ギンナン2 の山 9 月 1 週
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○自由な題名
○読書
○専門と教養、計画と自由
○Men are by nature(感) 英文のみのページ(翻訳用)
Men are by nature imitators. All people are more or less impressed by the speech, the manners, the gestures, and even the habits of thinking of those around them. "Example is the school of mankind," said Burke, "and they will learn from no other." In man, as in the lower animals, imitation is for the most part unconscious; impressions are made without our knowing it. But though they are unheeded, they sink in none the less deeply and their effects are none the less permanent.
Though the force of example is for the most part spontaneous and is acquired unconsciously, the young need not necessarily be the passive followers or imitators of those about them. Not only can they select their companions and decide which are most worthy of imitation, but their own conduct tends to fix the purpose and form the principles of their lives.
Let a young man seek, if possible, the society of men better than himself, and especially of those who do not possess the kind of fault to which he finds himself peculiarly liable, or who possessed it once, but have conquered it. Their example is always inspiring. He corrects his own conduct by theirs, and becomes a partner in their wisdom. If they are stronger in will or character than he is, he becomes a participator in their strength.
Most young men of generous minds, especially if they are readers of books, find heroes to admire. On the contrary, small and ungenerous minds cannot admire anyone heartily. To their own misfortune they cannot recognize, much less reverence, great men and great things. The mean man admires what is mean, as the toad admires nothing but a toad. The small snob finds his ideal of manhood in the great snob. A glutton cannot look beyond his dinner. A man of inferior type, instead of trying to raise himself to the level of his betters, is struck with envy, and regards the success of others, even in a good cause, as a personal offence. On such men example is thrown away. A silk purse cannot be made out of a sow's ear.
One of the great uses of biography is to teach what a man can be and what he can do. The humblest, when they read of this, may admire and take hope. The examples set by the great and good do not die.

★時間はしばしば流れとして(感)
 【1】時間はしばしば流れとして語りだされる。未来から現在へ、現在から過去へと流れる水のように。しかしこれは正しくない。そのように時間を流れとして語りだしている者は、そういう時間の外で時間について語っているからだ。【2】不在の未来(まだない)もそのようなものとして語られるかぎりで現在のなかにあるし、おなじように不在の過去(もうない)もそのようなものとして語られるかぎりでたしかに現在のなかにある。つまりは現在と現在と現在。だから、そこに時間は流れない。むしろ流れは隠されてしまう。
 【3】それは時間を時間の外から眺めているからだ。もし時間が流れると言うのなら、そのように語る者自身が流れのなかにあることが数え入れられているのでなければならない。【4】流れている者が流れのなかで流れるままにそれを流れとしてとらえ、ひるがえっておのれをも流れるものとしてとらえる。そのような時間の意識のしくみが問いただされねばならない。【5】そのような意識にたいしてはじめて流れは流れとして見え、旋律は旋律として聴こえてくる。言葉について語るということにも、おなじようなことが言える。考えるということについて考えるということとおなじく。
 【6】わたしたちは何ものかについて言葉で考え、語りだす。そして次に、その言葉が、事態を正しくとらえているかどうかを問う。あるいは、語られた事態がほんとうに存在する事態とおなじかどうかを問う。【7】その問いをシステマティックに緻密にするのが「哲学」である。
 「哲学」においては、この問いは、観念(や命題)と実在との一致・不一致というかたちで語りだされる。いわゆる真理の対応説である。
【8】至極まっとうな問いのようにみえる。しかしそこで、何と何とが引き較べられているのか。観念と実在との一致というが、それはどのようにして確証できるのか。
 【9】観念と実在との一致とは、つまり語りと語られた事態との一致ということである。では、語りが対応づけられるその語られた事態は当の語りの外で、どのようにして問題とされうるのか。【0】言及されることによって、つまり別のかたちで意識され、語りだされることによってである。けっきょく、対応ということで問われているのは、ある語りと別の語りとの対応ということだということになる。ある語りと別の語りとの整合性がそこでは問題となっているという∵ことになる。こうして観念と実在の関係は、命題と命題の関係に移される。対応説は整合説に移行させられるのだ。
 が、問題は、そこで終わらない。観念と実在との関係を問う「哲学」の場所はどこにあるのか、という問題がさらに別にある。語りと語りの関係を語る語りとは何か、という問題である。胃がよくはたらいているときは胃の存在は意識されず、むしろその機能が不全になってはじめてその存在が意識されるように、哲学もまたそれが機能不全に陥ったときにみずからの媒体について思考をはじめる。
 それが端的に問題になるのは、わたしがわたし自身の存在に問いを向けるときである。わたしがわたしを語る。そのときに、わたしがわたしについてのそのわたしの語りについて語るというのはいったいどういうことなのか(これは「哲学」では「自己意識」の問題である)。
 わたしについてわたしが語るとき、その語りによってはじめのわたしは規定される(スピノザも書いていたように、規定するとは否定すること、限定することにほかならないから)。その限定されたわたしと限定しているわたしの関係についてさらに言葉をくわえることは、わたしとわたしとのその関係をさらに別なかたちで限定することである。時間を流れとしてとらえる意識が時間そのもののなかにあったように、わたしの自己意識の構造を問題とするわたし自身もそういう自己意識のなかにあるわけである。
 ここではけっきょく、わたしがわたし自身を三重に限定していることになる。そういうメタにメタをくわえる事態についていまここで語っているわたしは、その三重の限定にさらにメタ次元から介入していって、限定を重ねているわけだ。
 あるものを限定するというのは、それを変形することである。デフォルマシオン、歪めること。それはしかし、なにかある原型のデフォルマシオンではない。すでに確認したように、原型はなんらかのデフォルマシオンのなかでしか現れえないのであるから、時間においても「わたし」においてもそうだったが、みずからについて語るというのは、変形に変形をくわえることなのである。そして、その変形のやり方自体を、ときに論理的に、ときに倫理的に問うのが「哲学」というものである。