ピラカンサ2 の山 9 月 3 週
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○Many school teachers(感) 英文のみのページ(翻訳用)
Many school teachers point out that the more children enjoy reading, the more skilled they become in reading. And literature, they say, is most useful for developing childrens reading skills. It should be welcomed that more and more teachers use literature for utilizing skills in joyful, purposeful reading. Care must be taken, however, to make certain that all literature falls within the reading levels of the children for whom it is provided. Although children will read different things at different levels, the frustrating experience of trying to read literature that is too hard may discourage a child from making attempts to read at all. Any literature that interests children, but that is too difficult for them to read, should be read or told to them by the teacher.
The children's interest contributes a great deal to fluency and speed in reading. Even word-by-word readers forget to loiter over each symbol when they become absorbed in a story. Instead, such readers race over the pages to find what will happen next, and in their eagerness they take in whole meaningful groups of words. Folktales are particularly valuable for reluctant readers. Repetition of phrases, simplicity of characterization and swiftness of plot make for easy reading. Also, the simple conversation in folktales helps to bridge the gap between oral reading and silent reading, a gap that the inexperienced reader often finds difficult to bridge.
Thus, literature serves children in many valuable ways. Many people today, realizing the essential worth of literature in this mechanized and troubled era of history, are combining their efforts to make the stimulating influences of literature more widely available. Educators are urging more abundant supplies of literature for classrooms and more skilful use of literature by teachers. Publishers, trained librarians, literary people, and childhood specialists are cooperating wholeheartedly in advancing and spreading literary values. All these efforts are evidence of a growing realization of the unlimited value of literature.

★地球規模で自然環境が(感)
 【1】地球規模で自然環境が危機に瀕している現代にあって、地球環境問題は、国境を超えた広範な地域で考えられねばならない問題である。その原因は個人や企業、街や地域などの環境負荷の総和から成り立っている。【2】つまりすべての自然環境問題には人間が関与しているのであって、その背景には環境の保全と育成を怠った人間優先の姿勢がうかがわれる。この反省のもとに、近年とくに地球の生態系に目を向けた取り組みが急速な勢いで高まりをみせている。
 【3】人間中心主義による環境破壊を反省し、「他者」としての自然を修復し育てるための活動が、現在のエコ活動の本論となっている。そしてここでもまた人類総体として、グローバルな見地から巨大な貢献心が発動され、地球規模での自然環境を「他者」とする種々な取り組みが進められている。【4】ところが現実に進行しているエコ活動のなかには、本来の貢献活動から考えると意味を異にする内容があるような気がしてならない。貢献心の視点からこれらの問題点を考えてみよう。
 【5】たとえば有限な資源である化石資源(石油や石炭)を守ることは持続的な経済にとって大切なことである。他方、代替エネルギーとして開発が進められている原子力発電には、環境上の深刻な問題が取り沙汰されている。【6】またオゾン層を破壊する原因として、フロンガスの影響がクローズアップされ、さらに新たに開発された物質については、もっと強い温室効果が囁かれている。
 【7】それだけではない。人口爆発が指摘されるアフリカや東南アジア地域の食糧確保の問題は深刻だ。最大の食糧輸出国である米国では世界の食糧事情を改善させるという名目で、無制限な大規模農法を行った結果、地下水脈を枯渇させて、土壌の悪化に拍車をかけてしまった。【8】たとえば米国中部にある広大なプレイリー地域の生態系に起きた異変は、大規模農法による弊害とされ、枯渇してしまった水脈を修復するには何万年という自然放置期間が必要とさ∵れるといわれている。
 【9】これらの例に見るように、人間が自然を利用して何らかの問題に取り組もうとして開発した方法が、次々と新たな自然破壊をもたらすといった悪循環が指摘されているのである。
 【0】そこには人間中心の開発主義があった。つまり人間が必要とする活動によって自然環境がダメージを受け、その結果、不都合なことが起きたから、今度はエコ活動を進めて、人間にとって都合のよいものに開発していこうとする考え方である。
 さて、ここで見えてくるエコ活動には、私が言う貢献心はまったく示されていない。なぜなら人間が「自然」のためにとの名目で、実は「自分」のために行う行為に、他者である自然に向けての「貢献」の意識は欠落しているからだ。その実態はむしろ「エコ」ではなく「エゴ」である。
 たとえ手前勝手でも、自然環境について考えたり、またみずみずしい自然を回復したいと願う自然な動機は間違ってはいない。ただしそんな純粋な動機でさえ、あまりにも特定の自然に集中していると、ふと気がつくと自分勝手なものに陥って、自然を破壊してしまう方向に向かってしまう。このような動きに私たちは監視の目を怠ってはならない。そのため現在のエコ活動にある発想をもう一度検証してみる必要性はないだろうか。
 現在、G7や環境サミットなど、世界のトップが集まって提起されるグローバルな宣言についても、やはり「これからは人間中心の発想で問題を解決する」といった方向性が示されているが、私にはそう簡単には受け止めがたい。なぜなら、そこには依然として「人間中心」といった発想に含まれる「開発至上主義」的なニュアンスに歯止めがかけられてはいないように思われるからだ。実は、この「人間中心主義」こそ、人類を「開発至上主義」に向かわせたそのものの原因となったからである。

(滝久雄「貢献する気持ち」による)