ヌルデ2 の山 11 月 1 週
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○自由な題名
◎いたずらをしたこと
★木登りをしたこと、わたしの好きな食べ物

○粗大ゴミのゴミ捨て場へ行くと(感)
 【1】粗大ゴミのゴミ捨て場へ行くと、まだまだ使えるものがいっぱい捨ててある。それは環境を汚染するわけです。そんなことならばもうちょっと高くても品質のいいものを買って、おじいさんから孫まで生活の思い出の残るものをずっと伝えていけば家具なども捨てなくていい。【2】そうすればゴミ捨て場もそれだけよけいな負担を背負わずにすむわけです。けれども、日本人は使っては捨て、使っては捨てという生活に疑問を持っていません。
 【3】何年も寸法ひとつ狂わずに、引き出しも扉もピッタリとしている家具への愛着は、毎日の暮らし、人生、自分の世界をつくっていたものへの愛でもあり、そういう年月に耐えるものをつくった人の腕前に対する尊敬でもあるわけです。
 【4】たとえば何代も読みつがれる名作といわれる文学作品は、アブク(あわ)のように消えるいわゆる「よみもの」よりも多くの人に長く愛され、尊敬されているでしょう。いつまでも本棚に置いておきたいと思うでしょう。【5】そこから得たものは、それぞれの人格の中に深くはいりこんで、読者の人間を豊かにしたでしょう。すぐに忘れ去る一過性のよみものとは、違うものだと思います。それはモノに対しても同じであるはずなんです。
 【6】一方で使い捨ての安物を買っていると思えば、他方では五万円もするような化粧品のクリームも売れている。その原価は五分の一以下と言われているのに、独占によるチェーンストアヘの支配が強くて、ほんとうの市場価格まで下がりません。【7】公正取引委員会が外圧(外部の力)によって、やっと重い腰を上げ、最近、一、二の小売店で値崩れを起こしています。私たちは幻に対しておカネを払っていたのです。
 家の中には、誰も弾かないピアノやオルガンもあれば、テレビもあります。【8】ビデオデッキも、CDプレイヤーもあります。地震があれば押しつぶされるのはあたりまえだというくらい、いろいろな∵ものが置いてある。ほんとうの安全には手抜きをした家の中に、そして安全を手抜きした町づくりの中に、変なぜいたくがあるのです。こういう豊かさはおかしいのではないかとおもいます。
 【9】では、ほんとうの豊かさ、なんとなく豊かな気持ちで毎日が送れる時とはどういうときかと考えてみますと、『パパラギ』という本をお読みになった方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、南のある島の酋長が書いた本です。【0】その中で、こういうことを言っている。人間というのは頭だけで生きているのではない。足だけで生きているのでもないし、手だけで生きているわけでもない。心もあるし、身体もあるし、頭もある。頭も手も心で感じることも、目も耳も全部が同時に満足することが必要だ。ひとつに統一された満足感が必要だ。そういう生活が、人間として幸せで豊かな生活なんだと言っている。
 頭だけあるいは手だけを酷使して、ほかのところを顧みないと、人間は必ず病気になり、健康な心と身体を失う、と言っています。つまり人間は、全体で生きていて、全体を働かせ、全体を楽しませ、全体がひとつになって幸せになることが豊かなのだと言っているのです。一部分だけが満足している状態は、病気だと言っているのです。
 同じことは教育の中にもあります。教育は全人格的発展、人間としての成長を促すものですが、現在、日本の教育は偏差値の点をとる教育になっています。だから人間の子として楽しくないのです。
 また、日本は労働時間が非常に長い。残業をすれば手当てももらえます。お金だけ、あるいは企業の中で出世することだけを考えれば、頭と職業に必要な手、目だけを働かせて「職業バカ」になることもできる。それが日本では大変いいことだと考えられている。あの人は会社のために妻も子も忘れ、一身を捧げて、ただただ会社のために尽くしてきた。企業にとってはいい社員であるのですが、そういうのは豊かではないと『パパラギ』は言っている。
 つまり、会社人間はある専門的なことについてはベテランになっ∵ていくし、お金も儲けるかもしれません。しかし、もしその人が学校を出てからまともな本を一冊も読んでいない。自分の仕事にかかわるものは読んでいるかもしれないが、人間の土台になる教養というものは、何も身につけていない。会社で働くだけで、それこそ図書館にも行かないし、山登りもしないし、音楽会にも行かないし、地域社会のために何かをするということもしない。ただ会社で働くだけ。だとしたら、まったく豊かではありません。それは人間としての生活ではないからです。

(暉峻淑子(てるおかいつこ)「ほんとうの豊かさとは」より)