ギンナン2 の山 8 月 3 週
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○自由な題名


○In an age when reading(感) 英文のみのページ(翻訳用)
In an age when reading for most people is a nonintellectual pleasure, and when at the same time there is a constant stream of books falling from the publishers' presses, a book has only to be barely readable once in order to serve its purpose. It need not be reread, nor does it need to lie in the mind as a source of future pleasure. It thus ceases to matter whether a book is memorable; and when literature is not memorable it is nothing. Total illiterates who depend on folk literature for their pleasures of the imagination are thus much better off than semiliterates who read forgettable novels merely because they are available. Oral literature must lie in the mind, for otherwise it would be forgotten; but most modern written literature is expected to he forgotten, in order to make way of the next season's list. That is one reason why we feel that modern books are different in kind from "the classics.
The fact is that literacy itself is a means and not an end, and it can be put to uses which may be good, bad, or indifferent. A book may be read for a great variety of reasons. But the reason for which a book is read determines the way it is read and to so1me extent the degree of illumination it is possible to get from it. All books should, of course, be read for pleasure, but "pleasure" is not a helpful term here, for it has so many meanings. There are many kinds of pleasure, intellectua1 and nonintellectual, and even many kinds of intellectual pleasures. The appreciation of literature involves a very special kind of intellectual pleasure, in which the intellectual element is not always directly manifested and where the faculty which critics have come to call the imagination plays a complicated and not always definable part. The ability to read does not by itself guarantee the ability to enjoy that kind of pleasure; it has, in fact, no particular connection with it at all except that it provides the technique for communicating it to those in a position to receive it. Like patriotism, literacy is not enough.

★インフォームド・コンセントなる言葉が(感)
 【1】インフォームド・コンセントなる言葉がある。商品販売者が、無知なる顧客に対して、自己決定するのに必要な情報知識を噛み砕いて説明した上で、同意を取り付ける義務を負うということである。【2】そして、医療において提供されるべき情報知識は、診断の内容、複数の治療方針の利点と危険性、治療しない場合の症状の予想などであると語られている。正当な考え方だ。しかし専門家が、本当に情報知識を持っているのかと疑ってみる必要がある。
 【3】知人が医者に余命三ヵ月かもしれないと告げられたことがある。正確には、簡単な所見から推すと、最悪の場合、末期症状の可能性があり、詳細な検査の結果として、予期される末期症状であると判明すれば、余命は三ヵ月程度である可能性があると告げられたことがある。【4】誤診であった。正確には、当初の所見は可能性の指摘としては論理的には正しかったが、当初の予期は確率以上の悲観性を滲ませた点において道徳的に誤りだった。
 【5】ここで指摘したいのは、これは情報知識の提供などという、代物ではないということである。たんなる占いである。この場合、最低限提供すべき情報はこうなるだろう。所見の根拠、推測の根拠、確率計算の根拠、予後の推定の根拠である。これを示すために提供すべき情報はこうなるだろう。【6】過去に実際に治療した症例の解析、過去の症例と現在の症例の相違と類似性の評価の根拠、当の症例について報告する諸文献の内容の分析、症例分析や症例分類の根拠と生存期間計算の根拠などである。【7】ところが医者にこんな知識はない。なぜなら、誰も持っていないからである。すると、どうなるのか。
 余命告知やリスク予知について、道徳的に論じたいのではない。占いは、人生の指針として役立つことはあるからだ。【8】人間がなってないとは思うものの、医者を非難したいわけでもない。長くは持たないと経験的に分かることはあるからだ。占いをめぐる問題は、∵各人の世間知を活用すれば済むことである。【9】病気の悲しみを癒して死の恐怖に耐えるには、経験知で充分足りる。ところが、悲しみを利用する連中は、無駄な論議を交わし、無用の研究を積み重ねる。しかも余命を生きる力の不可思議に何の関心も払わないのだ。
 【0】安楽死や尊厳死をめぐって人びとはこう信じているかのようだ。安楽に生きるより安楽に死ぬほうが大切だ。尊厳をもって生きるより、尊厳をもって死ぬほうが大切だ。最期だけは美しく死にたい。誰にも迷惑をかけずに、後顧の憂いなく死にたい。別の人びとはこう考えている。死の教育が大切だ。死ぬまで勉強だ。最期を看取るのも勉強だ。さらに別の人びとはこう考えている。制度設計が必要だ。素敵な死に場所を建築しよう。予算と人員が必要だ。子供も死に触れて死を学ぶべきだ。子供にもメメント・モリ(死を想え)というわけだ。人びとは、「末期状態の患者」や「植物状態の患者」について第三者的にあれこれ想像しては、死を正面から見詰めようと喋り合っている。
 死ぬのは悲しい。苦しまずに死にたいと願うのは当然だ。最期だけは高貴でありたいと願うのもたぶん当然だ。誰でも対処してきたことだし、時が来れば誰でも対処することだ。議論や教育や勉強や制度の問題ではない。ところが死の悲しみを利用して稼ぐ連中は、死ぬまで生きる力、生きて死なせる力に安楽と尊厳を感じることはない。「誰も生きてはいない。誰もが見せかけの生を送っている。死ぬことを避けることしか考えていない。しかも人生全体が死の礼拝堂である」。そしてスピノザは書いていた。「自由な人間は何よりも死について考えることが少ない。自由な人間の知恵とは、死の省察ではなく、生命の省察である」(『エチカ』)。

(小泉義之『ドゥルーズの哲学』)