ゲンゲ2 の山 2 月 1 週
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○自由な題名
○節分、マラソン
○父親と母親、お金
○Until a few years ago 英文のみのページ(翻訳用)
Until a few years ago, the common idea among archaeologists was that early human beings began to practice farming because they had no choice. Experts claimed that population growth led people to push some of their group members out of the most productive areas where it was easy to hunt and gather plenty of food from the wild.
Living on the poorer edges of the rich environments, according to the old thinking, these people noticed that seeds of gathered wild plants often began to grow where they had been thrown away or accidentally dropped. They then realized that planting crops intentionally in these poor areas provided a more plentiful and reliable source of food than hunting and collecting wild plants that could be eaten. As a result, according to the traditional idea, temporary camps in the poor areas developed into permanent settlements. Recent research, however, suggests it didn't happen quite that way.
Archaeologists now think that agriculture might not have begun just by accident. Instead, it might have begun because early humans did some scientific research. They say that because ancient peoples had experienced occasional bad years when wild foods were not easily available, people thought they should look for ways of making sure they always had enough food. So they experimented with particular wild plants, and eventually chose to grow the ones that seemed the best. Archaeologists say now that necessity was not necessarily the mother of the invention of agriculture. Instead, human creative ability was.

★(感)しかし、ここで面白いのは
 【1】しかし、ここで面白いのは「やりたいこと」とか「好きなこと」といっていても、それをいう自我主体に多少とも疑いを抱き始めているということである。【2】本当は何が好きなのか、何をやりたいかわからないから、肉体的「行動」を、ともかくもおこし、そこで味わえるはずの未知の経験から得られるであろう感覚、感情に身をゆだねようということになるのである。【3】これはまあ、いわばよく解釈した場合ではあるが、そして今の若ものたちの流行のなかには、すべてとはいわないまでもこういう要素がふくまれていると見てよいだろう。ところがこの方向をまともにやって行こうとするなら、これはいわばニヒリズムを方法として用いるということであるから、かなりの精神的緊張を必要とする。【4】何が好きかわからない、何をやりたいかつかめないという状態を肯定せず、むしろ否定的にとらえ、本当に好きなものを発見するという態度のなかでの、実験的一方法が、行動による偶然を通じての自己発見というものだろうから。
 【5】しかし、何が好きかわからないためにやむを得ずする行動を「好き」といってしまっては、短絡という以外いいようがない。これでは、「社会心理学」などでいう、集団的な反社会的行動への逃避などといわれてしまってもしかたない。
 【6】また、たとえばサーフィン。これはやれば面白いだろうと思う。ゴルフだってやれば面白いだろうが、すこし違うかもしれない。両方やったことがないのだから、無責任な話だが、しかし板を手で持つ波乗りぐらいはしたことがある。【7】波という自然の大きな、しかしじつに微妙なリズムに、己れの肉体のリズムがぴったり合一した時の快感、これにつきるのだと思う。ボートのエイトならエイトで、八人の漕ぎ手のオールさばきが、見事に水をとらえて、ふねと漕ぎ手と水との不思議な一体感のなかで陶酔する時、もっともスピードが出ている(これは体験だ)ということと似ていると思う。【8】官能の喜びではある。この直接的な官能性はこたえられないということはあるだろう。サーフィンが流行る根底にはこれがあるわけだが、実際に流行るプロセスでは、その体験は一種の神話的雰囲気という枠と化してしまっている。【9】波の来ない海岸にサーファーが集まり、それどころか、シティ・サーファーとかいう始めか∵ら海岸に行く気はないのに、車の天井にサーフ・ボードを乗せ、顔には日焼けクリーム(日焼け除けではない)を茶色に塗るという流行は一体何なのであろうか。【0】ここに軽薄な心理を見出すことはたやすい。わたしはここにむしろ軽いシニシズムがあると思う。官能の体験は淡い神話と化してそれにこの半分腐ったような傲慢で半ちくな自己韜晦とが結びついて、今日の「流行」の原型をみせているのである。

(小野二郎の文章による)