プラタナス2 の山 10 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○生命が大事だとか(感)
 【1】生命が大事だとか、基本的人権は尊重すべきだとか、平和は守らなければならないとか、国は保持しなければならないとか、人類は進歩しなければならないといった様々な価値観を君たちは抱いているだろうが、君たちが当り前だと思っている価値判断自体が、すべてある種のイデオロギーであり、また思想でもある。【2】けれども、君たちはそれが思想であることを意識していない。意識せずにまるでそういう価値観を自分の頭で考えだしたように思い込み、思い込んだ上で信じこんでいる、のだ。【3】これは知的というには程遠い状態ではないか? これまでの思想の体系なり、その論点を知ることは、自分が抱いてしまっている価値観を相対化するとともに、その価値観が成立している論理の仕組みや、その価値が本質的にめざしているのは何なのか、という事が理解できるだろう。
 【4】いかにも当世風な論法ではあるけれど、このような具合に諭してやる事はできるだろうし、それは現在の大学教育においても通用する理屈ではあり、多少とも明敏な学生はその意味を理解するだろうが、この答えを組み立ててみても自分として納得しきれない部分があるのもまた事実であった。【5】敏い者は敏い者なりに理解するだろうが、それはそれだけの事ではないか。あるいは今私の展開したような観点から、思想を語る事、知る事に魅力を感じ、そうした営みをはじめる人間もいるかもしれない。【6】けれどもそれははたして思想なのか。巧みに売り込まれた、処方箋じみたものにすぎないのではないか。
 そのように考えたのはその二、三日前に、若い人から送られてきた本の冒頭のエピソードが気になっていたからである。【7】その話は著作の内容とはあまり関係がないのだが、大学で文学の研究職にある筆者が、若い官僚に遺伝子操作なり超伝導なりといった技術に進歩をもたらすのが「研究」ということであって、文学の「研究」をいくらしても、文学の進歩に貢献をしないのならばそれは「研究」という名に値しないのではないか、と酒場で絡まれたというのである(『モダンの近似値』阿部公彦)。【8】若い役人の発言もまた、反知的であるという点については、私のキャンパスの学生の発言と同様である。と同時に学生の発言の背景にあるものを、ある程∵度鮮やかに見せてくれている。【9】現在の学問なり「研究」なりといった行為が持っている姿、イメージ、あるいはより正確にいえばダイナミズムというか生態といったものから見て、思想なり文学なりといったものが、どのようなものに見えるのか、ということだ。【0】特許の申請数や、論文の被引用数、企業や財団からの資金導入の高や内外の学会での発表回数が学問の率直な尺度となったのは、もう既にかなり前のことである。こうした趨勢自体は、無害であるとはいえないまでも、まだ選択的なものであり、「思想」であろうと、「文学研究」であろうと、かくある尺度の中で競争をしてもよいし、あるいはそこから遠く身を退きつつ孤塁を守ることは、多少の困難はともなっても不可能ではなかった。
 遺伝子とか、超伝導にかかわるようなことが研究ではないか、という小役人の言葉は、これまでの趨勢を越えた変化を示唆している。国立・私立を問わぬ大学改革の趨勢は、算定され得る成果を教員や大学院生により強く求めるようになっており、超然としている事の困難はいや増しているが、本当の厄介さはそんなところにはない。大学の教員でいたいものは算定できるような成果をあげるように勤めればよいし、嫌ならばやめればいいだけの話だ。より本質的な変化は、大学という領域を大きく越えたところから到来している。
 成果は世に氾濫している。「成果」というのは、学会の発表数とか、資金導入実績などといった専門家の枠内での牧歌的な指標とはまったく無縁の、もっと具体的であり、現実的であり、日常的な世界における「成果」である。役人の云う遺伝子とか、超伝導といった目に見える、新聞の見出しになるような「成果」が次々に現れている。現在は科学技術の飛躍期間にあるらしく、多種多様な成果が毎日飛び込んでくる。厄介というのは、というより興味深いのは、この成果が日常生活に還元される速度が加速されていることだ。雑多な開発なり何なりが瞬時に製品として現れる、その登場∵が例えば遺伝子操作食品の是非というような形で社会的な波紋を呼ぶ。この潮流においてもっとも身近なものを挙げれば携帯電話やノート・パソコンといった情報機器になるだろう。こうした機器が、進歩していく速度、いろいろな機能なり何なりを備えていく速さと広さは尋常なものではない。もう、これ以上の機能はいらないだろう、と息をつく間もなく、新奇な機能が発明をされて、しかも浸透していくのだ。私たちの生活自体が、この進歩というか製品開発と即応するような形で発展していっており、生活の展望も、人生の設計も、日々の活計も開発のもたらす変化とは無縁ではいられない。とするならばこの開発のリズム、あるいはテンポが私たちの生活のみならず、知識、認識の基本になっているのではないか。役人の言葉の底流には、常に自らを追い越しつづけることを宿命づけられてきた科学技術のますます加速すると同時に顕在的になっていくその現れ方が、私たちの意識を決定し、その宿命にあらゆる認識が奉仕するように強制されると共に義務づけられている現実が運動しているのだろう。
 思想は、何になるのか、という問いは、この蠢動の上で発せられた。情報機器にしろ、遺伝子工学にしろ、科学的な開発、研究がめざましい成果を日々あげていると伝えられ、伝えられているだけでなく実際に製品の普及という形で進歩あるいは変化として知識なり認識なりを体験しているその現実の中では、思想は何ものでもないか、あるいは携帯電話と同様の機能を備えたものになるかのどちらかしかあるまい。

(福田和也『イデオロギーズ』による)