ムベ2 の山 10 月 3 週
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○自由な題名
○土

○We know about 英文のみのページ(翻訳用)
We know about one million kinds of animals and can give names to them. But there are more than thirty million species of animals in the world. Every year some of these species disappear and we never see them again. What do you think if one or two disappear?
One answer is this: animals make the world a richer place, a more interesting and a more beautiful place for us to live in. Another answer is: animals help us in many important ways. They give us meat to eat and milk to drink, and we can make things to wear from their coats. Scientists learn a lot from animals and this helps them to understand people. Doctors take things from animals to help sick people. And another answer is: we have to protect animals because we are animals too. Many of these living things are in danger. Without our help, a lot more animals are going to die.
People and animals live in one world. Our land is their land; our trees are their trees; our rivers are their rivers. We protect animals because we want to protect our world. A million years ago there were a lot more species of animals. Of course, some species disappear naturally, but today they are disappearing faster than before.
Animals are in danger from accidents; some animals die even when there are small changes in the weather. But animals are also in danger from our activities. We cannot protect animals -- or people -- from accidents or changing weather, but we can think about our activities and change them. We put new buildings on empty land and do not think about animals. We make new roads; we move rivers; we take away trees.
Sometimes we take animals from their home to a different country. In this new home, other animals do not know the newcomer and are not afraid of it. Black rats went by ship from Asia to the Galapagos Islands and killed many different species of birds. Some of those birds lived only in the Galapagos, but after the rats came they disappeared.
Some people that visit new places take pictures of animals, but other people hunt and kill them. They do not kill the animals for food. They kill them because they like hunting.
In many countries people can also make a lot of money from animals. For example, elephants are killed because people want ivory. Many bigger animals are in danger because their coats are beautiful and some people would like to have them to put in their houses, or to wear.
Pollution of our land, seas, rivers and sky is getting very bad. We are making our world a very dirty place, so many animals cannot live in it. Pollution is bad for all of us. It is killing animals. In the future it is going to kill people too.
More people in bigger cities take more land and make more pollution. So we are taking the homes of animals very fast. Where can they go? They will have no place to go...and the animals will die in the end.

★激しい雨が降りつづくなかで(感)
 【1】激しい雨が降りつづくなかで、乗っていた特急が停まった。これで三度目だなと私は思った。豪雨地帯だということもあるけれど、この紀伊半島を走る紀勢線と私とは、不思議に相性が悪いらしい。過去にも二度ほど不通になった経験があった。
 【2】この日も見知らぬ駅に特急は臨時停車したままで、車内には土砂崩れのために停車しているという車内放送が何度か流れた。そのうち乗客たちに牛乳と菓子パンが配られ、そしてさらに何時間かが過ぎ、復旧のみこみがないので臨時バスで輸送することが告げられた。
 【3】そういえば、山が崩れるほどの豪雨は、私の畑のある群馬県の上野村でも、何度か経験したことがある、と私は思いだしていた。道路が全く通行できなくなって、路上でどうすることもできなくなった日もあった。【4】ところが、同じような豪雨による土砂崩れでも、上野村で遭遇したときと、この紀勢線の場合とでは、私の受け取り方が面白いように違っていた。
 【5】汽車が豪雨で停まったときは、そのことに対して私は不便を感じているのに、上野村での私は、雨が上がったあとの畑仕事の段取りなどを考えて、それはそれで結構楽しんでさえいたのである。【6】豪雨は一方では私の行動を阻害する困ったものになり、他方では村にいるときは、私は豪雨もまた自然の営みと受け入れていて、この雨によって生まれた自分の仕事をも、当然の村の生活だと感じていた。
 この違いは、どこから生じているのだろうか。【7】そんなことを考えているうちに、「場所」という言葉が生まれてきた。
 村にいるときは、私は村という「場所」のなかで、ものごとを考えている。そして村という「場所」は、村人の暮らすところであるとともに、自然が暮らす「場所」でもある。【8】だから自然とともに「場所」を共有する人間が、自然の営みを受け入れ、その結果生じた仕事をこなしていくのはごく当たり前のことであって、何ら自然によって不便を強いられたことにはならないのである。
 【9】ところが汽車のなかでは、私は営みの「場所」をもたない旅人である。この汽車のなかは、私が生活する「場所」ではない。そのような「場所」をもたない人間としての感覚が豪雨という現象を、不便なもののように感じさせる。∵
 【0】とすると、人間の思考のなかには、「場所」をもつ思考と、「場所」をもたない思考とが、あることにはならないだろうか。
 ところで、そんなふうに考えていくと、私たちが学んできた近代思想は、「場所」をもたない思想だったという気がしてくるのである。近代社会は、共同体や地域とともにあった思想を否定し、「場所」をこえた共通の思想を、その意味で普遍的な思想をつくりだそうとした。「場所」ごとにさまざまな思想があったのでは、近代的な世界を成立させることはできなかったのである。こうして「場所」に影響されることのない人権思想や、近代的個人観などが生まれてきた。それとともに、私たちも、「場所」に影響されることのない普遍的な思想こそが、すぐれた思想だと思うようになった。
 だがそれでよかったのだろうか。私が紀勢線のなかで感じていたのは、こんな思いだった。豪雨を不便なことだと感じる「場所」をもたない思考と、豪雨をも村の営みのなかに包みこんでいく「場所」をもった思考。そのどちらの思考のほうが、人間や自然にとって、自由な思考なのだろうか。
 おそらく自由もまた、「場所」とともに成立する自由さと、「場所」をもたない自由さとは異なっているはずなのである、その「場所」のなかでは、人間が制御できない自然の動きも不自由を強いるものではないのに、「場所」を失った感覚のなかでは、制御不能な自然の動きが不自由なものとして感じられるように。
 人間同士の関係でも同じようなことがいえる。その「場所」のなかで暮らしているときは、不自由と感じることなく受け入れている決まりでも、その「場所」がなければ、人間たちに不自由を強いるものでしかないものは、たくさんあるはずである。
 とすると、「場所」は自由にどのような影響を与えるものなのだろうか、このような視点から、私は近代的自由を検証しなおしてみようと思う。

(内山 節「自由論」より)