ザクロ2 の山 6 月 3 週
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○自由な題名
○ペット

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★子供の躾は(感)
 【1】子供の躾は、社会の圧力によって為されるが、感化はそうではない。感化院というのがあるけれども、人を監禁して行なうことを感化とは言えまい。感化は受ける者が自由に受け与える者の意図を超えて与えられる。これが原則である。躾は、そうはいかない。【2】躾には、強制と罰とが伴う。それを喜んで受ける者はないだろう。そこで、躾の義務を合理的に説明する道徳教育が必要になる。しかし、躾を可能にさせるものは、道徳教育ではない。社会の圧力である。態と感化とのこうした関係は、反対から見ることもできる。【3】躾は、ある社会なり共同体なりが任意の基準で強制するけれども、受ける者はそれに反抗したり、無感覚になったりすることが可能である。感化のほうは、そういうわけにはいかない。感化には、どこか不自由になる喜びがあり、この喜びに反抗しようとする者はいないだろう。【4】躾は任意になされ、感化は否応なく起こる。躾と感化とは子供が教育される時の切り離せない二つの側面になる。個々の人間が、自然の群れのなかではなく、社会のなかに産み落とされる限り、教育のこれら二つの側面は、必要なものだと思われる。【5】社会が複雑になるほど、躾は種々の共同体のなかで多様化し、分業化する。私が尊敬してやまないトンカツ屋のおやじは、修業時代には、ずいぶん厳しい躾を受けたに違いない。」の躾は、彼が志した職業上の技術の習得と一体になったものであり、習得に欠かせない生活条件だったとも言える。【6】躾を欠いたままの技術教育は、まことに非効率なものである。逆に、技術教育の裏づけがない躾は、まことに不安定なものであり、すぐに馬鹿馬鹿しい頽廃をみる。
 しかし、この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。【7】模倣への欲求を掻き立てる一人の人物が要るのである。すぐれた料理人を育てる調理場には、必ず模倣の対象となるようなすぐれた料理人がいる。このような人物は、単に技術がすぐれているだけではない。他人の内に模倣への欲求を掻き立てる何かが、そ∵の技術を根底から作り出すものになっているのである。【8】彼は意図せずして、他人に感化を与える。意図して為される教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、決して実を結ばない。
 もちろん、これは技術教育の現場では至る所にある事例だが、学校教育では極めて少ない事例である。先生たちが悪いのではない。【9】学校で教えられている事柄の本来の暖味さが、つまらなさが、学校での躾と感化とをほとんど不可能にしているのである。テレビドラマに出てくる先生は、躾抜きにいきなり感化を与えるが、誰にとってもあれが無理なことに見えるのは、そうした感化に不自然を感じるからである。【0】学校には具体的な躾を必要とする技術教育がなく、尊敬される技術のないところに感化は起こらない。(中略)
 言い換えれば、人間の技術とは、躾と感化とを必須の条件として磨かれる何かでなくてはならない。少なくとも、技術という言葉の意味をそんなふうに扱うことは、子供の教育にとってよいことだ。受験技術という言葉がある。高級な勉強とは別に、低級な技術があり、いやでもそれを呑み込んでいないことには、受験に失敗する、それは必要悪だ、そんな意味合いがこの言葉にある。技術という言葉が、こんなふうに貶(おとし)められているところに、子供を奮い立たせる教育などあるはずがない。
 「技術」という漢語は二つに離して、「技」とか「術」とか言ったほうがいいのかもしれない。学問は、料理同様、社会のなかでひたすら磨かれる一種の技である。学校で教わる「教科」は、そうした技にまっすぐつながっていなければ、これはもう殺人的につまらないものだろう。このつまらなさが、子供から成長する力を奪う。感化される能力さえ奪う。高校がつまらなければ、さっさとやめてトンカツ屋の修業に行けばよい。このことは、効率の上でも、倫理の上でも、まったく正当に言える。

(前田英樹『倫理という力』)