ピラカンサ の山 7 月 4 週
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○自由な題名

★清書(せいしょ)

○一般に「現代の精神的状況における
 一般に「現代の精神的状況における自我の問題」云々という場合、そこにはあるべき「自我」についての了解がすでにあり、それが歪められ、しかも今日では失われているという見地が前提に含まれている。しかしそうして歪みや喪失を、かりにわれわれが日本人とその社会について倫理的に糾弾してもあまり有意味ではないだろう。なぜならもともと「自我」概念そのものが、すぐれて近代哲学の産物であり、その哲学とはソクラテスや、ルターや、フランス革命などを経てきた西洋の伝統だからである。
 またそれだけに、「自我の形骸化」は西洋人にとっては深刻に受けとめられた。「大衆」をキーワードとしたヤスパースの状況判断なども、単に冷徹な時代分析というようなものではなく、あるべき「自我」の喪失への危機感に裏打ちされた切実なものであった。だとすれば、そうした思想伝統を持たない日本人の場合に、「自我」の「喪失」云々を言うことは本来できないはずであろう。
 ただ、「自我」概念が輸入された明治期には、本来のあるべき自己に目覚めた理想的な自我という観念は、単なる浪漫主義に尽きるものではなく、それにはそれなりのリアリティーがあった。旧来の封建制度や、その因習から生じるさまざまな抑圧に対する反抗を通じて「自我」が強調されたからである。すなわち、克服されるべき過去の遺物への「反」として強調された。だが、今日のわれわれの社会ではそうした抑圧も因習も多くは姿を消し、形だけが受容された「自我」概念も、それに伴い中身は急速に曖昧かつ稀薄になってきている。そう感じるのは私だけであろうか。
 西洋近代の啓蒙思想、科学、民主主義等を受容した後の、とくに戦後の日本で教育されたわれわれは、「自我」を確立すべきだとか、他人も自分と同じようにそれぞれの自我を持っているに違いないと容易に信じてしまう。学校教育の場でも「主体性のある人間」が目標に掲げられる。「自らの意志で考え、行動を選択し、決定す∵る」生き方こそ、あるべき「自我」の姿だとされる。そこから自由と責任の表裏一体化が強く示唆される。
 だがそうしようとすると、われわれは現実の社会や人間関係のなかでそのつど挫折し、当惑してしまう。連続的でもなく主体的でもなく合理的でもないような自我たちが一般的なのであり、そしてまた自分もその一人だからである。
 そもそも通常の生活では、「自らの意志で考え、行動を選択し、決定する」ような場面は実際のところかなり稀ではないだろうか。多くの選択や決定は周囲の個々の状況のなかで、異なった要因の複雑なからみあいの結果として生じるからだ。
 しかしわれわれは他方では、自我の同一性や主体性を自分にも他人にも要求してやまない。信頼していた人がもし従来の言動を急に変えると、われわれは多少とも当惑する。喜ぶ人はまずいない。あげくは裏切られたと憤慨するかもしれない。それは、自我は西洋の「実体」概念のように、持続的、同一的なものであるという、ほとんど信仰にも近い前提が、われわれの日常の意識にすでに染み込んでいるからだ。かりに環境や性質がある程度変化しても、人格はいちいち変わらないだろうと予想する。こうして人格の不変は倫理的に賞賛されるべき事柄であるのに対し、人格の変化は倫理的に悪であるかのように非難される。(中略)
 そこで、いっそ前提を転換して、むしろ、西洋でいわれるような意味での不変の「自我」など、少なくとも日本人の社会では誰も始めから持っていなかったし、持つと期待してもならない、と考えることはできないだろうか。「主体」的自我という啓蒙の信仰を止めたほうが、われわれは誤解や絶望に陥らず、したがって無用の摩擦や疲労を起こさずに済むのではないだろうか。

(酒井潔『自我の哲学史』による)