己でありたい」としてがんばっている。
 第三は、創造である。植物や動物もその進化の過程で常に創造をしてきた。人間はその創造を更に推し進める力を持っている。創造の中には、成功も失敗もある。進化の過程で絶滅した多くの生物、例えばサーベルタイガーやマンモスがその長すぎた牙のために絶滅したとすれば、彼らの創造は失敗だったと言うこともできる。だがそういう無数の失敗がなければ、同時に無数の成功もなかったのである。亀類は恐竜時代から、6500万年前の隕石の衝突や数々の氷河期にも耐えて生き延びている生物であり、その点では成功した生物である。しかし、世界中がカメの楽園になって満足する人はいない。新しいものを創造することは、成功失敗とは別の次元でひとつの独立した目的なのである。
 第四は、貢献である。人間は自己であるために時には実際に自己自身を否定してまで他の自己の幸福を願わざるを得ない。これは単なる逆説ではなく、自己がもともとそういう目的を本質的に持っているということである。確かに、貢献を利己的な遺伝子が装う単なる見せかけと考えることもできる。だが、利己的な遺伝子がたとえあるとしても、それがもともと貢献をその本質として持っていると考える方が、ものごとをより簡単に説明できる。それは、夜の間に昼があると考えるよりも、昼の間に夜があると考える方がものごとを説明しやすいのと同様である。手帳でも、ページの最初が午後1時から始まりページの真ん中に夜中があり翌日の昼が最後に来るようなものを持っている人は、特殊な仕事に従事している人だけである。
 ドーキンス(「利己的な遺伝子」の著者)はまちがっているわけではないが、特殊な仕事に従事しているのである。そして、その特殊な仕事の仕方を他の人の仕事にも適用しようとしている点でまちがっているのである。
目的と年代の関係??目的の時間的側面??
 人間は四つの本質的な目的を持っている。これらは、目的の空間的側面に着目したものである。これに対して目的の時間的側面は次のようなものである。
 10代までは、愛情を受けることと幸福に生きることが人生の主要な目的である。早期教育の欠陥は、もっと先の年代になってから主要な目的となる学習を先取りし、その結果本来の主要な目的である愛情に包まれた生活を犠牲にしてしまいがちなところにある。早期教育と愛情を両立させるためには、早期教育の分野を少数に絞る必要がある。
 10代は基礎的な学習の時代である。
 20代はより自覚し専門化した学習の時代である。世の中には、10代や20代での遊びが大切だと考える人もいるが、主要な目的はあくまでも学習である。
 30代は事業の時代である。つまり、この時代は、事業を通して、幸福に生き、向上し、創造し、貢献する時代だということである。
 40代は思想の時代である。これまでの思想家は、20代の学習の延長でそのまま研究を続け思想を職業としてしまうことが多かった。しかし、これからは、30代で実際の事業に携わらない思想でなければ、時代の要請に答えられるものにはならないだろう。
 50代は政治の時代である。30代の事業で培った経験を40代で思想として一般化し、それをより広範な場面でより貢献的な姿勢で実現する時代である。
 60代は芸術の時代である。あるいはその前に後進育成という課題が入るかもしれない。どれだけ多くの知識や経験に恵まれ、どれだけ多く世の中に貢献してきた人でも、人は年齢とともに古くなる。老人の主観的な貢献が、時に時代の進歩の桎梏となることもある。60代はまだ老人ではないが、まだ意欲も吸収力もあるその時代に、芸術に携わる準備をすることが必要である。芸術はがんばれば世界に美と愛を増大させることができる。しかも、どんなにやりすぎても人に迷惑をかけるおそれがない。人間は100歳まで生きることができると言われている。場合によっては120歳まで生きることもありうる。芸術はこの長い人生の後半を占める主要な目的である。
 天才的な努力の思想家、孔子は、次のように述べている。「吾(われ)、十有五にして学に志し、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(みみしたが)う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」この人生に対する深い洞察は、二千年前と同様にどの時代の人間にもあてはまる。
教育
教育の意義
 人生の目的である幸福・向上・創造・貢献を考えた場合、かつてはこの目的の実現の大きな部分を宗教が担っていた。しかし、宗教は大多数の人にとって単なる絵に描いた餅であり未来へのあてのない約束にすぎなかった。宗教はほとんどの人にとって心理的な安心感以外のなにものももたらさなかった。確かに一部の能力的にも環境的にも恵まれた人は、宗教によって心理的な満足以上の成果を得ることができたが、それはきわめてまれな例であった。
 近代に至り、科学が宗教に代わり人生の目的の実現を担うようになった。それは宗教よりもはるかに広範に人類に恩恵をもたらした。厳しい修行を経て「心頭滅却火もまた涼し」という境地に達するよりも、エアコンのスイッチを入れることで涼しくなる方がはるかに簡単だからである。しかし、科学はそこに人間の内面的な成長を必要としないがゆえに、次第に収穫逓減の法則に陥り、やがて科学や技術の発達自体が人間の幸福の実現にとってひとつの制約となる事態を生み出した。これは比喩的に言えば、どんなに切れる刃物を持っていても、それを狂人が持っている限り、人間の幸福には結びつかないということである。
 これからの時代において、人生の目的の実現を担うものは教育である。教育は、宗教と科学がいずれもその一面性ゆえに部分的にしか実現させることのできなかった人生の目的を、より全面的に実現させる可能性を秘めている。そのためには、現在の教育自体が大きく形を変える必要がある。これまでの教育の弱点は、第一に目的そのものが明確に人間の幸福・向上・創造・貢献を目指していなかったことである(目的性)。第二に生徒が受け身であり、主体性を発揮しているのは先生と教材だけだったことである(主体性)。第三に情報技術を活用していないために、閉鎖的で高コストで非民主的なシステムになっていたことである(公開性)。これからの教育は、全世界の古今の英知に学びそれを創造的に発展させることで、人間の幸福を実現するための強力な道具とならなければならない。
教育の分野
 教育は、四つの分野に分かれる。
 第一は科学である。ここには現在の国数英理社などの教科と哲学が含まれる。いわゆる知育的なものである。
 第二は倫理である。ここには人生観、生活規範、道徳など価値的なものが含まれる。いわゆる徳育である。現代の教育は不偏不党の立場から価値的なものの教育を家庭に任せている。しかしそれが逆に人間の生き方を脆弱なものにしている。「朝起きたら挨拶をする」という規範は、価値的なものである。客観的で普遍的な根拠は何もない。そこが普遍性を持つ科学との違いである。しかし人間が人間らしく生きるためには、この価値的歴史的なものを系統的に学ぶ必要がある。それは個々の核家族化された家庭では担いきれないものである。ただし思想信条の自由という観点から、倫理の教育においては民主的な決定と選択の自由が保証される必要はある。
 第三は工学である。ここには技術的なものがすべて含まれる。機械の発達により人間の手足の巧緻性は機械に関わる面では進歩しているが自然と関わる多くの伝統的な面では退化している。生身の手足によって現実の世界と対話する技術は、人間の可能性ばかりでなく、機械の可能性も押し広げるものである。この技術教育の発展した形態として芸術教育を考える必要がある。芸術を天性の才能やインスピレーションや独創性の観点からだけとらえると、教育との接点を見失う。芸術が爆発であっていいのは、個人の趣味の分野においてだけである。
 第四は体育である。ここにはスポーツを楽しむこと以外に、肉体の健康も含めたあらゆる身体的なものが含まれる。更に、身体と精神が不可分のものであると考えると、精神の活性化も体育の分野に含まれる。
 さて、第一の科学の分野をくわしく考えると次のようなことが言える。
 まず、20世紀後半に至るころから、知識教育は次第に行き詰まりを見せてきているということである。それは既に一般教養としての知識の量が人間の習得できる範囲を超えているからである。今後はそれぞれの教科の分野で必要な知識を大幅に精選していく必要がある。教科の知識の大幅精選のためには、その教科の教育関係者以外の人が主役になる必要がある。具体的には、国語における漢字の書き取り、文法の知識の大部分は不要である。パソコン時代には漢字は読みさえできればいいと大胆に考える必要がある。古文と漢文は作品の暗唱として学ばれるべきである。数学における計算練習も大幅に削減する必要がある。計算は電卓やエクセルに任せて、数学はもっぱら思考の訓練の学問として進めていくべきである。また英語や外国語の習得に費やす時間は無駄以外のなにものでもない。携帯型の自動翻訳機または翻訳補助機の開発を国家事業として進めるべきで、外国語の習得を個人の学習に任せるのは人間性に対する冒涜と考えるべきである。理社のほとんどの知識は、必要なときに調べられればよいということで押さえておくべきである。人間が百科事典になる必要はない。
 こう考えると、科学の中心分野は今後、知識という材料の蓄積でなく、知識を料理する方法である哲学に向かっていくと考えられる。ここで言う哲学とは、カントやヘーゲルの存在論や認識論といった狭義の哲学ではなく、あらゆる科学の背後にある物の見方や考え方という意味での哲学である。
 哲学とは、ひとことで言えば、同一性の中に相異性を発見し、相異性の中に同一性を発見する力を育てる学問である。フランクリンは雷雨の中で凧を揚げて、雷と電気という異なる外見を持つものが実は電気という同一のものであることを証明した。縄文時代の人々は、採ってきたドングリを水に入れ、浮かんでいるものが虫食いであると判断した。これは、外見上同一であるドングリに、食べられるものと食べられないものの相異性を見つけたということである。高度な学問も、本質的にはこれらの発見と同じ性格を持っている。
科学と宗教を超える教育の意義
 科学は、これからも進歩する。人間はやがて太陽や生命も作ることもできるようになるだろう。
 予測できる範囲で言えば、科学の進歩における最も魅力的なものは、地球上の生物のさまざまな遺伝子を人間に移植できるようになるということである。地球上の生物の長所をすべて合体させたスーパーマンのような人間が遺伝子工学の応用によって誕生しうるのである。
 しかし、科学の到達点で、人間が真に幸福になれるかどうかは疑問である。また、そこに至るまでの副作用もかなり大きい。
 宗教も、これからさらに進歩する。しかし、宗教は、現実の人間を超えた面を持ちつつも、本質的には人間性に反する限界を持っている。その限界とは、未来を創造する人間の本性と相いれないことである。
 神というものは、人間よりも普遍的な概念であるはずだが、往々にして人間よりもはるかにローカルな一面を持っている。中国の神々は仙人の姿形をしているし、ヨーロッパの神々はヨーロッパ人の姿形をしている。そして、それらの神々の言っていることは、更にローカルである。中東の神はエルサレムが世界の中心のように主張するし、日本の神は高天が原が世界の中心であるように主張する。しかも、その神話的世界が宗教の核心部分であるから、仏教とキリスト教が、たとえ当面の世界の平和を守ることでは一致したとしても、それはまったく表面的な一致であり、犬と猫がたまたま同じ軒下で雨宿りをしているようなものである。これらの宗教が話し合いによって世界の始まりに統一的な見解を持つようになるということはない。というのも、もともと宗教は民主主義とは無縁の体系であるからだ。宗教において絶対的なものは神の声であり、教団における民主主義とは運営上の技術的な手続き以上のものではない。だから、教祖が下す命令を信者は拒否できない。仏教もキリスト教も、それがまともな宗教であるかぎり、反民主主義的なものである。たまたま教祖の近くにいる人が、それほど異常ではなく、かつ強大な権力を持っていないから、世間の常識の範囲に収まった活動をしているというだけである。民主的な話し合いという要素は、神の意志とは共存しないのである。
 しかし、このようにローカルで恣意的で非民主的な体系であるにもかかわらず、宗教は人間を超えた力を持っており、時にその力が大きく成長することがある。
 今日の大きな宗教は、土着の神が政治的な力で他の地域にも影響力を持つようになったものである。A国の神は、A国が世界の中心であり、A国の国民が世界を支配する資格を持つと主張する。隣のB国の神は、B国が世界の中心であり、B国の国民が世界を支配する資格を持つと主張する。そして、たまたまA国が武器の力でB国を滅ぼしたとすれば、その分だけA国の神の影響力が広まったことになる。現在普及している宗教は、それが正しかったから普及したのではなく、その宗教を奉じる集団や国家がたまたまほかの集団や国家よりも武力的に強力だったから普及したのである。
 こう考えると、宗教の根元は個人に行き着く。あらゆる個人は自分の神話を持っている。つまり、自分こそが世界の中心であり、世界は自分のために回っているという根本的な視点を持っている。食事をとるのでも、昼寝をするのでも、他人のためにすることはできない。すべて、自分のためにするのである。とすれば、人間にとって木の実は自分に食べられるために成っているのであり、太陽は自分を温めるために今日も昇るのである。宗教とは、つまるところ、うちの祖先にこんな立派な人がいて、こういう家訓があるという程度のものである。
 しかし、宗教がこのように人間の意識に従属して生成し発展したものであるにもかかわらず、神が人間を超えた力を持つことがある。現実の人間が通常の意識ではなしえない予知、テレパシー、念力、病気直しなどが、神の力でなされることがあるということである。これは、エドガー・ケイシーや出口王仁三郎などの例を見れば、きわめてしばしば生起することであることがわかる。キリストもブッダも、同様の超能力を持っていたと推測される。
 人間の狭い個人的な意識から生まれたものであるにもかかわらず、人間を超えた普遍的な力を持つということが、宗教の問題に正しく対処することを妨げ、宗教を過大評価する考え方を生み出している。
 最近の歴史的な特徴は、この宗教の超能力性が大衆化していることである。かつては、宗教の超能力は、神に選ばれたごく一部の人か、困難な修行に耐えたごく一部の人だけが持ちうるものであった。しかし、今日では、多くの人がそのような超能力を持てるようになっている。
 先に述べた宗教の進歩とは、そういうことである。宗教は、これからますます進歩する。空中に浮揚したり、未来を予知したり、人の心を読んだり、動物や植物の生育や行動をコントロールしたりすることが、程度の差はあれ多くの人にとって可能になる。寿命も当然大幅に延びる可能性がある。人類が長い間目指していた不老不死と全知全能が、遺伝子操作のような科学的アプローチとは別の宗教的アプローチでなされつつあるというのが今日の時代の特徴である。
 しかし、そこで問題になるのは、神秘主義や超能力は低俗な人格と共存しうるという事実である。
 ここから宗教の本質について大胆に推測すれば、神というものは、これまで思われていたような人間の一歩上に存在するものではなく、人間の過去のデータの想起にすぎないのではないかと考えることができる。神ができるものは、他の動物が既にできているもの、他の手段で既にできているもの、かつて誰かができたもの以上のものではない。空中を浮揚することは、既に鳥や蝶がやっていることである。水面を歩行することは、既にアメンボがやっていることである。テレパシーは既に他人が考えていることである。未来予知は、現在の延長で既に起こっているものを推測することである。その他の神の声による発明や発見も、既に過去の人類によってなされたものであることが多い。狂人が鋭い刃物を持てるように、人格的に未熟な人間が鋭い未来予知をすることは十分にありうる。
 と考えると、宗教はますます大衆化し、ますます多くの人がかつての教祖がしたような偉大な宗教的インスピレーションを持てるようになるが、その先に人間の幸福があるとは必ずしも言えないことがわかる。それは、過去の再現なのであり、現代を過去にしばりつけるものであり、人間を個人に分断し、個人間の果てしない闘争を過去の闘争の反映として生み出すものである。今ある穏やかな宗教はすべて、力がないから穏やかであるだけである。
 ここで、科学と宗教を超えた第三の道として出てくるものが教育である。
 教育の目指すものは、個人が、これまでの人類が到達しえた偉大な人格を再現することである。例えば、聖徳太子のようなヒューマニズム、勝海舟のような公の精神、二宮尊徳のような社会貢献、中村天風のような勇気を、個人が自分の人生において実現することを考えてみよう。そして大事なことは、その再現の上に、未来を創造し、世界とのより広範な調和を目指すことができるということである。現代と過去をつなげるという点では、教育は宗教と似通っているが、宗教が過去から現代へと太いパイプをつなげるものであるのに対して、教育は現代から過去へ細い井戸を掘り続けるものである。教育は過去を取捨選択し創造的に発展させるのである。これが選択を否定する宗教との根本的な違いである。
 教育の目標は、科学のような副作用を持たない。そして何よりもその目標自体が高潔な人格を伴っている。
 しかし、そのためには、教育の方向に対しての意識的な努力が必要である。少なくとも、現在の学校教育が提供するものを消化しているだけでは、真実の教育は得られない。今日の学校教育は、受験という目的のもとにあり、求められているものの多くが、単なる記憶の再現である。記憶力を強化することで高得点を得ることができる漢字、英語、社会、理科などの教科に力を入れれば入れるほど、私たちは人間を育てているのではなく、人間を辞書や図書館に作り替えようとしていることになる。
 人間が真に学ぶべきものは、比喩的に言えば古典と作文とプログラミングと心身である。古典とは、雑多な読み物が蔓延する中で、真に価値ある書物を読むことである(科学)。作文とは、過去の記憶を再現することでなく未来を創造することである(哲学)。プログラミングとは、読み書きそろばん英語が現代のすべての人の知的な生活の基盤であるように、未来の世代における知的生活の基盤である(工学)。心身とは、自分の精神と身体を自覚し自由にコントロールすることである(体育)。
 この、教育の持つ意義を広め、その理念を深め、実践の中で未来の教育のためのおおまかな地図を作ることが、現代の課題である。
未来の展望
 言葉の森の究極的な目標を明確にする必要がある。それらの中には生きているうちに実現できない可能性が高いものも含まれる。しかし、あらゆる計画は究極の目標を前提にして作られる。当面の目標も、究極の目標との関連で考えられるべきである。
現代の情勢
 大きな歴史的な情勢を考えると、人類は現在、資本主義という生産関係の大枠の中で世界的規模において絶対的余剰の時代に突入しつつある。
 人類は、これまでの歴史の中でも、それぞれの時代の生産関係の枠の中でそれぞれの地域の中で相対的余剰の時代に突入したことがある。そのような時代に、文化は花開き、その文化の中で新しい生産関係が生まれ、その新しい生産関係の中で相対的余剰は崩壊し、新たな生産力の発展が再び繰り返されたのである。
 これらの過去の時代の余剰と比べると、現代の余剰は、大きな特徴を三つ持っている。
 第一に、余剰が世界的な規模で生まれつつあることである。世界に貧困がまだなくならないのは、主に生産力のためではなく、政治的な工夫が追いついていないためである。貧困問題は、合計の数字の上では既に解決している。
 第二に、科学と文化と経済の不均等な発展に伴い、豊かさが増す一方で、環境破壊、テロ・戦争、科学事故など人類の存亡にかかわる危険が増大していることである。
 第三に、絶対的余剰の時代に対応した新しい文化の核心がまだ生まれていないことである。
今後の基本方向
 言葉の森の方針は、現代の情勢に対応して大きく三つの方向で考えることができる。
 第一は、私たちの仕事を、資本主義を超える新しい政治経済システムの誕生を予測する中で進めることである。利益を上げるとか売上を伸ばすというこれまでの経営学の指標以外の、人間性に立脚した評価を常に志向していく必要がある。
 第二は、激動する時代の中で私たち自身が生き残る方向で仕事を進めることである。
 第三は、幸福・向上・創造・貢献という人間の目的を実現する方向で仕事を進めることである。
日本の教育産業における情勢と今後の方針
 日本の教育産業において決定権を持つ分野は受験である。
 その受験勉強において、今後、英語・社会・理科の地位が低下し、国語・数学の地位が高まる。更に、その中でも知識の比重が低下し、理解の比重が上昇することが予想される。
 特に、国語においては、手書き文字読み取り技術の発達などにより、作文の自動採点が可能になり、作文が受験勉強の主要な教科になる。また作文小論文の学習が高校生よりもむしろ中学生や小学生において盛んになる。
 我々は現在、小学校低中学年の作文指導というニッチな市場で仕事をしているが、それが一挙に多くの塾や予備校が参入する大きな教育分野となる可能性がある。
 このときに市場を決定するものはブランドである。インターネットの時代にあっては、資本力や宣伝力よりもブランド力が物を言うからである。そのブランドを決定づけるものは、正統性と魅力である。そして、インターネットの時代における正統性とは、公開性のことである。
 言葉の森の方針は、作文の指導と評価をオープンソース運動として進めることである。言葉の森には、指導技術の蓄積と、インターネット技術の可能性と、長期的な展望がある。不足しているのは、動員できる生徒数だけである。その生徒数は、私たちが下流の支流の上流の位置を占めることによって克服することができる。
 主要な教科となる作文小論文の分野で、日本一を確保することが当面の生き残りのための方針である。そしてその中で、作文教育を通して日本の教育と社会を立て直し、世界に新しい文化を発信する土台を作ることである。
世界の教育産業における情勢と今後の方針
 eラーニングにおける最大かつ最強の供給者はアメリカである。また最大の需要者となる可能性があるのは中国である。
 日本の受験教育においてトップを維持することは、世界的な視野で考えると地域的なニッチ市場の勝者であることに過ぎない。将来、受験教育そのものが無意味になり、教育が本来の目的に立ち返る過程において、日本の受験教育は、世界のeラーニングの流れの中に吸収される。
 供給のアメリカ、市場の中国の間にあって、日本がeラーニングにおいて独自の位置を確保するためには、独自の魅力を創造する必要がある。
 その独自の魅力とは、日本における心身文化の伝統である。
 経済的な豊かさが手に入ったあとにも残る人間の欲望は自己の追求であり、具体的にはより強くより美しい自己を形成しようとすることである。日本の心身文化をこの方向で整理集約し方法化し国際化することが、世界の教育産業における生き残りのための方針となる。そしてその中で、世界に恒久の平和をもたらし、古今の世界文化を集大成し、人類の真の発展の土台を作ることである。
作文文化の創造
 日本における作文教育の発展と、世界におけるeラーニング教育の発展の土台の上に、私たちが目指すものは、幸福・向上・創造・貢献を目的とした作文文化の創造である。とりわけ、作文教育を創造教育として発展させることが最大の目標となる。なぜならば、人類がこの宇宙に存在する最も大きな意義は創造性だからである。
 Reading maketh a full man, conference a ready man, and writing an exact man. Francis Bacon
 (読むことは人間を豊かにし、話し合うことは人間を役立つ者にし、書くことは人間を正確にする。フランシス・ベーコン)
 この正確さの発展したものが創造性である。
 人類は、地球を創造の星とすることによって宇宙に貢献することができる。
 以下は、空想的な仮説である。
 宇宙には、地球人と同じような知性を持った生物が存在し、またかつて存在した。
 しかし、知性の発達と滅亡の可能性の相関はきわめて高かった。それは、現在の人類の置かれている立場を見ると容易に想像できる。人類は、既に数十年も前から地球と人類を滅ぼす道具を手に入れた。しかし、いまだにそれをコントロールできないばかりか、ますますコントロールできない状況を深めている。
 かくして、地球人と同じように知性を発達させた多くの星で、その知性をコントロールできないまま多くの文明が滅んでいった。しかし、滅亡を回避した数少ない星もまたあった。それが現在生き残っている宇宙の知的生命体である。ところが、滅亡を回避したのはそれらの知的生命体が賢かったからではなく、滅亡に突入するような急速な発達をしなかったからであるとも推測される。例えば、産業革命から現代に至る地球の数百年の歴史を、その十倍の数千年で経過する星があったとすれば、おそらく世界大戦のような摩擦は回避し得たのではないかと思われる。しかし、その平和で緩慢な発展は、その反面に創造性の不足を伴っていたとも考えられる。また、緩慢な発展であるが故に、その発展の途中で宇宙の事故に遭遇し滅びていった星も多い。それが、地球人以外の知的生命体の少ない理由である。
 宇宙はまだこれから進化する可能性がある。その進化の方向は、意識による存在の克服である。その進化を進めるものは、創造的な知的生命体である。しかし、現在の知的生命体では十分にその役割を果たすことができない。そこに地球人が貢献する意味がある。
言葉の森
言葉の森の目標
 作文とは、世界の個性的認識を他者と共有するために文章で正確にわかりやすく美しく表現するための技術である。
 言葉の森の目標は五つある。
 第一は、子供たちの作文技術を向上させ、書く楽しみを育てることである。また、その土台として読む技術を向上させ読む楽しみを育てることである。
 第二は、作文を通して子供たちの個性・知性・感性・品性を育てることである。個性とは物事に創造的に取り組もうとすることである。知性とは物事を知的にとらえようとすることである。感性とは物事の美しい面を感じようとすることである。品性とは物事に人間的に対処しようとすることである。。
 第三は、作文を通して子供たちに生涯継続できる出会い・触れ合い・向上・創造の場を作ることである。
 第四は、日本および世界に新しい作文文化を作り出すことである。
 第五は、幸福・向上・創造・貢献を目的とした、目的性・主体性・公開性のある新しい教育を作り出すことである。
補足説明
 作文文化を作り出すとは、次のようなことである。ある一定の課題と項目に基づいて参加者が作文を書く。その作文のうち完成度の高いものは、次の新しい課題となる。つまり、あるテーマに基づいて、新しい構成、新しい題材、新しい表現、新しい主題を参加者が自由に創造し、そのテーマを発展させ、次の世代に引き継ぐという文化を作ることである。
 新しい教育を作り出すとは、次のようなことである。
 第一は、今日の無目的な又は受験だけを目的とした教育を批判し、人間の幸福、向上、創造、貢献という普遍的な目的と、それぞれの年代に応じた目的を明確にした教育を目指すことである。
 第二は、成績や合否という競争の状態に過剰に適応するかたちで生まれた受動的な教育を批判し、学ぶ喜びに立脚した主体性のある教育を目指すことである。これが最も多様な工夫を必要とするところである。
 第三は、閉鎖的で非効率的で権威主義的な教育を批判し、オープンで効率的で民主的な、情報技術を駆使した教育を目指すことである。
 この新しい教育を、限定された教室内の単なる教材の開発としてではなく、社会そのものの学校化を展望した、文化のシステムとして開発することである。
指導・運営・経営
 言葉の森の目標を実現するために力を入れる分野を、指導、運営、経営の三つに分けて考えることができる。
指導
 作文指導を充実させるための方法は五つある。
 第一は、読書力、字数力などの基礎力をつけることである。
 第二は、長文音読、短文暗唱などで規範を反復して模倣することである。
 第三は、投票や感想などで、生徒どうしの対話・交流を促進することである。
 第四は、これらの指導を項目化、数値化し、ビジュアルでゲーム性のあるものにすることである。
 第五は、講師、生徒、父母の主体的な参加を生かすことである。
運営
 教室運営の要は五つある。
 第一は、拡大は宣伝に比例するということである。
 第二は、継続は連絡に比例するということである。
 第三は、実力は自習に比例するということである。
 第四は、自信は賞賛や入選に比例するということである。
 第五は、確信は意義を知ることに比例するということである。
経営
 経営の重点は四つある。
 第一は、ネットを生かす。
 第二は、コストを削減する。
 第三は、利益を還元する。
 第四は、連絡を強化する。
経営の方向
 経営には三つの方向がある。未来に向けて、現在に向けて、過去に向けて、である。
 それらの方向は、資金と時間の投資の方向として考えることができる。
未来に向けての経営
 第一は、未来に向けての投資である。その内容は、(1)戦略策定、(2)研究開発、(3)対外交渉、である。
 未来に向けての時間を確保するために大事なことは、(A)計画の立案、(B)ネットによる自動化、(C)業務の委託である。
 このうち、業務の委託に関しては、<1>事務の委託、<2>指導(通信・通学)の委託、<3>ネット管理の委託の三つを進める必要がある。ネット管理の委託に関しては、システム管理者(PHP、MySQL、サーバー管理のできる人)を養成する必要がある。
現在に向けての経営
 第二の流れは、現在に向けての投資である。その内容は、(1)宣伝拡大、(2)コスト削減、(3)顧客満足度の向上、(4)社員満足度の向上、である。
宣伝拡大
 宣伝拡大については、三つの方向で進める。(A)ダイレクトメールの活用、(B)ネットとクチコミの活用(Google、Allaboutjapan、各種メルマガの宣伝など)、(C)オープンソース運動の展開。
 オープンソース運動の展開とは次のようなことである。言葉の森の教室運営とは独立して、オープンソース作文運動を行う。提供するコンテンツは、評価と指導の仕方(課題集・項目表・プログラム・参考作文など)である。このコンテンツを学校や塾が自由に利用できるようにすることによって作文文化の普及を図る。今後、作文小論文の需要が広がるにつれて、指導の進度や評価の方法について共通に了解できる尺度のあることが作文文化の普及を促進するからである。
 作文文化が普及すれば、それにリンクした形で言葉の森の教室も自然に発展する。
コスト削減
 コストの削減とは、資金と時間を効率よく運用することである。
 時間の効率化の方法は四つある。(1)省略化、(2)自主化、(3)機械化、(4)委託化、である。
 省略化とは、省略しても済むことはできるだけ省略することである。
 自主化とは、自主的にすれば済むことはできるだけ自主的にすることである。
 機械化とは、機械で自動化できることはできるだけ機械化することである。
 委託化とは、外部に委託した方が効率がよいものはできるだけ委託することである。
顧客満足度の向上
 顧客満足度の向上は、四つ分野ので考えられる。これらは、顧客の要求の四つの段階に対応している。
 第一は、役に立つこと(他社価格比)である。
 第二は、分かりやすいこと、やりにくくないことである。
 第三は、面白いことである。ここには様々な内容が含まれる。
 第四は、自分の役割が期待されていることである。
 この顧客満足度を向上させるために、メーリングリストと掲示板を利用し、顧客からの評価や提案を受け入れる場を作る必要がある。
 需要 小需要 大
供給 小(1)役に立つ(2)分かりやすい
供給 大(4)期待されている(3)面白い
社員満足度の向上
 社員満足度の向上は、四つの分野で考えられる。これらは、社員の要求の四つの段階に対応している。
 第一は、給与がいいこと(他社時間比)である。
 第二は、楽にできること、やりにくくないことである。
 第三は、面白いことである。
 第四は、ほかの人に喜んでもらえることである。
 この社員満足度を向上させるために、メーリングリストと掲示板を利用し、社員からの評価や提案を受け入れる場を作る必要がある。
 需要 小需要 大
供給 小(1)給与がいい(2)楽
供給 大(4)喜んでもらえる(3)面白い
過去に向けての経営
 第三の流れは、過去に向けての投資である。その内容は、(1)還元、(2)安全確保、(3)内部留保、である。
 社員還元には、年間利益の3割を充てる。還元の方法は、三つある。(1)期末の還元、(2)イベントとしての還元、(3)業務の委託としての還元、である。
 イベントとしての還元とは、社員旅行、社員運動会、宴会、各種コンクール、予測賞など各種の賞の設置、などの企画をすることである。
 業務の委託としての還元とは、さまざまなプロジェクトチームを立ち上げることである。例えば、題名検討委員会、表記ミスチェック委員会、ヒント作成委員会、課題作成委員会、表現の例収集委員会、昔話集作成委員会、図書リスト検討委員会、新任者アドバイス委員会、漫画作成委員会、表紙作成委員会などである。これらの委員会は、講師が希望に応じて参加・作成できるようにする。その委員会活動に自主的に費やした時間を仕事の時間として自己申告する形をとる。
 安全とは、主にセキュリティとバックアップの確保である。
2003年の方針
 2003年の重点は次のとおりである。
未来に向けての方針
(1)新教室を確保する。現在の港南台教室が15坪2部屋なので、20坪3部屋以上の教室に移転する。
(2)オープンソース作文運動を準備する。また出版化やマスコミ化などによって言葉の森の権威と知名度を高める。
(3)サーバー管理者を採用する。将来の幹部候補生を兼ねて、サーバー運用のできる人材を募集する。
(4)株式会社に取り組む準備をする。純資産が1千万円になった時点で株式会社に組織変更をする。
現在に向けての方針
(1)宣伝拡大を進める。昨年と同水準の宣伝で、同率の伸びを目標とする。(問125%、入150%、退150%)
(2)コストの削減を引き続き追求する。
(3)顧客満足度を向上させる。役に立ちわかりやすく面白い指導を目指し、生徒数が増えても満足度を低下させないようにする。
(4)社員満足度を向上させる。給与がよくて楽で面白い仕事を目指す。
過去に向けての方針
(1)社員への利益還元を行う。(期末還元、イベント還元、仕事還元)
(2)新しい社内イベントを企画する。
 第1弾は、春分の日の生徒数予測賞。3月21日の時点で生徒数が何人になっているか。一番近い予測をした人から順に金賞・銀賞・銅賞。ぴったり賞もあり(賞品総額2万円)。詳細は続報で。
(3)サーバーのセキュリティとバックアップを確実にする。首都圏以外に予備の新サーバーを設置する。
2004年の方針
情勢
(1)公立中学高校入試で実験的な試みとして作文小論文試験が増加しているが、評価の基準は不明確である。
(2)評価基準が不明確なまま、文章力評価の機関が登場しつつある。
(3)評価基準が不明確なまま、学習塾でも作文指導に力を入れつつある。
長期方針
(1)業務の拡大に伴い社員を採用する。(日本語能力必須、英語能力重要、サーバー運用技術できれば)
(2)株式会社化によって信用を拡大する。
(3)作文森林検定(日本語作文小論文検定)をスタートさせる。
短期方針
(1)インターネットのリンクを活用した宣伝拡大(問125%入55%退42%)で生徒803名講師67名を目指す。
(2)私立中学高校を主な対象に自動採点ソフトの販売を行い、年会費1000円10校5000名登録を目標にする。
(3)教材の充実(解説集の漫画化、授業のムービー化、題材集の作成)で顧客満足度の向上を図る。
内部方針
(1)社員への利益還元(期末3割還元、イベント還元、仕事還元)を行う。
(2)サーバーと教室の安全を確保する。
(3)プログラミングのレベルアップを図る。
解説
 長文です。読まなくていいです。(笑)

 現在の世界は、人類の進歩の可能性と崩壊の可能性が同時に加速度的に進行しつつある時代の中にある。
 米国による世界の軍事的安定化の試みは、局地的にはますます熱狂的な民族主義の抵抗を生み出しながらも、大局的には成功を収めつつある。
 米国が目指す理想の世界は、米国の国益のために編成された世界である。米国が、アラブの石油資源の支配のあとに関心をを向ける地域の筆頭はアジアである。とりわけ日本の工業力と経済力を米国のコントロール下に置くことが、米国の今後の重点目標となる。米国が現在最も恐れているものは、日本のマネーが米国に還流しなくなることである。マネーの裏づけがなくなれば米国は、国内の暴動によって崩壊する可能性を秘めている。中国、韓国、北朝鮮における反日感情は、日本のアジア志向を阻み、日本をアジアから切り離すことによって、米国のアジア政策を補強する役割を果たしている。
 世界の富は、ますます一極に偏りつつあり、集積された巨大な富はマネーゲームの中で非生産的に循環している。それらの富と無縁な多数の労働者は、ますます自身の労働力を切り売りせざるを得ず、ますます非人間的な生活を送らざるを得なくなっている。それは、貧困な階級の再生産と裕福な階級の再生産を生み出し、世界は固定化された身分制の時代に逆行しつつある。
 もちろん貧富の格差自体に問題があるのではない。機械的な平等によって弱者を支えることが強者の努力を無視することにつながるならば、そのような社会は活力を失う。しかし、格差には多くの人が常識として認める範囲が自ずからある。世界という100人の村で、わずか6人が60%もの富を持つ一方で20人が2%の富を分け合っている、又は15人が太りすぎている一方で20人が飢えておりそのうちの1人が死にそうである、という状態は自然の格差として認められるものではない。個々の地域で行き過ぎた平等があるとしても、世界全体として克服しなければならないのは、むしろ行き過ぎた不平等の方である。
 身分制社会への移行は、日本の社会でも確実に進行している。その先端を担っているものが現在の教育改革である。国民を所得階層に応じて早期に選別し、選別された者を身分制社会の少数のリーダーとして取り込む一方で、選別に漏れた者には仮想の敗者復活戦を行わせつつ、階層の微妙に違う一般国民として育成する社会システムを作ることが現在の教育改革の目標である。教育改革の初期にはまだかなり流動的な要素があるが、数世代のちには、固定化した身分制社会が完成するはずである。身分制社会の問題点は、少数のエリートというところにあるのではく、優れた少数者を選抜する前提として、国民の大多数の無知を不可避と考えている点にある。
 この教育改革に呼応して、政治改革も進行している。政治改革の眼目は小選挙区制による少数政党の排除である。教育改革と政治改革により、政治システムをコントロールしやすくしたあとに、経済改革を押し進め、日本の社会の最も価値ある生産部門を支配階層のコントロール下に置くというのが、現在の改革の延長上にあるシナリオである。
 歴史の教えるところによれば、社会は常にその時代の支配秩序を安定させる身分制社会を志向するベクトルの中に置かれている。そして、いったん成立した身分制社会は、支配階層の主観的な倫理観にも関わらず必然的に腐敗し社会の活力を低下させる。
 このようなシナリオと異なるもう一つの道は、自らの力と意志によって平等で活力のある日本社会を建設することである。日本は、武力によって他国と対峙するのではなく、政治的・経済的な工夫によって、外国の支配から自国を防衛しつつ、日本自身に理想の社会を作り、それを世界のモデルとすることによって世界に貢献することができる。そのために大事なことは、日本において、生産力の更なる発展、民主主義の広範な徹底、真の教育の普及を図ることである。身分制社会の前提とするものが国民の無知であるとすれば、民主主義社会の前提とするものは、真の教育によって啓発された国民の世論である。
 言葉の森の目指すものは、この、よりよい世界と日本を作るための未来の教育の普及の一端を担うことである。(長かった)
 未来の教育には四つの柱がある。第一は目的性である。人間の幸福・向上・創造・貢献を目指した教育を行うという目的を明確にした教育である。第二は、主体性である。教師や教材が主人公となるのではなく、学ぶ生徒自身が主体的に取り組む教育である。第三は、公開性である。あらゆる非民主的な閉鎖性を排除し、すべてを公開された民主主義の中で行うことである。第四は、先進性である。科学技術の最新の成果を生かした教育を行うことである。
 未来の教育は、大きく四つの分野に分けられる。第一は、創造性を育てるための哲学である。第二は、知性を向上させるための科学である。第三は、幸福に生きるための徳育及び体育である。第四は、社会に貢献するための工学である。哲学の主要科目は作文であり、科学の主要科目は古典であり、徳育体育の主要科目は心身の鍛練であり、工学の主要科目はプログラミングと発明である。
 現在の日本の教育を規定しているものは、大学入試を頂点とする受験教育である。作文指導は現在、教育の下流にある一つの細い水流に過ぎない。作文の評価基準を作ることは、この下流の支流をさかのぼり、新しい上流を確保することである。この上流の確保により、受験の流れの中に作文の流れを作り、その作文の流れを未来の教育の流れへと変えていくことが今後の展望である。具体的な例としては、作文指導の材料となる長文集や実例集を、勇気と知性と愛に満ちたもの中心に編集するだけでも、日本の文化を大きく変えていくことができる。
 作文指導を主要な守備範囲とする言葉の森とは別に、未来の教育評価という上流全体を展望する組織として、森林教育研究所を創設する。その森林教育研究所の作文評価部門が作文森林検定(日本語作文小論文検定)である。
 作文評価は、次のように展開する。
 第一は、コンピュータによる作文小論文の自動採点ソフトの普及である。主に中学高校の授業の中で使うソフトとして、初年度は生徒1人年会費1000円で10校5000人を登録することを目標にする。中学高校のほかに小学校高学年・個人・会社・大学なども販売の対象となる。日本の中学生高校生の1学年の生徒数が約100万人であると考えると、将来的には日本全国で500万人以上をカバーする市場が考えられる。しかし今後、言葉の森以外のソフトも登場する可能性があることを考えると、普及のためには評価をより洗練されたものにしていく必要がある。
 第二は、作文森林検定のスタートである。現在、文章能力を評価する機関はいくつかあるが、その中身のほとんどは単なる国語問題である。しかし、評価という上流を確保した者が指導という下流をコントロールすることができると考えると、言葉の森が指導の分野をカバーしつつ、作文森林検定が評価の分野をカバーするという仕組みを作ることが早急に必要となっている。
 第三は、自動採点ソフトの受験への応用である。これは日本語手書きOCRの性能が現在よりも進歩することが条件となるが、この進歩はある意味で時間の問題である。しかし、OCRソフトがそこまで進歩すれば、当然特許権を回避しつつ言葉の森のソフトを上回る性能を持つソフトも開発されるはずである。したがって、特許に依存するのではなく、作文森林検定を定着させることによって言葉の森の教育を普及させていく必要がある。
生徒数の推移
 数値は月末時点。生徒数は体験中も含む名目。
 2004年の予測の根拠は、問い合わせは前年同月比125%増、入会は問の55%、退会は問の42%。
(2003年は、問125%、入54%、退41%)
2002年 退 生徒数 グラフ
1月 67 21 18 3 292
2月 138 76 34 42 334
3月 129 56 46 10 344
4月 103 63 47 16 360
5月 81 46 36 10 370
6月 85 23 23 0 370
7月 92 47 24 23 393
8月 64 35 28 7 400
9月 63 32 38 -6 394
10月 83 50 26 24 418
11月 68 37 26 11 429
12月 64 33 27 6 435
2003年 退 生徒数 グラフ
1月 86 39 34 5 440
2月 164 66 42 24 464
3月 188 95 54 41 505
4月 83 48 48 0 505
5月 76 57 39 18 523
6月 81 40 40 0 523
7月 120 81 27 54 577
8月 77 46 41 5 582
9月 95 53 56 -3 579
10月 102 71 32 39 618
11月 88 44 56 -12 606
12月 86 53 53 0 606
2004年 問125% 入55% 退42% 生徒数 グラフ(予測)
1月 108 59 45 14 614
2月 205 113 86 27 641
3月 235 129 99 31 671
4月 104 57 44 13 685
5月 95 52 40 12 697
6月 101 56 43 13 710
7月 150 83 63 20 730
8月 96 53 40 13 742
9月 119 65 50 15 758
10月 128 70 54 17 774
11月 110 61 46 14 789
12月 108 59 45 14 803
事務処理上の注意事項
 これまでに既に連絡してあることですが、確認のために、重要なことを再度連絡します。
メールは毎日チェック
 メールは、毎日チェックしておいてください。生徒の移動や欠席などは原則としてメールで連絡します。ただし緊急の場合は電話で連絡します。
細かいことにも返信を
 連絡のメールが行ったときは、「わかりました」や「了解」などの簡単な返事でいいですから、できるだけこまめに返信しておいてください。
連絡の窓口は山田さん
 山田さんの方でメールを振り分けますので、事務局への一般的な連絡事項は山田さん<izumi@mori7.com>に出してください。ただし、滝澤さん<hyouka@mori7.com>、中根さん<nane@mori7.com>宛が確実なときは、そちらへ。
自宅にいない場合は、留守電にするか携帯の連絡先を
 自宅にいない場合に緊急の電話をする場合があります。留守電にしておくか、ファクス・携帯などの電話番号を事前に報告しておいてください。(現在、どういう登録がされているかは、「検索の坂」で調べられます)
日時指定のあるものは厳守
 日時の指定のあるものは、その日時を守ってください。
 清書の集約、調整湾の入力など、全員の提出が必要なものは、お仕事チェックを使ってそのつどメールで連絡します。
評価データの送信が遅れるときは事前に電話を
 評価データが締め切り時間に間に合わなくなりそうなときは、必ず事前に電話を入れてください。
評価データは、毎週、全員の分を
 作品の提出がない場合は0点評価で必ず入れておいてください。給与計算の資料となりますので漏れがないようにお願いします。
在籍していない週は、評価を入れない
 体験学習が終わって入会が始まるまで間隔がある週、転出や退会したあとの週などは、評価を入れないでください。給与計算の資料となるということと、他の先生と同じ週の評価がぶつかってしまうためです。
2回続けて生徒が不在になったときは連絡を
 2回続けて生徒が不在で連絡が取れなくなったときは、転出や退会や時間変更の連絡漏れの可能性があります。事務局に連絡してください。
清書には生徒コードを記入
 清書の作文の左上に生徒コードが入っていない場合は、先生の方で入れておいてください。生徒コードのない清書がこちらに送られると、だれのものかわからなくなります。
 清書はスキャナで読み込みます。その際、清書がホッチキスでとめてあったり、折りが強かったりすると、機械にうまく入りません。清書はできるだけ平らなまま郵送してください。
生徒の移動は、事後報告で
 生徒が曜日時間の移動を希望したり、入退会の連絡をしたりした場合、自分の担当時間の範囲で処理できるものは、その場で保護者に即答してください。事務局への連絡は事後報告でいいです。しかし、必ず速やかに報告しておいてください。
不明なことはこまめに確認
 わかりにくいことは、メール又は電話でこまめに聞いてください。
メーリングリストへの返信は宛先を確認して
 事務局からメーリングリストで連絡をした場合、そのメールにそのまま返信すると、全員に返信されます。個人的に返信したい場合は、宛先を変えて返信してください。
言葉の森新聞の連絡事項も読んでおく
 言葉の森新聞に、生徒向けの連絡事項を載せることがあります。
 先生の方でも、必ず目を通しておいてください。
父母からの要望には線引きをして対処
 父母からの要望で、通常の仕事の枠を超えて先生の負担が大きくなるものについては、お断りしておいてください。
 例としては、欠席の振り替えをする(欠席の振り替えは、生徒から教室に電話をしてもらうようにしています。先生と生徒で別の日時を約束すると互いに負担が大きくなるので)、ファクスで作文を受信する、学校に提出する感想文や受験用の志望理由書を臨時で見てもらう(これは、教室の方でサービスとして見ますから、そういう要望があればご連絡ください)、長時間に及ぶ個人的な相談をする、など。
 負担の大きい父母については、いったん事務局の方で担当するようにしますので、ご相談ください。
事務局宛のメールで参考になるものは紹介します
 事務局宛(滝沢・中根・山田など)に来た先生からのメールで、全体の役に立ちそうなものは、生徒名を匿名にしてメーリングリストで紹介します。
 紹介してほしくない場合は、その旨をメールに書いておいてください。
■損益予測 期は会計年度。数値は月末時点。生徒数は体験中も含む名目。金額の単位は千円。
年・期 生徒数 講師数 売上 売上原価 売上総利益 販売管理費 経常利益 当期損益 イベント
2003年15期 10月 618 43 4,681,104 2,033,707 2,647,397 2,632,122 15,275 0  
11月 606 45 4,849,921 1,723,568 3,126,353 2,111,994 1,014,359 0  
12月 606 46 5,205,020 1,954,441 3,250,579 2,457,411 793,168 0  
2004年15期1月 614 51 4,799,024 1,925,504 2,873,520 2,400,000 473,520 383,520 安全・宣伝
2月 641 53 5,007,320 2,009,078 2,998,242 2,400,000 598,242 981,762 教材充実
3月 671 56 5,246,099 2,104,883 3,141,216 2,400,000 741,216 1,722,978 カラー印刷
4月 685 57 5,351,518 2,147,180 3,204,338 2,400,000 804,338 2,527,316 森リン販売
5月 697 58 5,448,045 2,185,910 3,262,136 2,400,000 862,136 3,389,451 SE採用
6月 710 59 5,550,923 2,227,187 3,323,736 2,400,000 923,736 4,313,187  
7月 730 61 5,703,335 2,288,339 3,414,996 2,400,000 1,014,996 5,328,183 国際特許
8月 742 62 5,801,133 2,327,578 3,473,555 2,400,000 1,073,555 6,401,738  
9月 758 63 5,921,792 2,375,990 3,545,802 2,400,000 1,145,802 7,547,540 検定試験
2004年16期10月 774 65 6,051,343 2,427,970 3,623,373 2,400,000 1,223,373 8,770,913  
11月 789 66 6,163,111 2,472,814 3,690,297 2,400,000 1,290,297 10,061,210 組織変更
12月 803 67 6,272,340 2,516,640 3,755,700 2,400,000 1,355,700 11,416,910 心身着手
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