ヌルデ2 の山 11 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○「意地」という日本語は(感)
 【1】「意地」という日本語は、広い意味ではこころをさすが、こころのなかでも、自分の思ったことをやり通そうとする気持ちをあらわしているようである。したがって、意地は意志といってもよかろう。
 【2】ところが、そのような意志を、どういうわけか日本人はあまりこころよく思っていなかったようである。その証拠に、意地という言葉はけっしていい意味に使われていない。【3】「意地が悪い」とはいうが、「意地がいい」とはいわないし、「意地がきたない」とはいっても、「意地がきれい」とは使わない。「意地になる」というのは、わざと人にさからうことだし、「意地を張る」ような人間はけっして好まれない。【4】こう見てくると、日本人は意地を持てあましているとさえいえそうである。それはなぜなのであろうか。
(中略)
 では、「意地」と「意志」とはどのようにちがうのか。【5】「自分の思うことを通そうとする心」(『広辞苑』)という意味においては、たしかに「意地」は「意志」と同義のように思えるが、たとえば「男の意地」「女の意地」「武士の意地」などというときの意地は、けっして意志と同じではない。【6】こころみに「男の意地が立たない」といった表現を「男の意志が立たない」といいかえてみれば、それがよくわかる。「意志が立たない」などという言葉はあまりきいたことがないが、あえてそれを解釈すれば、「こころざしが立たぬ」、つまり、だらしがないということになるのだろう。【7】「男の意地が立たぬ」というのを、「オレはそんなだらしない男ではない」の意と解することもできようが、「意地が立たぬ」は、もっとべつのニュアンスを持っているように思われる。【8】だから、これは外国語には絶対に翻訳できない日本的な感情の表現というしかない。
 では、そのような「意地」とは何なのか。それにはやはり、「意志」と比較して考えてみるのがいちばんである。
 【9】まず第一に気付くのは、「個人の意志」とはいうけれども、「個人の意地」とはいわないということだ。また、「男の意地」とは∵いうが、それを「男の意志」とするとおかしなことになる。【0】ここから、「意志」というものが、あくまで個人のものであるのに対して――むろん、みんなの意志ということもあるが、その場合でもそれは個人の意志の集まりであって、意志の原点はあくまで個人にある――「意地」とは集団に共通したある種の表象、個人の意志から独立したいわば「公認された意志」であることに気付く。つまり、「男の意地」というのは、男ならばとうぜん持たねばならぬ気構えのことであり、それはけっして個人的なものではなく、あくまで社会、あるいは特定の集団に課せられているある種の規範なのである。
 だとすれば、「意志」と「意地」のちがいは、意志は個人的なものであるが、意地は社会的・集団的なものである。だからこそ、「男の意地」「女の意地」「武士の意地」「ヤクザの意地」「若者の意地」というふうに、意地はすべて集団に帰属するのだ。その「意地」を「意志」という言葉におきかえると、まったく意味をなさないのは、意志はあくまで個人個人のものだからにほかならない。
 (中略)
 共通のイメージに自分を合わせる、らしくあろうとする――いずれにしても、それは骨の折れることにちがいない。だから「意地を通す」ことは窮屈になる。『草枕』の主人公は、そのように自分の「意志」からではなく、世間的な共通のイメージに合わせて「意地」を張るのがホトホトいやになって、「非人情」の天地を求め、山の中へ入って行った。彼は「意地」を通すかわりに、自分の「意志」をつらぬいたのである。

 (森本哲郎『日本語 表と裏』(新潮文庫)より)