メギ2 の山 1 月 3 週
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○自由な題名
○寒い朝、体がぽかぽか

○Once when I was a teenager 英文のみのページ(翻訳用)
Once when I was a teenager, my father and I were standing in line to buy tickets for the circus. Finally, there was only one family between us and the ticket counter. This family made a big impression on me. There were eight children, all under the age of 12, I thought. I knew that they didn't have a lot of money. Their clothes were not expensive, but they were clean. The children were quiet, holding hands, and standing in line, two by two behind their parents. They were excited. They were talking about the clowns, elephants and other shows they would see that night. I could imagine that they came to the circus for the first time in their lives.
The father and mother were at the head of the excited group. The mother was holding her husband's hand, and looking up at him. The father was smiling and looking at his wife proudly. Both of them looked happy.
The ticket lady said to the father, "How many tickets would you like, sir?"
He answered proudly, "Eight children's tickets and two adult tickets, please."
The ticket lady said the price.
The mother's head dropped and the father's lip began to quiver. The father came closer to the lady and asked, "How much did you say?"
The ticket lady again said the price.
The man didn't have enough money.
My father saw what was going on, put his hand into his pocket, took out a $20 bill and dropped it on the ground. My father reached down, picked up the bill, tapped the man on the shoulder and said, "Excuse me, sir, this fell out of your pocket."
The man knew what was going on. He wasn't asking my father to give him the money but certainly appreciated the help. He looked straight into my father's eyes, held my father's hand in both of his, and took the $20 bill. His lip quivered and a tear ran down his cheek. He said, "Thank you, thank you, Sir. This really means a lot to me and my family."
My father and I went back to our car and drove home. We couldn't go to the circus that night, but we were happy about that.

★(感)結局のところ
 【1】結局のところ、日本語は、質問者の質問のしかたに即し、その意図にそっていれば「ええ」とこたえ、反していれば「いいえ」とこたえるわけだが、欧米では、肯定疑問であろうが否定疑問であろうがそんなことにはおかまいなく、返答する者が知っているか否かによってのみイエス・ノーが決められている。【2】こうしてわが同胞は、外国に行って否定疑問文を浴びせかけられるたびに、どぎまぎしながら「はい、いやちがった、いいえ」「いいえ、いや、はい」などとやって、ますます「あいまいな日本人」という神話をはびこらせてしまいもするのだろう。
 【3】このような否定疑問へのこたえ方にかいま見られるのは、自己中心的な欧米流の思考法と外部指向的なわが国の思考法とのちがいにほかならない。そのうえ、そもそも私たちは、きっぱりとは「ノーと言えぬ」やさしき日本人なのである。【4】つまり、私たちのあいまいさは、多分に、他人への配慮からも生じているわけだ。
 こうした他人への配慮は、多かれ少なかれ、自己を抑制することになるだろうし、他人と歩調を合わせようとすることにもなるだろう。【5】私たち旧世代がつねに指摘されてきた日本的集団主義はもとより、はた目には、かなり自己チュー(自己中心的)と見られる現代の若者たちまでが、学校や職場での友人関係にどれほど気をつかっているかは、見ていて涙ぐましいほどである。【6】「はい、はい、はい、はい」と、「はい」をいくつも続けてコミカルかつ同調的な司会者のノリを出してみたり、「やっぱし」「ヤッパ」「あんまり」「意外と」を連発して社会通念にこびてみたり、【7】「半疑問」「半クエスチョン」と呼ばれる文の途中での語尾のアゲを使うことで相手との一致をたえず確認してみたり、あげくの果てには、携帯電話を通してまでもこうした気づかいをくりかえし、彼らは、ようやく、「だれかとつながっている」という安心感を得るにいたるらしいのだ。
 【8】このように、私の見るところ、日本語におけるあいまいさと言われるものは、大別すれば、「暗黙の了解」と「他人への配慮」という二つのものに由来しているように思われる。「暗黙の了解」はまさしく了解されている以上、それを言葉にしないのは当然のことであって、それがあいまいと映るのは外部の目に対して∵だけである。【9】あるいはまた、「他人への配慮」によって物言いを微妙に変えるところなど、自己主張ばかりに終始する西洋風の言葉づかいよりも数段すぐれていると考えることもできる。したがって、日本語における「あいまいさ」なるものは、本来の意味においてはあいまいではないのだと、そういうこともできるだろう。
 【0】しかしながらこの「暗黙の了解」や「他人への配慮」が、日本語の内部においても次第に崩れてきているとすればどうだろう。暗黙の了解があってこそあいまいさをまぬがれていた私たちも、そうはいかなくなり、他人への配慮があってこそあいまいも美徳になっていたのが、一転して、単なるあいまいとしての悪徳になってしまうのではないだろうか。
 たとえば、あるスーパーマーケットで年配の婦人が、若い女店員にこうたずねた。
 「あのう、お嬢さん、このお豆腐ずいぶんにごりが出ているけれど、まさかヨイゴシ(宵越し)のお豆腐じゃないでしょうね」
 けげんな顔をした女店員は、こう応じたのである。
 「いえ、お客様、当店では「絹ごし」と「木綿ごし」しか置いておりません」
 思わず私はふき出してしまった。二重の意味においてである。ひとむかし前ならば、この答えは当意即妙の見事なものであったにちがいない。当店の商品には「宵越し」などという言葉はないと、ナポレオンのように自信たっぷりの答えとなったはずである。しかしながら、当の女店員さんは大まじめ。ご婦人の苦笑に一抹の淋しさを感じたのは、私の深読みにすぎなかったのだろうか。

(加賀野井秀一()『日本語の復権』による。)