ピラカンサ2 の山 9 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

○近年の思想界において
 【1】近年の思想界において著しく目に立つのは、知識の客観性というものが重んぜられなくなったことであると思う。始から或目的のために、成心を以て組み立てられたような議論が多い。【2】従って他の論説、特に自己の考に反する論説を十分に理解し、しかる後これを是非するというのではなくして、徒(いたず)らに他の論説の一端を捉えてこれを非議するに過ぎない、自己批評というものは極めて乏しい。【3】単なる独断的信念とか、他の学説を丸呑みにしたものが多い。私は或動物学者から聞いたことであるが、ダーウィンの『種の起原』という書物は極めて読みづらいものである。【4】その故はダーウィンという人は、自己の主張に反したような例を非常に沢山挙げる。読み行く中(うち)にダーウィン自身の主張が分らなくなる位だというのである。私はこういう話を聞いて、非常にダーウィンという人に敬服した。【5】苟も学問に従事するものは、こういう心掛(がけ)がなければならぬ、こういう誠実さがなければならぬ。知識の客観性といっても、私は或一時代に真理と考えられたものが、永遠不変だというのではない。【6】知識の客観性というのは、そういうことを意味するのではない。何千年来自明の真理と考えられたユークリッドの公理すら、自明でなくなった。しかしそれは単に変ったのではない。【7】ユークリッド幾何学が一層一般的な幾何学の一つの場合となったのである。今日の新物理学に対して、ニュートンの物理学でもそうである。数学は数学として、物理学は物理学として、それ自身の客観性を有(も)っているのである。【8】哲学とか精神科学とかいうものは、数学とか自然科学という如(ごと)きものと異って、各時代の社会的構造に支配せられるということは免れないであろう。しかしそれでも、それらのものも、単に変ずるものではない。【9】単にその時代の或目的以外に、何らの意味を有(も)たないものではない。それが学問的真理と考えられるかぎり、それぞれの立場において永遠なるものに触れるということがなければならない。【0】如何なる時代に如何なる哲学的学問が発展したかということは、歴史的・社会的に説明せられるかも知らない。しかしその内容は単なる物質的存在から説明せられる∵のではない。すべて歴史的・社会的存在と考えられるものは、如何に物質的と考えられるものであっても、それは精神的内容を有(も)ったものでなければならない、即ち表現的でなければならない。かかるものの内容が永遠化せられるだけ、それだけ文化というものが成立するのである。下部構造の変ずるに従って上部構造が変じ行くとしても、その意義内容は単に経済的構造の意義内容から説明することはできない。そしてその意義内容の独自性というものなくして、文化的存在というものはない。文化内容というものがそれ自身の独自性を有せないで、単なる階級的イデオロギーに過ぎないとするならば、文化的存在というものはないというと同様でなければならない。意識というものが単に映すものであって、それ自身に何らの独自性というものがないとすれば、要するに、それは無と択ぶ所はない、人間は単に身体というものに帰するの外はない。これに反し物質的なるものから意識的なるものが出ると考えるならば、物質と考えられるものは既にそれを生む性質を有(も)ったものでなければならぬ。単に自然科学的に考えられる物質というものから意識が出るとはいわれない。弁証法的物質というなら、弁証法的物質とは如何なるものなるかが根柢的に究明せられねばならない。脳髄というものが意識の基と考えられるには、その脳髄というものが単なる物質的実在という如(ごと)きものではなくして、既に自己自身を表現的に限定するものでなければならない、歴史的事物の性質を有(も)ったものでなければならない。しかしてそういう意味の脳髄というものを考えるというのは、既に実在そのものに意識の起源的なものを認めることでなければならない。
 政治上の目的のために学問が作られるのでなく、学問はいつでも批評的指導的立場に立つものでなければならない。しかして学問がそういう役目を果すには、学問というものは何処までも客観的ということを理想とせなければならない、何処までも深い広い理論的基礎の上に立てられなければならない。

(西田幾多郎()「知識の客観性」)