ギンナン2 の山 9 月 2 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。ルビ付き表示

○自由な題名


○The first question(感) 英文のみのページ(翻訳用)
The first question to ask about fiction is: Why bother to read it? With life as short as it is, with so many pressing demands on our time, with books of information, instruction,
and discussion waiting to be read, why should we spend precious time on works of imagination? The eternal answers to this question are two: enjoyment and understanding.
Since the invention of language, men have taken pleasure in following and participating in the imaginary adventures and imaginary experiences of imaginary people. Whatever--without causing harm--serves to make life less tedious, to make the hours pass more quickly and pleasurably, surely needs nothing else to recommend it. Enjoyment--and ever more enjoyment--is the first aim and justification of reading fiction.
But unless fiction gives us more than pleasure, it hardly justifies itself as a subject of college study. To have a compelling claim on our attention, it must furnish not only enjoyment but deep understanding of life.
The experience of men through the ages is that literature may furnish such understanding and do so effectively. But the bulk of fiction does not do this. Only some does. Initially, therefore, fiction may be classified into two broad categories: literature of escape and literature of interpretation. Escape literature helps us pass time agreeably. Interpretive literature is written to broaden and deepen and sharpen our awareness of life. Escape literature takes us away from the real world: it enables us to forget our troubles temporarily. Interpretive literature takes us, through imagination, deeper into the real world: it enables us to face the hardships of life. The escape writer is like an inventor who devises a contrivance for our diversion. When we push the button, lights flash, bells ring and cardboard figures move jerkily across a painted horizon. The interpretive writer is a discoverer: he takes us out into the midst of life and says, "Look, here is the world!" The escape writer is full of tricks and surprises: he pulls a rabbit out of a hat, saws a beautiful woman in two, and snatches colored balls out of the air. The interpretive writer takes us behind the scenes, where he shows us the props and mirrors and seeks to make illusions clear.

★私は何ものなのか?(感)
 【1】「私は何ものなのか?」という問いへの答えは、二人称での語りかけと、三人称での描写と、一人称での思いが、少しずつ重なり合ってくることによってしか、与えられない。【2】したがって、「まだ呼びかけうるかも、なお応じうるかも……」という呼応の可能性なしには、答えの探しようもない。この呼応の可能性に支えられて、諸種の描写が重なってくるにつれ、「どうやら私は……らしい」という果実もみのる。【3】もちろん、そうした果実の多くは、しばし甘美だったとしても、「自己正当化ゆえのあまさにすぎなかったか……」という苦みをも残す。しかし、そうした苦みは、さらなる呼応への敏感さを養ってくれる。
 【4】呼応、つまり呼びかければ応答があるということは、人の間かつ時の間の、一回的な出来事であり、したがって、一見ささいな出来事である。しかし、私もあなたも、そうした呼びかけ・応答をつうじて、はじめて、曲がりなりにも自分のかけがえのなさを確認しえている。【5】あなたも私も乳児と親の間柄からはじまって、呼応の可能性をたよりにして、はじめて相手に向かって振舞うことができ、そうした相手との間で、自分のかけがえのなさを、曲がりなりにも確認してきた。【6】にもかかわらず、このナケなしの呼応の可能性も、あまりにも当たり前であるがゆえに、あたかも空気のように、見過ごされうる。
【7】たとえば、こうである。いわく「呼びかけられうること、呼びかければ応じられうることは、なるほど幼児が自分を意識するようになる過程では必要かもしれない。【8】しかし、ひとたび自分を自覚するようになれば、他人との呼応の可能性などは、登ってしまえば無用になるハシゴのようなもので、べつになくなってもかまわない……」云々。【9】とりわけ、どこへ行っても注目され、あるいは気をつかってくれる人に囲まれて、向こうから声をかけてもらえるような立場にある人は、えてして、こう考えやすい。
 【0】しかし、呼応の可能性の大切さを見切ってしまうのには、あまりにもありふれているという以外にも、べつの原因もある。私たちはそれぞれ自分の生活に忙しい。だから、自分にとって必要でもないことにかんして、あるいは直接に関係ないと思える人から、呼びかけられても、いちいち応じてはいられない。私たちはそう考えて、自分が応じる呼びかけの範囲と種類を、自分のほうから限って∵しまう。じじつ、そう限定しなければ一日何時間あっても足りない。そこまで私たちに向かって多種多様な呼びかけが発せられている。のみならず、私たちが呼びかけとして聞き分けていない声は、さらに多種多様である。したがって、自分が応じるいわれのある呼びかけの種類と範囲を限定することは、自分の生活がある以上、やむをえない。
 こうした自己保身ゆえに呼応の可能性を切り詰めると、「この眩(くるめ)きには応えなくてもいいだろう」と見切った他人の呼びかけを聞き流し、その切実な訴えを見殺しにする。しかし、それだけではすまない。「もともと私は応える立場にはいないのだから……」と自分に言い聞かせて、聞き流したことを自己正当化することになる。そして、こうした自己正当化は、もっとも身近な他者の聞き取りにくい眩(くるめ)きさえも、たんなる雑音として切り捨てることの正当化に連なる。
 そのツケは、声の小さい者たちに回され、彼・彼女らにおいて、「何ひとつ応答などなかったではないか……」という苦い思いを生み、「他人との呼応の可能性など、当てに出来ない……」というシニシズムを生む。そして、このシニシズムとともに、もっとか細い声への鈍感さが蔓延し、その結果、人は自分に向けられている切実な呼びかけを自分が無視しているという事実すら気づかないようになる。そうなると、それだけいっそう、自分が何であるかについても、不安になる。こうして「私探し」がいたずらに加速される。
 もちろん、ひとくちに「私探し」といっても、その実態も背景も多種多様であって、すべてが、呼応の可能性の切り詰めに還元できはしない。しかし、もしあなたが、「呼応の可能性など当てにできない……」という印象をよすがとして、「他者にたいして特定の人物であることなど、自分が自分であるためには二次的・三次的なことだ……」と思いはじめているのなら、もう一度、考え直していただきたい。

(大庭健の文章による)