ヌルデ2 の山 12 月 3 週
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○自由な題名
○もうすぐクリスマス(お正月)


★「自分」というものに(感)
 【1】「自分」というものに「気がついた」感じになった日のことは、くっきり覚えている。十歳のある日だ。前後の記憶はなく、その瞬間の情景だけが――日差しや風の吹き具合なども含めて―― 一枚の絵はがきのように心に残っている。
 【2】学校の昼休みだった。教室のはずれに廊下から校庭におりる五、六段の階段があり、わたしはそこに一人で坐っていた。
 よく晴れた日で、おでこのあたりが、ぽかぽか暖かい。【3】食後で、お腹もちょうどよく満ち足りており、階段の木目の肌ざわりも心地よい。いつもなら友だちと、わいわいガヤガヤやっている時間なのだが、その日はなぜか一人だった。
 【4】校庭で遊んでいる友だちの姿を目で追いながら、「ひとりでいる」ことにも満足している。(みんな元気にやっているな、よしよし)と、すこし、オトナになったような感じとでもいったらいいだろうか。
 【5】そんな、ひなたぼっこの気分でぼんやりしているときだった。
 (あれ? あれあれ? こりゃなんだ?)
 いままで感じたことのないようなヘンな気分が、わき出てくるではないか。【6】あたりの喧騒が、すーっと遠のき、シンとしてしまった。友だちの姿は確かにあそこにあるのに現実感がない。豆つぶのようにチラチラしているだけだ。
 (なんだなんだ、いったいどうなっちゃったのだ!)
 【7】外側は、くつろいだ姿勢のまま、心の中は驚いてあわてふためいている。心臓がドキドキして大騒動だ。なにがなんだか判らず、じっと凍ったままでいるうちに、まるで自分の中の何かが一枚はがれたように、(あ、そうか!)と感じた。【8】わたしというのは、わたし一人しかいないんだ。
 書いてみれば身もフタもない。が、なんとも奇妙な「了解」があった。ややこしくなるのを恐れずに、そのときの気分を、ずらずら述べてみると……
 【9】(わたしのことを「わたし」と感じることが出来るのは、このわたししかいない。今まで、どれだけ沢山のいきものが生まれ、死∵んでいったか。これから、どれだけ沢山のいきものが生まれ、死んでいくか。
 【0】いきものという大河が、太古と未来を貫いて、ごうごうと流れており、本日ただいまも――こうして、わたしが学校の階段に坐っているこの時も――世界中に数知れないいきものが、満ちており、わたしはその中の、ほんとにちっぽけな存在だ。
 しかし、しかしである。ちっぽけではあるが、この、ここにいる直子を「わたし」と思えるのは、わたしだけじゃないか。この直子を「わたし」と思える、という事態は大昔まで遡っても、いちどもなかったし、今後どれだけいきものの歴史が続こうとも、もう二度とない。
 つまり、「直子=わたし」という状態は、この世では「まったくく初めて」の出来事なのだ! 「じつに特別」なことなのだ! こりゃすごい)というわけである。いわゆる「自己の発見」的な芽が出たときだったらしい。
 その後しばしば、あの瞬間を思いだした。そして、直子という「にんげん」が、ほかならぬ「わたし」であることを不思議に思ったり、「わたし」を無視するかのように、直子という「にんげん」が沢山登場し、勝手に振る舞って(と思えて)、ヤキモキしたり腹を立てたりした。(こんな直子は「わたし」じゃない)と。
 そのヤキモキ状態が極まったのが十代だった気がする。――そう、これも十代の特徴なのだろう。つまりは、直子と「わたし」のバランスがうまくとれないことだったようだ。

(工藤直子「出会いと物語」より)(原作を一部手直ししてあります)