レンギョウ の山 2 月 4 週
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○自由な題名
○ひとりでいることと友達といること
★清書(せいしょ)

○その翌日であった。
 その翌日であった。母親は青葉の映りの濃く射す縁側へ新しい茣蓙(ござ)を敷き、俎板だの包丁だの水桶だの蠅帳(はいちょう)だの持ち出した。それもみな買い立ての真新しいものだった。
 母親は、自分と俎板を距てた向こう側に子供を坐らせた。子供の前には膳の上に一つの皿を置いた。
 母親は、腕捲りして、薔薇いろの掌を差し出して手品師のように、手の裏表を返して子供に見せた。それからその手を言葉と共に調子づけて擦りながら云った。
「よくご覧、使う道具は、みんな新しいものだよ。それから拵える人は、おまえさんの母さんだよ。手はこんなにもよくきれいに洗ってあるよ。判ったかい。判ったら、さ、そこで――」
 母親は、鉢の中で炊きさました飯に酢を混ぜた。母親も子供もこんこん噎せた。それから母親はその鉢を傍らに寄せて、中からいくらかの飯の分量を掴み出して、両手で小さく長方形に握った。
 蠅帳(はいちょう)の中には、すでに鮨の具が調理されてあった。母親は素早くその中からひときれを取り出してそれからちょっと押さえて、長方形に握った飯の上へ載せた。子供の前の膳の上の皿へ置いた。玉子焼鮨だった。
「ほら、鮨だよ。おすしだよ。手々で、じかに掴んで喰べても好いのだよ」
 子供は、その通りにした。はだかの肌をするする撫でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ喰べてしまうと体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身うちに湧いた。
 子供はおいしいと云うのが、きまり悪いので、ただ、にいっと笑って、母の顔を見上げた。
「そら、もひとつ、いいかね」
母親は、また手品師のように、手をうら返しにして見せた後、飯を握り、蠅帳(はいちょう)から具の一片(ひとき)れを取りだして押しつけ、子供の皿に置∵いた。
 子供は今度は握った飯の上に乗った白く長方形の切片を気味悪く覗いた。すると母親は怖くない程度の威丈高(いたけだか)になって、
「何でもありません。白い玉子焼きだと思って喰べればいいんです」
といった。
 かくて、子供は、烏賊というものを生まれて初めて喰べた。象牙のように滑らかさがあって、生餅より、よっぽど歯切れがよかった。子供は烏賊鮨を喰べていたその冒険のさなか、詰めていた息のようなものを、はっ、として顔の力みを解いた。うまかったことは、笑い顔でしか現さなかった。
 母親は、こんどは、飯の上に、白い透きとおる切片をつけて出した。子供は、それを取って口へ持って行くときに、脅かされるにおいに掠められたが、鼻を詰まらせて、思い切って口の中へ入れた。
 白く透き通る切片は、咀嚼のために、上品なうま味に衝きくずされ、程よい滋味の圧感に混じって、子供の細い咽喉へ通って行った。
「今のは、たしかに、ほんとうの魚に違いない。自分は、魚が喰べられたのだ――」
 そう気づくと、子供は、はじめて、生きているものを噛み殺したような征服と新鮮を感じ、あたりを広く見廻したい歓びを感じた。むずむずする両方の脇腹を、同じような歓びで、じっとしていられない手の指で掴み掻いた。
「ひ、ひ、ひ、ひ、ひ」
 無暗に疳高(かんだか)に子供は笑った。母親は、勝利は自分のものだと見てとると、指についた飯粒を、ひとつひとつ払い落としたりしてから、わざと落ちついて蠅帳(はいちょう)のなかを子供に見せぬよう覗いて云った。
「さあ、こんどは、何にしようかね……はてね……まだあるかしらん……」子供は焦立(いらだ)って絶叫する。
「すし! すし!」∵
 母親は、嬉しいのをぐっと堪(こら)える少し呆(とぼ)けたような――それは子供が、母としては一ばん好きな表情で、生涯忘れ得ない美しい顔をして、
「では、お客さまのお好みによりまして、次を差し上げまあす」
 最初のときのように、薔薇いろの手を子供の眼の前に近づけ、母はまたも手品師のように裏と表を返して見せてから鮨を握り出した。同じような白い身の魚の鮨が握り出された。
 母親はまず最初の試みに注意深く色と生臭(なまぐさ)の無い魚肉を選んだらしい。それは鯛と比良目であった。
 子供は続けて喰べた。母親が握って皿の上に置くのと、子供が掴み取る手と、競争するようになった。その熱中が、母と子を何も考えず、意識しない一つの気持ちの痺れた世界に牽き入れた。五つ六つの鮨が握られて、掴み取られて、喰べられる――その運びに面白く調子がついて来た。素人の母親の握る鮨は、いちいち大きさが違っていて、形も不細工だった。鮨は、皿の上に、ころりと倒れて、載せた具を傍らへ落とすものもあった。子供は、そういうものへ却って愛感を覚え、自分で形を調えて喰べると余計おいしい気がした。子供は、ふと、日頃、内しょで呼んでいるも一人の幻想のなかの母といま目の前に鮨を握っている母とが眼の感覚だけか頭の中でか、一致しかけ一重の姿に紛れている気がした。

(岡本かの子「鮨」)