ナツメ の山 6 月 4 週
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○自由な題名
○わたしの長所
★清書(せいしょ)

 強い風が、ひっきりなしに吹いていて、足もとの赤い砂を、まいあがらせていた。
 遠くに、巨大な、おわんをふせたみたいなドームがあり、その中に、町らしいものがあるのが、まるで砂ばくのしんきろうのように見えた。
「ここが、ぼくの生まれた星だよ。」
 レオナの声が、直接、ぼくの心にかたりかけてきた。ほら、いつか雨の日に、林の中で、心と心ではなしあったみたいにさ。
 そして、ふりむいたレオナの目は、暗やみに光る宝石のようなみどり色――。
「歩いてごらん。」
といわれて、ぼくは一歩、足をふみだした。ところが、ふわっと体が浮かびあがっちゃうんだ。ふつうに歩こう思っても、ふわふわ、ふわふわ……。月に着陸した宇宙飛行士が歩くのを、見たことがあるかい? ちょうど、あんな感じ。
「そうか。地球より、重力がないんだな、この星は。だから、きみは、あんなに体が重かったのか。走ることも、ボールを投げることもできなかったのか。」
「そうなんだよ。この星、シリダヌス座サイプロン星の重力は、地球の約三分の一なんだ。ぼくにとっては、地球の表面を歩くのは、おもりを引きずっているのと同じだったんだ。」
 レオナはいった。なん度もいうようだけど、ぼくたちは、心と心ではなしあってたんだよ。
「ごめんね。長いあいだ、うそをついて……。きみをだますのは、ほんとうにつらかったよ。でも、これでもう、きみにもわかっただろう。ぼくが一りんの花にも、感動していたわけが。ここでは、植物はいっさい、育たない。定期的に、もうれつな砂あらしがおそってきて、根こそぎ、だめにしてしまうんだ。また、ここには、四季もなく、雨も降らず、昼も夜もない。いや、つねに夜だというべきかな。」
 レオナは、まっ暗な空をあおいだ。
「地球へいって、はじめて青空を見た時、花を見た時、ぼくはこんなに美しいものが、この世にあるだろうかと思った。そりゃあ、図かんでは知っていたよ。チューリップも、菜の花も、ヒマワリも。でも、本は、花のにおいまでは、教えてくれない。それなのに、きみたちは、少しもありがたいとは思わないんだからなあ。
 ほら、いつかふたりで、手をつないで、空をながめただろう。雨を感じただろう。あれは、ぼくがテレパシーをつかって、きみに感じさせたんだ。 ぼくと同じように。つまり、あの時、きみは、ぼくの目をとおして青空をながめ、ぼくの耳をとおして、小鳥の声を聞いたんだよ。」
「そうだったのか。じゃあ、ぼくたちが、いまはなしているのも、そのテレパシー?」
「そうだよ。テレパシーというのは、ことばをつかわずに、心と心ではなすこと。自分の心を、あいての心におくること。」
 その時、とつぜん、はげしい風が吹いてきて、ぼくは目をつぶった。鼻に、口に、砂がはいりこみ、息もできないくらいだ。
 やがて、風がおさまるのをまって、レオナはいった。
「ほんとうの砂あらしにくらべれば、いまのはそよ風みたいなものだよ。こうした自然の中では、なによりもおたがいにたすけあわなければならない。そうしなければ、生きていけないんだ。弱い者いじめをするよゆうなんて、もちろんない。子どもだからといって、あまやかされることもない。ここでは、子どももおとなと同じように、さまざまな仕事をうけもっているんだ。
 ぼくが地球をおとずれたのも、仕事のうちさ。 地球の学校の調査、昆虫や植物の採集。まだ、実けんの段階だけど、ぼくたちはいま、特殊な光線をあてて、野菜や植物をさいばいしているんだ。それに成功すれば、ドームの中に、オアシスができる。」
 そこで、レオナは言葉を切り、じっとぼくの目を見つめた。

「宇宙人のいる教室」(さとうまきこ)より

○大学だけでなく
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
 ちょうど、その前の年、僕が六年生の晩秋のことであった。
 中学へ入るための予習が、もう毎日つづいていた。暗くなって家へ帰ると、梶棒をおろしたくるまが二台表にあり、玄関の上がり口に車夫(しゃふ)がキセルで煙草をのんでいた。
 この二、三日、母の容体が面白くないことは知っていたので、くつを脱ぎながら、僕は気になった。着物に着がえ顔を洗って、電気のついた茶の間へ行くと、食事のしたくのしてある食卓のわきに、編み物をしながら、姉は僕を待っていた。僕はおやつをすぐにほおばりながら聞いた。
「ただ今。――お医者さん、きょうは二人?」
「ええ、昨夜からお悪いのよ」
 いつもおなかをへらして帰って来るので、姉はすぐにご飯をよそってくれた。
 父と三人で食卓を囲むことは、そのころはほとんどなかった。ムシャムシャ食べ出した後に、姉もはしをとりながら、
「節ちゃん、お父さまがね」という。「あさっての遠足ね、この分だとやめてもらうかも知れないッて、そうおっしゃっていたよ」
 遠足というのは、六年生だけ一晩泊まりで、修学旅行で日光へ行くことになっていたのだ。
「チェッ」僕は乱暴にそういうと、ちゃわんを姉につき出した。
「節ちゃんには、ほんとにすまないけど、もしものことがあったら。――お母さんとてもお悪いのよ」
「知らない!」
 姉は涙ぐんでいる様子であった。それもつらくて、それきりだまりつづけて夕飯をかきこんだ。(中略)
 生まれて初めて、級友と一泊旅行に出るということが、少年にとってどんなにみりょくを持っているか! 級の誰彼との約束や計画が、あざやかに浮かんでくる。両の眼に涙がいっぱいあふれてきた。
 父の書斎のとびらがなかば開いたまま、廊下へ灯がもれている。(中略)∵
 いつも父のすわる大ぶりないす。そして、ヒョイッと見ると、卓(たく)の上には、くるみを盛った皿が置いてある。くるみの味なぞは、子供に縁のないものだ。イライラした気持ちであった。
 どすんと、そのいすへ身を投げこむと、僕はくるみを一つ取った。そして、冷たいナット・クラッカーへはさんで、片手でハンドルを圧した。小さなてのひらへ、かろうじて納まったハンドルは、くるみの固いからの上をグリグリとこするだけで、手応えはない。「どうしても割ってやる」そんな気持ちで、僕はさらに右手の上を、左手で包み、ひざの上で全身の力をこめた。しかし、級の中でも小柄で、きゃしゃな自分の力では、ビクともしない。(中略)
 左手の下でにぎりしめた右のてのひらの皮が、少しむけて、ヒリヒリする。僕はかんしゃくを起こして、ナット・クラッカーを卓(たく)の上へ放り出した。クラッカーはくるみの皿に激しく当たって、皿は割れた。くるみが三つ四つ、卓(たく)からゆかへ落ちた。
 そうするつもりは、さらさらなかったのだ。ハッとして、いすを立った。
 僕は二階へかけ上がり、勉強机にもたれてひとりで泣いた。その晩は、母の病室へも見舞いに行かずにしまった。
 しかし、幸いなことに、母の病気は翌日から小康を得て、僕は日光へ遠足に行くことができた。
 ふすまをはらった宿屋の大広間に、ズラリとふとんをしきつらねたその夜は、実ににぎやかだった。果てしなくはしゃぐ、子供たちの上の電燈は、八時ごろに消されたが、それでも、なかなかさわぎはしずまらなかった。
 いつまでも僕は寝つかれず、東京の家のことが思われてならなかった。やすらかな友だちの寝息が耳につき、覆いをした母への電燈が、まざまざと眼に浮かんできたりした。僕は、ひそかに自分の性質を反省した。この反省は、僕の生涯で最初のものであった。

(永井龍男「胡桃割り」)∵
 【1】大学だけでなく、各地の保育園や幼稚園に講演に行く機会もかなりあって、参観に来た母親と子どもの様子をそれとなく観察してきました。極端にことば数が少ないお子さんの場合、母親のタイプは二通りに分けられるのではないかと思います。
 【2】一つは、お母さん自身も無口で引っ込み思案、自己主張が少なく、ウサギのようにほとんど声を出さないというケースです。おしめを換えるにも、授乳するにも、靴をはかせるにも、すべて黙々と行っている。【3】気質の遺伝などもあるでしょうが、子どもの側からすれば、どういう局面でどういうことばを用いるのか、模範を示してもらうチャンスが少ないのですから、自分のことばが出てくるまでに、時間がかかるのは当然かもしれません。【4】ようするにこれは、マザリーズのところで述べた「くりかえし」の不足だと思います。
 もう一つは逆に、母親がひどくおしゃべりで、子どもの自発性を生かす「間」が不足している場合です。子どもは家で四六時中ことばのシャワーを浴びているはずなのに、なぜこんなに無口なのか。【5】ほんとにこれがあの母親の子なのかと、わが目わが耳を疑うことがあります。でも長い目で見ると、やはり、因果関係の釣り合いが、ちゃんと保たれているのかもしれません。ふだんはほとんどおしゃべりしない子が、ある日突然、母親のいないときにかぎって、堰を切ったように話しはじめる。【6】いったいこの子、どうなってるのと、まわりの人はびっくり。しばらくすると、ピタッとおさまって、何事もなかったかのようにまた無口な子どもにもどります。そういう子はえてして、大人になってからも、ふだんは寡黙な、はにかみやと見なされている場合が多いようです。
 【7】母親との語らいが子どもの脳を活性化するという川島さんの実験データは、じつに興味深いものがあります。だとすれば、臨界期の中心に位置すると思われる大切な時期に、魔法使いであるはずの母親が魔法の力をふるうことを怠れば、刷り込みの力ははたらかないわけです。∵
 【8】「三つ子の魂百まで」ということは、三歳までに学んだことが、百年分に匹敵する決定的な影響を与えるということではないでしょうか。ですから、もし母親が一分間、赤ちゃんに話しかけるとすれば、単純計算だけでもその約三十三倍、つまり三十三分間話しかけただけの効果を生みます。【9】十分間話しかければ、三百三十分、五時間以上話しかけただけの質的な影響力をもつことになります。
 すでにマザリーズのところで述べたように、母親の話しかけには、くりかえしだけでなく「間」が大切ですが、間を生かすためには、母親の心がその場に居合わせることが肝心だと思います。【0】授乳しながら赤ちゃんに優しく話しかければ、赤ちゃんは体の栄養分だけでなく、同時に「魂の糧」も吸収しているわけです。もしその時、母親が片手間に新聞を読んでいたり、テレビの画面に夢中だったり、赤ちゃんから気がそれていたりしたらどうでしょう。そこには気持ちのキャッチボール、つまり心と心の対話が欠如しているのではないかと思います。赤ちゃんはおそらく、母親の気持ちが自分に、向けられていないことを感知し、心のどこかで欲求不満を覚えているにちがいありません。
 ことばと心は、深いところでしっかりつながっています。育児や、家事、職業、趣味などの明け暮れで、どんなに忙しい母親でも、子どもに接するときは一期一会、目を見つめながら、心をこめて話しかけたいものです。

(川島隆太・安達忠夫「『脳と音読』「講談社現代新書」所収による」)