ピラカンサ2 の山 8 月 3 週
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○自由な題名


○In an age when reading(感) 英文のみのページ(翻訳用)
In an age when reading for most people is a nonintellectual pleasure, and when at the same time there is a constant stream of books falling from the publishers' presses, a book has only to be barely readable once in order to serve its purpose. It need not be reread, nor does it need to lie in the mind as a source of future pleasure. It thus ceases to matter whether a book is memorable; and when literature is not memorable it is nothing. Total illiterates who depend on folk literature for their pleasures of the imagination are thus much better off than semiliterates who read forgettable novels merely because they are available. Oral literature must lie in the mind, for otherwise it would be forgotten; but most modern written literature is expected to he forgotten, in order to make way of the next season's list. That is one reason why we feel that modern books are different in kind from ”the classics.
The fact is that literacy itself is a means and not an end, and it can be put to uses which may be good, bad, or indifferent. A book may be read for a great variety of reasons. But the reason for which a book is read determines the way it is read and to so1me extent the degree of illumination it is possible to get from it. All books should, of course, be read for pleasure, but ”pleasure” is not a helpful term here, for it has so many meanings. There are many kinds of pleasure, intellectua1 and nonintellectual, and even many kinds of intellectual pleasures. The appreciation of literature involves a very special kind of intellectual pleasure, in which the intellectual element is not always directly manifested and where the faculty which critics have come to call the imagination plays a complicated and not always definable part. The ability to read does not by itself guarantee the ability to enjoy that kind of pleasure; it has, in fact, no particular connection with it at all except that it provides the technique for communicating it to those in a position to receive it. Like patriotism, literacy is not enough.

★世界の最新ニュースが(感)
 【1】「世界の最新ニュースがリアルタイムであなたのパソコンのデスクトップに」という広告を見た。もう時代はそんなところまできたのか、と感心すると同時に、世界中の情報がリアルタイムで流れこんできたら、私の神経は、あっという間に限界を超えて発狂状態に入るのでは、と考えてしまった。
 【2】現代のデジタルネットワーク社会は、光速の伝達速度をめざして同時性を世界全体に押し広げようとしている。情報が、即時的に遅延なく伝達されることこそ、電脳社会の見えざる目標なのかもしれない。【3】私たちの心性も知らず知らずのうちに、速度礼賛者に変容していく。
 時間のかかる手紙に代わって、瞬時に反応する電子メールを使うこと。【4】書店に足を運ぶ代わりに、インターネット上の電子書店で、検索と注文を瞬時に完了させてしまうこと。分厚い研究書や古典をじっくり読む代わりに、電子テキストでキーワード検索しながら、必要な個所を瞬時に表示させること。【5】思いついたとたんに、相手の携帯電話に気軽に接続して話してしまうこと……。つまり総じて、私たちは、欲した時に瞬時に世界とコンタクトをとり、行動していることになる。
 【6】ところで、情報といっても、その速度が情報の価値に大きくかかわるものと、そうではないものの二種類があることを忘れてはならない。
 【7】例えば、台風やそれに伴う交通の混乱の情報は、タイムラグがなければないほど価値が高く、速度はこの種の情報にとっては本質的である。そして、昨日出された台風情報は、今日の我々には何の価値もない。
 【8】これに対して、文学や思想の古典的資料などは、伝達速度や時間的経過で価値が大きく変化することはない。
 この両者はもちろん、従来は情報と知識という形で明確に区別されてきたものである。【9】しかし、あらゆるものが情報化され、ネットワーク上に蓄積・開示されてしまう今日にあっては、すべて情報として処理され、この区別は忘却のかなたに追いやられてしまったようだ。
 【0】私の個人的な体験にすぎないかもしれないが、自分との対話をじっくりと重ねながら学び味わったものは、いわば体得されたもの∵として、私に染み着いているが、早わかり方式で仕入れた情報は、私になんの痕跡も残さず、あっという間に消え去ってしまう。三日で覚えた情報は、三日で消え去ってしまうのである。
 情報の速度こそが絶対の価値となっている現代においては私たちは成熟していく存在であるよりは、瞬間的な反応マシン、つまり、情報が入りこんでは流れ出ていく一結節点にすぎない存在になっていくように感じられる。
 ハイデガー(ドイツの哲学者)は時間の本質を「時熟」、つまり「今」の連続としてではなく、時間性の成熟としてとらえた(『存在と時間』)。逡巡すること、反省すること、あるいは、熟考、熟練などは、情報のインプットに対して、きわめて膨大で無駄に思われるタイムラグののちに、はじめてアウトプットが生じるたぐいの営みである。これらは瞬間的で切れ切れの今の積み重ねではなく、むしろ時間の成熟によるものだ。
 時間がかかる、時間の遅延があることを、すべてタイムラグとして否定的にとらえたり、スピーディーであることが、私たちの豊かさを保証すると考えるならば、それは根本的な錯誤であるように思われる。無駄な時間を省いて、残った時間で豊かな生活を、と喧伝されながら、その残った時間もすべて無駄な時間を省くという心性に汚染され、「時熟」を味わえないからだ。結局、私たちの生活はテンポ全体があわただしく加速しているだけなのである。
 私たちが便利さや速度の幻惑には徹底的に弱い存在であること、しかし、それにもかかわらず、それに身をゆだねることは、私たちを徹底的にやせ細った刹那的存在にしてしまうこと。このことへの自覚は、今日においては決定的に重要であろう。
 現代の情報・消費・社会システム全体が、便利さと速さを「豊かさ」と称し、それに向けて邁進せざるをえない以上、私たちは、常に情報反応マシン、消費マシンに変形されつつある存在である。だとすれば、「時熟」や成熟の契機は、外から与えられることを求めるのではなく、私たち自身の内側に自覚的に求めていくほかはないのかもしれない。
(黒崎政男「電脳社会で自己を保つ」による)