グミ の山 10 月 4 週
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◎自由な題名

★清書(せいしょ)

○理想的なものとは
 理想的なものとは現実を超えたもののことだ。現実にはない、現実とはどこかちがうところにある、それが理想的なもののありようだ。古代ギリシャの哲学者プラトンは、そんなありかたをする理想的なものを「イデア」と名づけた。理想的な人間、理想的な馬、理想的なオリーブ、理想的な家、理想的な都市、理想的な政治……それらはこの現実世界のうちには存在せず、どこか別の世界にある。そして、現実の人間、馬、オリーブ、家、都市、政治その他は、人間のイデア、馬のイデア、オリーブのイデア、……を手本として、それに似るように作られている。が、それらが現実のものであるかぎり、イデアの完全さに達することはできない。それがプラトンのイデア論の骨子で、芸術作品も、人間が作りだした現実の存在である以上、イデア(理想的なもの)ではなく、イデアの不完全な模造品だ。
 理屈としては筋が通っているが、芸術作品を前にしたときのわたしたちの感覚とは大きくずれる考えかただ。観音菩薩のイデアが現実世界とは別のどこかに――たとえば作者の想像世界に――存在し、それを手本として作られた不完全な模造品が目の前の百済観音だ、とはどうしても考えられない。制作にかかる前に作者の頭のなかに像のイメージがあり、それが制作の導きとなった可能性は十分にあるが、出来上がった作品を見ると、頭のなかのイメージや、さらにそのむこうにあるとされるイデアのほうが、曖昧かつ不完全なものであって、それを明確な形に表現した現実の作品は、形なき理想らしきものを形のある理想へと高めたものと思えるのだ。だからこそ、見るほうは気息を整えて、静かにゆったりと作品に対峙したくもなるので、作品のむこうにイデアをうかがうのは、芸術とつきあう楽しみをわれから放棄する所業のように思える。
 絵の場合、話はもっと分かりやすい。
 たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」の美しさは、モデルとなった女性の美しさをはるかに超えるものではなかろうか。絵のむこうにモデルとなった美しい女性を想定し、そのむこうに美しい女性のイデア(理想形)を想定することは可能だ。しかし、「モナ・リザ」の絵(この際、細部まで写しとられた大判のカラー写真を絵の代わりと考えてもいいことにしよう)を見ていて、美しいモデルや、モデルのむこうのイデア(理想形)に思いが行く∵ようなら、それはもう絵を見ていないのと同じことだ。イデアをいうなら、目の前に描かれてある女性の絵姿こそがイデアであり、それ以上のイデアなどどこにもありはしない。それが傑作の傑作たるゆえんだ。ダ・ヴィンチは絵の細部においても全体においても、女性の理想形を――永遠に女性的なるものを――追求しているといえるので、その理想形が縦77センチメートル、横53センチメートルのカンバス上に見事に定着されているのは、やはり不思議なことといわざるをえないのである。
 時代が下って、ポール・セザンヌが故郷の山を描いた「サント・ヴィクトワール山」についても同じことがいえる。同じ題名の絵が何枚もあって、その一枚一枚が、山の理想的な美しさの追求、あるいは、山とは何かという問いへの解答、あるいは、山というものがこの世に存在するその存在の意味の解明、といったふうな試みだが、表現された山は、その一つ一つがこれこそが山だ、山とはこんなふうにあるものだ、と感じさせる。その意味で、そこに定着されてあるのは山の理想形といっていいのである。
 理想形が、絵ならば絵具を塗りかさねた布のカンバスとして、彫刻ならば大理石の塊やブロンズの塊や木の塊や粘土の塊として、音楽ならばリズムとメロディーとハーモニーを備えた音声として、目の前に、あるいは、耳に聞こえるように、ある。くりかえしいえば、それが芸術作品の基本的なありかたであって、作品を楽しむ側からいえば、目に見え、耳に聞こえる物との感覚的なつきあいを通して、形や色や音の理想的なすがたを感受できるのが喜びの源だといえる。芸術作品に接するとき、わたしたちは、現実を超えた理想的なものが、いま、ここに、現実のものとしてある、という矛盾を楽しんでいるのだ。

(長谷川宏『高校生のための哲学入門』による)