ヌルデ2 の山 11 月 3 週
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○自由な題名
○寒い日や雨の日


★わたしのところに(感)
 【1】わたしのところに、父親のすすめる学校に行くのはいやだから家出したいとか、高校の娘が化粧のことで注意したら、ろくに口もきかなくなったというような手紙がきている。こんな状態を、世では親子の断絶というのだろう。
 【2】なぜ、このような断絶がくるのか。断絶などという言葉をつかうと、事は深刻に見えてくる。だが、ありきたりの言葉でいえばお互いの「わがまま」なのだ。わたしは以上の話をきいて要するに「わがまま」な話だと思った。
 【3】「わがまま」というのは、身近なものの間にほど現れる現象である。他人同士だと、相手の話をよく聞こうとする姿勢があり、相手の身になって、相手を傷つけないようにと心を配るが、親子や、兄弟、夫婦などには、つい「わがまま」が出てしまう。
 【4】「わがまま」とは、何か。我のまま、我の思うままにふるまうこと、つまり、自己中心的にふるまうことだ。この世のいざこざは、この自己中心が原因なのだ。
 【5】「受容」という言葉がある。受け入れるという意味だが、断絶、わがままは、相手を受け入れない姿勢なのだ。
 親子にしろ、夫婦にしろ、毎日生活して、同じ家に、同じ食べ物を食べて生きていると、つい相手を自分と同一の人間であるかのように錯覚してしまう。特に親は子どもを、自分の血肉(けつにく)をわけた者として、文字通り自分の分身だと思いこんでいる。
 【6】何の問題もない時は、自分に顔が似ていたり、同じ食べ物が好きだったり、似た性格だったりする相手は、たしかに分身に思われ、一体感を感じさせる好ましい存在なのだ。
 【7】だから、一朝、恋愛問題や進学問題など、どうしてもはっきりとした態度を取らねばならぬ事態に直面し、意見が異なると、たちまち、お互いの態度は硬化する。受容の精神が欠けているのだ。だから、相手を絶対に受け入れない。【8】「あんな女のどこがいい」∵「断じて、この学校にはいる」「こんな話のわからぬ親はごめんだ」「親のいうことをきかぬわがまま者」とお互いにゆずらぬことになる。
 【9】わたしたち人間には、教養、性格にかかわりなく、自分と同じ考え、同じ思想になれないものはイカンという、ぬきがたい感情がある。相手が自分と同じ考え方をしないと憎む、というこの感情は親子の場合も同じであろう。
 【0】これは、なぜか。一人一人は、顔のちがうようにまったくちがった人格の持ち主だというこの簡単な事実を認めないからである。相手は自分ではないという自明のことがわかっていないからである。
 さらにいえば、相手から見れば、自分もまたちがった人間であるということ、その自分を認めてほしいように、相手も認めてほしいのだということがわからないということなのだ。つまり、この世の一人一人はみんなちがった思想や考えを持って生きていることを、認めたくないということなのだ。
 というのは、みんな自分と同じ顔でないのはけしからん、といっているわからずやのようなものなのである。
 では、なぜ、相手が自分と同じ考えの人間でなければならないのか。なぜ、わたしたちは、他の人を認めないのか。よく考えてみよう。それは、自分は絶対正しい人間だ、自分は最もよい人間だという考えを、無意識のうちに心の奥深くに根強く持っているからだ。そんなに、わたしたちは「正しい」だろうか、「よい人間」だろうか。否である。
 が、この世の憲法は自分なのだ。カンニングした時に、隣の友だちがカンニングしないとそれは、いやな奴(やつ)なのだ。
 わたしたちにとって、話のわかる人間というのは、自分と同じ考えを持つ人間、自分のいうことを聞く人間なのだ。この世のすべての人が、自分と同じ考えになったら、どんなことになるか。
 それは頭を冷やして考えてみたら、すぐわかることだ。「それほど自分は正しいのか」、自分という人間をよく胸に手を当てて考え∵てみたら、わたしたちは、親子でも、きょうだいでも、夫婦でも、友人でも、自分の考えを相手に押しつけたり、激しく拒否したりすることはなくなるはずなのだ。
 この自分の存在が認められたいのなら、他の存在をも認め受容して生きていかねばならない。車でも、相手を認めずに突進したらどうなるか、大ケガや死を招くだけである。

(三浦綾子「あさっての風」より)