ニシキギ の山 8 月 3 週
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○自由な題名
○楽しかったこと

○いたかった思い出
 川はあばれんぼうです

 川はあばれんぼうです。大雨がふると水はあふれ、人びとは命がけでこうずいとたたかいました。村じゅうが力をあわせて、土手をきずき、土(ど)のうをつくり、いつもこうたいで川を見まわりました。川ぞいの人たちは、家を高くきずき、大雨のときは荷物を二階へあげました。どの家も船を持ち、いつでもにげられるよう、日ごろからこうずいにそなえました。
 それでも川は、何年か何十年に一度は大あばれをして、人や田畑や家や家畜を、のみこんでしまいました。
 でも川は、さいしょからそこにあったのでしょうか。
 むかしの水害の前、そのまた水害の前には、川はべつのすがたをし、べつの場所をながれていました。大雨のたび、川はひろがり、上流から土砂(どしゃ)をはこびこみました。大雨のたび、川はながれをかえ、あちこちへうごきまわりました。そんな川をなだめたり、水の交通整理をしたりしながら、人間がつくりかえてきたのが、いまの川です。
 では水は、たえずそこをながれているのが、あたりまえなのでしょうか。
 先祖たちが山の木をそだて、その山を、いまも山村の人たちが守りつづけているからこそ、土は山につなぎとめられて、川をうめたりはしないのです。土が守られているからこそ、晴れた日にも、水はちょろちょろと、たえず川へおくられてくるのです。
 そうです。川も水も、人間が、自然と力をあわせてつくりそだててきたものです。そして、日本人の大地とのたたかいのれきしとは、まず、川とのたたかいのれきしでした。
 日本地図をひろげてみましょう。日本列島は大部分が、けわしい山々でしめられています。人間の住める場所は、川のまわりの、ほんのわずかの平地しかありませんね。そしてその平地は、川の水がはこんできた土砂がつもってできたところで、こうずいのとおり道、つまり川原(かわら)みたいなところです。
 ですから、つねにうごいているその川と、どうつきあうかによって、人間は土地をつかえたり、また土地をうしなうことにもなりました。
 わたしたちにとって、大地とは、あるときは陸地であり、あるときは川でもある、そんな土地、ようするに川の領分の土地だったのです。

「川は生きている」(富山和子)より抜粋編集

★国際人とは一体(感)
 【1】国際人とは一体どんな人間のことなのか、わかっているようでわかりにくい。単に外国へ何度も行ったことがあるとか、西洋のマナーを身につけているとか、外国で知名度が高いなどということではないような気がする。【2】また、外国語に堪能(たんのう)であるというだけでも国際人とは呼べないだろう。
 私なりの考えでは、「外国人を相手に自分の考えを伝えたり心を通わせることのできる人」というようなものではないかと思っている。【3】こう考えるとき、国際人たるべき最も大切な条件とは何だろうか。それは多分、「論理的に思考し、それを論理的に表現する能力を持つこと」ではないかと思う。【4】言語、風俗、習慣などは国によって異なっていても、論理なるものは万国共通だからである。日本人の議論ベタは有名であるが、その原因は日本人がこの能力に欠けているからだと思われる。
 【5】なぜ、論理的思考の訓練が我が国では十分にされていないのだろうか。やはり教育が真先に頭に浮かんで来てしまう。大学入試を目指して階段を駆け上がるような小・中・高の学校教育、しかもその中で知識の修得が偏重されているということ。【6】このあたりに大きな原因があるのではないか。
 アメリカの大学初年生を日本の学生と比べてみると、アメリカ学生の方が知識量でははるかに劣っている。びっくりするほど無知であると言ってもよい。【7】しかし論理的に考え表現し行動することにかけては、彼らは十分な訓練を受けているから、精神的には成熟していて、論争になったりした場合には日本人学生はとても太刀打ちできない。【8】一見アメリカの学校は生徒を自由に遊ばせているだけのように見えるが、そういった訓練はきちんとなされているのである。
 【9】たとえば小学生の宿題として「ピューリタン(キリスト教の∵宗派の一つ)がアメリカに移住した頃の服装について調べなさい」というようなものが出されるという。生徒はそれを調べるのに何をどんな順序で実行すればよいかをまず考える。【0】そして、どこの図書館へ行けばよいのか、どんな本を読めばよいのか、どのようにしてその本を借出すのか、誰に聞けば有益な情報を得られるか、などを考えることになる。
 一方の日本では、受験勉強のために、生徒たちは知識やテクニックの修得ばかりに追いまくられている。論理的思考のために適当と思われている数学でさえ、決まりきった幾つかの公式のうちからどれをどの場合にあてはめるかというだけのものになっていて、この意味では単なる暗記科目と化している。論理的思考の訓練はほとんど置き去りにされていると言えよう。
 それでは、論理的思考を育てるにはどうしたらよいだろうか。普通まず数学教育が頭に浮かぶが、これは一般に信じられているほど効果的とは思えない。数学は確かに論理の上に組み立てられているが、いわゆる論理的思考に最適の教材かどうか疑わしい。私にはむしろ、「言葉」を大切にすることが最も効果的なように思われる。言葉というものは人間の思考と深く結びついている。言葉は単なる思想の表現ではない。言葉によって思考する、という意味では言葉が思想を形作るとさえ言える。思考と言葉とはほとんど区別の出来ないほどに一体化している。この意味で、論理的言葉を大事にするということは、論理的思考を大事にすることに等しい。
 このような観点から、国語教育を充実させることが第一と思われる。洞察力に恵まれた日本人にとって意思の疎通に言葉を必要としないことはしばしばある。しかし、我々が国際人として生きようとする限り、論理的言葉から逃れられないことは明らかに思われる。
(藤原正彦「数学者の言葉では」より)