ライラック2 の山 6 月 1 週
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○自由な題名
○地域社会
○紙、怖い先生と優しい先生
○American and Japanese(感) 英文のみのページ(翻訳用)
American and Japanese school systems are almost the same because Japan followed the American school system after World War II. However, the Japanese students' way of spending their school days is different, especially at the high school level, from the American students' way.
One thing which brings about this difference is the policy about entrance exams. Entrance exams are the tests that students take to enter college or university. Japanese high school students who wish to get a college education, which is needed to get a good job, have to take difficult entrance exams before entering a university. These exams cover three or four subjects in great 'depth. While Japanese students take these tests, American students are usually not required to take entrance exams. Even students who do not make high grades in high school still have the chance to go to college and show to society that they deserve an education.
There is an interesting contrast between the ways that Japanese and American high school students spend their time away from school. Very often it is not enough for Japanese students to study only at school in order to prepare for entrance exams. To solve this problem, there are many private special schools. Classes for entrance exam preparation are given there. So if a student wants to enter a good university or college, he cannot even go to the movies on weekends. Studying for exams all the time sometimes makes high school life unhappy. American students, on the other hand, usually have time to enjoy all kinds of extra activities in high school. They enjoy sports, dancing, music, drama, or just being with friends. American high school students seem to be really enjoying their lives. But is this the best way for high school students?
Neither system is ideal. There is a big problem about the college entrance system in Japan, and most students have a strong dislike for it. Perhaps the problem in the American school system is that the students have too much freedom at the high school level. Some students may not try hard because they think they will always have a second chance to succeed somewhere along the way.

★お金くらい(感)
 【1】お金くらい、変なものはない。なぜなら、本来どうして交換可能かと思われるような対象が、お金を媒介にすれば、平気で交換されてしまうからである。
 私が大学で働くと、ただいまのところ、一カ月に手取りで四十数万円下さる。【2】ただし、その金額の算定根拠は、私にとっては不明である。おそらくだれにとっても不明であろう。なぜなら、働いても働かなくても、ほぼ同じくらいの額をかならず下さるからである。もっとも、それが、官庁の取り柄といえば取り柄である。
 【3】そもそもお金は、なぜ交換の媒体になりうるのか。それは、ヒトの脳がそうできているからである。脳という臓器は、その内部で、もともとはとうてい交換不能なものを、強引に交換してしまう。たとえば、目から入る刺激は、物理学的にいえば電磁波だが、脳はそれを、音つまり空気の振動と等価交換する。【4】それが、視覚言語と音声言語である。「あ」という形に発する、電磁波の信号が、「ア」という音と等価に交換される根拠は、脳がそれを実際に等価交換しているはずだ、という事実以外にない。脳は、そのいずれをも、神経細胞の信号に変換する。【5】だから、音と光とではなく、信号と信号とで、交換が可能になる。お金はじつは、その信号が、いわば単に外界に出たものに過ぎない。ヒトは、自分の脳を、外部に「投射する」のである。(中略)
 【6】現代はシミュレーション社会だとか、擬似現実の社会だとかいうが、それは、現代社会が、身体というより、脳に似てきていることを示している。つまり、脳の中では、すべては擬似現実であり、すべてはシミュレーションだからである。【7】その象徴がお金であって、現代社会が、お金を中心に動くような気がするのは、倫理観が変化したからではない。社会が脳に似てきたためである。
 現代社会は、要するに、より抽象度の高い世界である。【8】いまの人間が、身体と頭のどっちを余計に使うかといったら、多くの人が、そうとは意識せずに、頭の方を昔より余分に使っているであろう。∵
 テレビを見るという一見単純な行為ですら、頭を使わなくては出来ない。手足を使って、テレビを見るわけには行かない。【9】受験戦争が大変だというが、以前よりは頭を使わなくては、生きていけない社会を作ってしまったから、仕方がない。
 ボケの問題が深刻になるのも、頭の重要性が増したからである。昔は、カマドに火をつけた上で、その事実をすっかり忘れても、同時に薪を加えることも忘れてしまう以上、火が燃え続けることはなかった。【0】しかし、いまではいったんガスに火をつけたら、消すという操作を加えるまでは、ガスが燃え続けることになる。だからボケが大変なのである。
 お金の問題とは、私からすれば、典型的な「信号問題」である。お金を現実と思っている人は、そうは思わないかもしれないが、それは、自分の手元、つまりお金の動きの末端だけに注目するからである。それは脳の場合も同じであって、感覚だけに注目すれば、現に感じられる以上、すべては現実だということになる。しかし、感覚だって信号としていったん脳の中に入ってしまえば、あとは「八幡の藪知らず(入ると出口がわからなくなる藪)」である。
 信号の問題点は、その意味で、途中から現実がどこかに飛んでしまうことである。お金がお金を生んだりするのは、脳の中で信号が増幅されるのと同じであろう。脳の中で極端に信号が増幅される病が癲癇(てんかん)である。現代社会における、お金の増幅は、ほとんど癲癇の前駆症状に似ている。ドストエフスキーを読めばわかるが、軽い癲癇は、天国にいるような恍惚状態を感じさせることがある。株で賭けたり、土地で儲けたりすれは、恍惚状態になる人も多いのではないか。
 お金の動きそのものが脳の中の信号の動きによく似ているので、たかがお金の動きに関する議論が、ときどき哲学や神学の議論に近くなるのであろう。こうした学問は、「ことば」という脳内の信号間の関係を、その信号そのものを使って講論する。際限なくモメるのは、そのせいである。

 (養老孟司『涼しい脳味噌』より)