ヤマブキ2 の山 4 月 3 週
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○自由な題名
○ゴミ

○Masumi Kuwata(感) 英文のみのページ(翻訳用)
Masumi Kuwata, a pitcher for the Tokyo Giants, thought that women ate like birds. He didn't know that his mother and sister ate so little to save food for him and his younger brother. His family was poor, but he was loved by his grandmother, mother and sister. His father was not exactly a model father. He liked to drink, smoke, gamble, and even fight sometimes. But he had a love of baseball and worked very hard to make his first son, Masumi, a great baseball player.
"When I was in the fourth grade, my father bought me a glove as he promised, but it was a softball glove," Kuwata said. He was a little sad. But there was another surprise. "I was still happy just getting a glove, and I came running back home from school the next day. Then I found that my father pulled all the soft cotton out of the glove." Why? "Because in that way my father could hear the sound of the ball and find out that I was catching the ball rightly." Batting practice was the same. Kuwata's father threw the ball to him. If Kuwata didn't hit the ball, his father didn't catch it. Kuwata had to run after the ball again and again. Pitching practice was much good. Kuwata had to throw the ball to the right spot that his father showed. If not, his father didn't catch the ball and again Kuwata had to run and pick up the ball. "My father let it pass, if I missed by half an inch. Of course I got mad at him and wanted to throw the ball at his head," Kuwata said.
By the time Kuwata was in junior high school he had passed his father in baseball skills. "Now my father had to run around following the ball quickly to catch."
The Giants chose Kuwata as their number one draft pick in 1985, and nine years later he has become one of the best pitchers in Japanese baseball.
When he was 17 and visiting Tokyo he walked into a famous boutique named Versace. The shop was filled with fancy clothes, and he could feel that they were very expensive. He thought, "Well if I become rich and famous, I'll be back." Two years later Kuwata went back there with 100,000 in his pocket. He was sure that he could buy some expensive clothes this time. He picked three shirts and went to the cashier. She said, "That will be 840,000 please." Kuwata turned pale. "I thought each shirt cost 28,000. Even that was expensive for a rookie. I couldn't imagine that there was a shirt that cost 280,000 anywhere in the world. I found that I missed a zero," Kuwata said with a laugh.
Since then he has decided that when he wins an important game or reaches a certain goal, he will give himself a present by shopping at the boutique. He went back to Versace a few times in 1994. Once was when he recorded his 100th win, and another time was when the Giants won the Japan Series.

★「ことば」ということに関連して(感)
 【1】「ことば」ということに関連して、しゃべるということを考えてみたいと思います。ぼくは、自分のしゃべりかたにはひとつの特徴がある、と自分で思います。ぼくの両親は九州の出身で、その両親に育てられた人間として、当然のことながら九州の方言のイントネーションが体にしみついてしまっているわけです。
 【2】最初、九州から東京に出てきて、東京の人たちのかろやかなおしゃべりをきいた耳には、自分のしゃべりかたがじつに不細工で野暮ったく、不思議で野蛮なものに感じられて、一生懸命、勉強して自分のアクセントをなおしたり、あるいは東京ふうのイントネーションをまねして、少しでも洗練させよう、などと考えた時代もありました。
 【3】しかし、あるときから、面倒くさいことばでいいますと、アイデンティティといいますか、自分がどこに属しているか、自分の足がどこの大地を踏まえて立っているか、自分がどこの人間であるか、などということを自分でしっかりと確認するのは非常に大事なことで、【4】そのためには自分のしゃべりかたとか、ことばとか、そういうものが不可欠の要素である、と考えるようになってきたのです。
 生前の寺山修二も、ああ彼は津軽の人なんだ、としみじみと思わせるようなしゃべりかたをする人でしたが、【5】ぼくも九州にルーツを持つ人間であるということが、じつは自分にとってとても大事なことなのではないか、と考えるようになりました。
 「方言は国の手形」なんていう表現がむかしはあったそうです。【6】むしろ、私たちが付け焼き刃の共通語で、都会ふうのことばで気のきいたことをぺらぺらとしゃべるよりも、 何千年にもわたってそこで営まれてきた人間の生活をずっとしょいこんできている自分の「ことば」を大切にしなければいけないのではないか。【7】自分の訛りのつよいしゃべりかたは、恥ずかしいことは恥ずかしいのですが、でもやっぱり、その人間の個性として、矯(た)めたり曲げたりせずむしろ大事に残しておいたほうがいいのではないか、と考えるようになりました。
 【8】ぼくの両親は、父も母も両方とも師範学校を出て、学校の教師をしていた人間なのですが、敗戦後、外地から引き掲(あ)げてきたこともあって、遺産らしきものはなにも残してもらえませんでした。べつに財産を残してもらいたいなどという気持ちはさらさらないので∵すが、【9】でも、父母の思い出になる形見の品のひとつぐらいは、と、ときおり思うこともあります。(中略)
 ただ唯一、自分がしゃべっているときに、ふっと、あ、そういえば、たしかに母はこんなふうな物の言いかたをしていたな、父親はこんなふうにしゃべっていたな、と感じることがあります。【0】
 たとえば、いまの日本語ではあまり区別をしませんが、九州や西日本には「お」という発音と「を」という発音をわりとはっきり区別する習慣がありました。あるいは「かい」と「くゎい」を区別して言ったりする。国会(こっくわい)を開会(かいくわい)する、なんて言います。学校を休む、の「を」と、お父さん、の「お」とをはっきり区別する。ぼくのなかにはいまでもそういうことばづかいが残っていて、ときどき九州とか山口県などへ行ってそういうしゃべりかたをするご老人にあったりすると、なんとはなしにほっとなつかしい感じがしたりします。
 物事をできるだけシンプルにしていくことは、近代化を進めていく上で大事なことです。しかし、日本語の音というものは、かつてはもっと複雑で多様であった。そのことを考えると、あまり合理主義ということだけを考えて日本語をやせさせていくのはどうかな、と思ったりすることもあります。
 いずれにしても、ぼくにとっては「ことば」というものが父や母や、あるいはもっともっと前の自分の血のつながった人たちから、ぼくに託された大切な宝物という気がしてなりません。還暦をすぎると人間は子供に還るといいますが、むかしふうのしゃべりかたが少しずつ自分のなかで色濃くつよくよみがえってくるのを最近は感じます。物の好みもそうですし、食べ物もそうです。
 そういうことをひっくるめて、自分が個人として、ひとりで生きているということだけではなくて、自分のなかにたくさんの人びとの「命」が重なって存在している。百年とか千年とか、あるいは三千年とか、そういう時代から、この日本列島の一画に住み着いて、∵そこで生活してきた人びとの、目に見えない記憶、あるいは息づかい、そういうものが、ぼく自身の体のなかに伝わっている。こういうことを感じられるのは自分流の、地方性のあることばを自分がまだ所有しているからなのかもしれない、と思います。

(五木寛之『大河の一滴』による。 表記等を改めたところがある)