ジンチョウゲ2 の山 8 月 3 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。ルビ付き表示

○自由な題名


○In an age when reading(感) 英文のみのページ(翻訳用)
In an age when reading for most people is a nonintellectual pleasure, and when at the same time there is a constant stream of books falling from the publishers' presses, a book has only to be barely readable once in order to serve its purpose. It need not be reread, nor does it need to lie in the mind as a source of future pleasure. It thus ceases to matter whether a book is memorable; and when literature is not memorable it is nothing. Total illiterates who depend on folk literature for their pleasures of the imagination are thus much better off than semiliterates who read forgettable novels merely because they are available. Oral literature must lie in the mind, for otherwise it would be forgotten; but most modern written literature is expected to he forgotten, in order to make way of the next season's list. That is one reason why we feel that modern books are different in kind from "the classics.
The fact is that literacy itself is a means and not an end, and it can be put to uses which may be good, bad, or indifferent. A book may be read for a great variety of reasons. But the reason for which a book is read determines the way it is read and to so1me extent the degree of illumination it is possible to get from it. All books should, of course, be read for pleasure, but "pleasure" is not a helpful term here, for it has so many meanings. There are many kinds of pleasure, intellectua1 and nonintellectual, and even many kinds of intellectual pleasures. The appreciation of literature involves a very special kind of intellectual pleasure, in which the intellectual element is not always directly manifested and where the faculty which critics have come to call the imagination plays a complicated and not always definable part. The ability to read does not by itself guarantee the ability to enjoy that kind of pleasure; it has, in fact, no particular connection with it at all except that it provides the technique for communicating it to those in a position to receive it. Like patriotism, literacy is not enough.

★個としてのアイデンティティと(感)
 【1】個としてのアイデンティティとクラス──性的・文化的・社会的・国家的・民族的、等々のクラス──という問題は、それこそ人間の生き死にに関わるテーマであったし、いまなおそうであり続けている。【2】しかも、クラス・アイデンティティはたんに個人の選択の対象ではなく、しばしばマジョリティ(多数派)からマイノリティ(少数派)に押しつけられるものでもある。【3】実際、あのナチによる「ショアー」においては、何百万人という人間が「ユダヤ人」というクラス、「ジプシー」というクラス、「障害者」というクラス、等々に分類され、最終的には「生きるに値しない存在」というクラスに一方的に「選別」されることによって、殺戮されたのだった。【4】その意味で、ぼくらは「ショアー」を、個体としてのアイデンティティヘのクラス・アイデンティティのもっとも暴力的な付与(押しつけ)、と呼ぶこともできるだろう。
 【5】だがそれでいて、個としてのアイデンティティとクラスとしてのアイデンティティをきれいに選り分けることはおそらく困難であると思われる。【6】クラスとしてのアイデンティティ規定をどんどん削ぎ落としてゆけば、その人間の個体としてのアイデンティティも次第に形式的なもの、空虚なものとなってゆかざるをえないからだ(そして、この空虚で形式的な「自己」こそを単位として、近代の国民国家はそこに自らの創出神話を充填してきたとも言えるのだ)。【7】むしろ、個体としてのアイデンティティは、大枠としては、さまざまなクラス・アイデンティティのそれ自体個性的な布置、という形で捉えなおさざるをえない側面があるのではないだろうか。
 【8】しかし、その場合のクラス・アイデンティティはしばしばマジョリティ側からマイノリティ側に「押しつけられた」ものである。【9】たとえば、プリーモ・レーヴィは元来その生育環境のなかでは「ユダヤ人」であることをさほど意識していなかったし、当時のルーマニア領チェルノヴィッツに生まれたパウル・ツェランも、父親が「ユダヤ的」教育を施そうとするのをむしろ嫌っていたと伝えられている。【0】逆説的にも、ナチによって一方的に「ユダヤ人」という規定を付与されることによって、彼らは自らの「ユダヤ人性」を∵深刻に想起させられたのだった。その意味で彼らにとって、「ユダヤ人」というアイデンティティには、最初からある種の他者性が付着していたと言えるのだ。そんな彼らが「ユダヤ人である」という問題に、どう向き合おうとしたか。彼らの表現を「ユダヤ人性」一般に還元することができないのと同様に、彼らはユダヤ人である以前にひとりの書き手であった、というだけで済ますことができないのも事実なのだ(むしろ、彼らは「ユダヤ人」であることによって、「書き手」であらざるをえなかった、と言うことも十分可能なのだ)。
 要するに、マイノリティの位置にある──あらざるをえない──人々にとって、アイデンティティをめぐる問題は、また、マジョリティ側の土俵、圧倒的に「他者」の支配している舞台でなされるほかない、という側面が抜きがたく存在しているのである。自分が自由な個としてアイデンティティを選び取る以前に、マジョリティの無数の指先が自分に突き立てられていて、自明のように帰属クラスを指定しているという理不尽な事態。そこでは敵の舞台で、敵の武器を逆手にとって、「固有の自己」をもとめての暗闘が繰り広げられる、という局面が現出せざるをえないのだ。

(細見和之『アイデンティティ/他者性』)