ワタスゲ の山 6 月 3 週
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○自由な題名
○ペット

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★要するに、一九八〇年代に(感)
 【1】要するに、一九八〇年代に入って一挙に噴出したコンピュータ・コミュニケーション技術の発展と普及は、連続的に進行していた技術が人々の欲求変化によって方向を変え、予想外の分野においても爆発的に広まりだした現象なのだ。【2】そしてそれを生み出したのは、七〇年代に浸透した資源有限感によって生じた人々の欲求の変化、つまり美意識と倫理観の変化だといえる。
 【3】この点において、目下進行中のコンピュータ・コミュニケーションを中心とする技術進歩、一九世紀末から二〇世紀の前半にかけて操り返された内燃機関や電気技術、化学工業の発達などとは、全く違った社会的影響を持っている。【4】つまり、産業革命以来の技術革新は、物財の量的増大を求める欲求にそって進んだものであり、主として物財供給量の増大と加工度の向上に役立った。ところが、今進行している技術革新は、主として多様化、情報化による「知価」部分の増大と省資源化による物財消費の削減を目指すものだ。【5】いいかえれば、創造的知価の増加にこそ役立つ種類のものなのである。
 この違いは、きわめて重要であり、本質的でもある。産業革命以来、技術革新は、内燃機関も電気技術も化学工業も、それが増大させようとした物財生産はみな、数値化が可能なものだった。【6】お米や鉄などの素材は勿論、自動車やテレビ、建造物といった高度加工品でもそれぞれの加工度を換算して統一された単位(もっぱら価格換算された)で計上することが、少なくとも理論的には可能である。従って、国民総生産(GNP)といった概念も成り立ったし、それを時系列的に、あるいは国際的に比較することも可能であった。
 【7】しかし、いま進んでいる技術革新が増加させようとしている「知価」創造は、現実的にも理論的にも数値化不可能な性格のものである。デザインの善し悪し、イメージ価値の大小、技術の高低、生活の快適さや都市空間のアメニティといったものは、本質的に主観的か、少なくとも相対的である。【8】これらの価値や価格が経済統計に計上されるのは、人々がそれぞれの主観に応じて対価を支払った結果の集計に過ぎない。従って、その価格が、それを生産するのに投入された費用と見合うという保証は、長期的に考えても全く存∵在しない。
 【9】一人のデザイナーがヒット商品を創造することもある代わりに、千人の大事務所でも全く流行を生み出せないこともある。一八歳の少年がコンピュータ・ソフトで大儲けすることもあるが、三〇年のベテランも全くだめなこともある。【0】口コミだけで最高のイメージを得るお店もあれば、大広告の成果が全くないこともある。主観に依存する知価は、いかにそれが社会化されてもやっぱり数値化不可能であり、コストとの関係も存在しない値打ちなのだ。
 こうした社会的主観に依存する数値化できない「知価」への傾斜が深まることは、専(もっぱ)ら数値による客観性を重視してきた工業社会的合理精神には、許容しがたい事だ。当然、それ故の反発も反感もある。そこから「いろんな運不運があっても全体として巨視的平均的に見れば、やっぱり価格はコストに見合うはずだ」という主張も出てくるに違いない。
 しかし、仮に日本全体、あるいは日本全体の何年間かといった大数(たいすう)平均をした結果が「価格はコストに見合う」としても(こんな事実があるという保証は全くない)、物財や単純なサービスにおけるごとく「コストに価格が接近する運動を繰り返す」ためではなく、コストから上下双方に大きく乖離した価格がそれぞれ単独に発生した結果の偶然に過ぎない。
 要するに、「知価」の値打ちの形成原理は、工業社会的ではないし、そんな知価に対して欲求を募らせ、惜しみなく対価を支払う精神も、工業社会的合理精神とは異質のものである。
 だからこそ、「知価」が重要な役割を果たすような社会――「知価社会」は、工業社会の延長上にある「高度社会」などではなく、工業社会とは全く別の「新社会」なのである。
 今、この一九八〇年代に、日本で、そして世界の先進諸国(とりわけアメリカ)で起こっている変革は、単なる技術革新でもなければ、一時的な流行でもない。それは、産業革命以来二百年振りに人類が迎えた「新社会」を生み出す大変革、いわば「知価革命」なのである。

(堺屋太一 『知価革命』による)