ヌルデ2 の山 10 月 3 週
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○自由な題名
○野山に出かけたこと


★中学生の悩みで(感)
 【1】中学生の悩みで、一番多いのは友人についてだという。ぼくなんか、それを聞くと、青春をなつかしんで、うらやましくなってしまう。
 心がすっかり通じあった、なんでも語りあえる友、というのはいいものだ。【2】だれもいっとき、それを夢みる。
 しかし、本当のところは、そんなものはないと思う。
 心が本当に通じあったら、気味が悪い。人間と人間とは、どんなに通じあっているようでも、いくらかはすれ違う。【3】それが、他人の間の自分というものだ。他人とは、自分と違う心を持ち、自分と微妙に心がすれ違うので、自分にとって意味を持つ。
 【4】そうしたすれ違いから、人間と人間のドラマが生まれる。そうしたすれ違いから、新しい発想が生まれ、議論が創造へと発展する。だれひとりとして同じ心を持たない、この人間たちの意味はそこにある。
 【5】また、なんでも話しあえる、というのも嘘だろう。嘘でないとしても、そんなになんでも話してしまっては、自分がなくなってしまう。自分だけのために、なにがしかは心の底にとっておくものだ。【6】それが自分の心の重荷になろうとも、それを支えるのが、自分というものである。
 こうしたことを無視して、友人と考えていては、裏切られて当然だと思う。それに、あんまりベッタリした友人関係は、長持ちしないものだ。
  (中略)
 【7】本来は、友人というのは、それぞれに自分の心をとっておきながら、ふれあいのなかでいたわりあうものだろう。それは、完全には重ならず、完全には通じあわぬ、断念の上で成立する。
 【8】しかし、きみたちにしても、そんなことは、無自覚にしろ、承知の上のことかもしれぬ。自分と他人がそれぞれに確立したうえでおたがいに関係をとり結ぶこと、そうしたことへの一種のおそれが、友人についての夢を持たしているのかもしれぬ。
 【9】それは、ぼくにも多少はおぼえがある。自分が他人と違う自分になっていくこと、他人を自分と違う人格と意識していくこと、そ∵うした過程の反動として、自分と一体化した他人として、友という幻影を求める。【0】それが、青春の一時期であるにしても、そうした幻影を持てればしあわせである。
 ただし、幻影はやはり幻影である。そして、友人が持てないというのは、幻影が持てないというだけのことで、友人ができないと悩むほどのこともあるまい。
 そしてやがて、自分とは違った心を持った他人との、友人関係が作られていくと思う。そのとき、きみはだれでもないきみ自身の心を持ち、そして友人もまた彼自身の心を持つことを、たがいに認めあうだろう。彼は、きみと違っていて、心がすれ違うからこそ、友人となる。
 自分と似た人間を求めて、友人を作るというのを、ぼくはあまりすすめない。たしかに、自分と似ているだけに、つきあいやすい。しかし、あきやすかったり、はなにつきやすいのも、自分と似た相手だ。
 なるべくなら、どんなグループにあっても、そしてそのグループの人間が自分と似ていなくても、そのなかでこそ、友人ができたほうがよい。そこで、自分に似た相手を探しても、見つからないだろう。
 自分と性格が違い、自分とものの考え方の違う相手のほうが、友人としてはおもしろい。違う考えをしたり、意見がくい違うからこそ、関係をとり結ぶ意味があるのだ。似た相手より、似ない相手を探してみたらどうだろう。それなら、友人になれる相手は、いくらでもいる。
 似たもの同士が群れあうのは、ぼくはむしろつまらなく思う。違和感を持つグループのなかでこそ、友は必要なのだ。
 それは、自分の人格を確立し他人の人格を認めるようになることでもある。自分と違った心を持った他人の価値を知ることである。他人の心を大事にできるためには、自分の心を大事にできなければ∵ならないが、そうしたなかで友は作れる。
 でも、青春、自分が確立していくなかで、友を求めて悩むのは自然なことだ。そうした悩みは、青春にはあってよいと思う。少なくとも、友ができないと断念して、自分の殻にこもったりはしないことだ。求めることなく、殼にこもったりしていては、その自分が作られることもない。自分というものは、こうした過程を通じてだけ作られるもので、自分の殻のなかで自分を作るわけにはいかない。人間というものは、さなぎの中にあって蝶になるものではない。

(森毅(つよし)「まちがったっていいじゃないか」より)