ピラカンサ の山 8 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

○何について、責任が
 何について、責任が問題となるのか? まず何よりも、行為にかんして、である。しかも、みずから何かを行うという行為だけでなく、何事かをしないという無為も、また他人が何かをするのを助ける・やめさせる行為をもふくめ、まずは行為にかんしてこそ、責任が問題となる。
 もちろん、行為・無為にかんして「他のようにはできなかった?」と問われるとき、その問は、その人の心理的・人格的な特性や、そのときの思考・感情にまで及ぶ。しかし、繰り返せば、そうした事柄にまで責任の問題が及ぶのは、行為のありようが問われるからである。そのかぎりで、まずもって行為に焦点を合わせるのは不当なことではない。
 では、誰が責任を負うのか?「行為した個人が」という答は、自明のようにも思える。しかし事態は、つねにそう単純であるとはかぎらない。なるほど、行為するのは、個人である。少なくとも行為は、意味を帯びた身体のふるまいにおいて遂行されるかぎり、身体なき存在は、行為できない。しかし、だからと言って、行為の責任を負うのは、当の個人にかぎられる、ということにはならない。
 このことが如実に問題となるのは、会社や国家といった組織が「集合的な行為」を遂行するばあいである。しかし、会社や国家は、個人が行為するのと同じ仕方で、行為するのではない。ここでは、もっぱら個人に焦点を合わせて、行為の責任を考えてみたい。
 個人が行為するときには、何の前提もなしに、本人にもわけ(理由)も分からぬまま、体が動くのではない。その人は、その人なりに状況を認知し、自分の欲求や、まわりからの期待や、自分の願望にもとづいて決断し、意図的に体を動かして、行為している。何気ないささいな行為においてさえ、状況の認知・周囲の人たちの∵抱いている予期・期待、当人の中長期の計画などなど、多くのことが前提となっている。
 もし、状況認知・周囲からの期待・本人の計画といった行為の前提のいっさいが、その個人に由来し、その人によって自由に制御できるのであれば、そのばあいには、行為にかかわる責任は、すべてその人にある、ということになろう。しかし、実際には、そうではない。状況認知・期待・欲求などなどといった行為の前提の多くは、まわりの人たちとの関係によって生じている。したがって、誤った情報を与えられたまま、あるいは過剰な期待を負わされたまま、その人が決断したときには、「本人がそう選択したのだから、彼・彼女に全責任がある」とは言えない。そう決めつけるのは、実態とずれており、ばあいによっては苛酷である。
 もちろん、だからといって、「本人が編み込まれていた関係が悪かった、環境が悪かった」といった責任転嫁が、つねに正当化されるわけではない。催眠術にかけられていたとか、舞踏病で体が勝手に動いたとでもいうのでないかぎり、私たちは、自分が行為した理由(わけ)を問われる。思わず、あるいは何気なく行為してしまって、自分でも理由を説明できないとしても、舞踏病で体が勝手に動いてしまったのでもないかぎり、私たちは、自分の行為に責任を負っている。しかし、もし誤った情報を与えられて、あるいは過大な期待を負わされて、あるいは脅迫されて、そう行為することを選んだのであれば、誤った情報を与えた者、過大な期待を負わせたり脅迫した者にも、その責任があるはずである。

(大庭健『「責任」ってなに?』による。一部改変)