フジ2 の山 12 月 3 週
◆▲をクリックすると長文だけを表示します。ルビ付き表示

○自由な題名
○もうすぐクリスマス(お正月)


★道具との距離が(感)
 【1】道具との距離が遠くなったことはそのまま自然がわれわれから遠くなったことでもある。かつてなにをすべきかという人間の疑問に答えたのは自然だった。【2】自然の解答は時としておそろしく苛酷で矢つぎばやで、人はそれを遂行するに忙しく、時には遂行しきれないで死ななくてはならないこともあった。【3】だがなにをすればよいかわからないなどという馬鹿げた宙ぶらりんなみじめな状態を人は知らなかった。今ではみんなが途方にくれている。自然との関係において自分を人間にしたてあげてゆくような者はもういない。【4】人間はもうこの世界から絶滅しかけている。自然は死んだとメアリ・マッカーシーは言うが、死んだのは人間にとっての自然、と言うより自然の前における人間の方なのだ。【5】今、数を誇っている奇妙なこの生物をどんな名で呼ぶべきだろうか。
 彼等は最近気まぐれな女々しいノスタルジアから手づくりの道具云々と口走っている。【6】だが自然からかくも離れてしまった彼等、物を加工するにあたって不可欠な形と質と重さと強度の感覚を養成することを怠ってきた彼等にいったい何が作れるというのか。【7】一枚の板がどれだけの荷に耐え、どれだけの荷でしなうか、それを材料工学によってではなく感覚的に知る者はいない。従っておそらく彼等が手で作る物はすべて醜く、使用に耐えず(あるいは使用目的さえ明らかでなく)要するにガラクタに過ぎないだろう。【8】あるいは料理にしても、料理Aを作るために材料a・b・cを集めることは知っているが、まず材料aを与えられてそこから出発するという自然な順序では何一つできない。自然の中で生命を維持することは生物の基本的条件だが、大半の人間はそれを満たしていない。【9】ロビンソン・クルーソーの資格をもつものはほとんどいないだろう。
 道具についてもう少し考えてみよう。道具はどのようにして作られ、どのような関係を人とのあいだに結ぶか。自然に近い場で暮らす者にとって斧は大変便利な道具である。【0】そのような場所ではある年齢に達した男子はみな自分の斧を持ち、どこへ行くにもそれを携える。ある少年がやっとその年齢に達したとしよう。父親は∵息子を呼んで「斧を持つべき時が来た」と多分もったいぶった口調で宣言する。そして翌日、父親と少年は僅かな食料を持って山に入り、密林をぬけ、川を渡って特殊な石を産する山奥のある場所へ行く。そこに転がっている石同士を打ちあわせて割り、適当な劈開(へきかい)面の出ている破片を選び出す。そしてほかの石で一部を注意深く欠いたり、岩に根気強くこすりつけたりして形を整える。柄を作るにはまた別の場所へ行ってしかるべき種類の木の特定の枝ぶりのところを切ってこなくてはならない。あるいはそれを火にあぶって少々曲げ、掌になじむようにするかもしれない。枝に割れ目をいれて石片をはさむようにすることも考えられる。これらの作業を息子は熱心に見ている。この次にはそれを自分一人でやらなくてはならないのだから。石片を柄に縛りつけるには藤蔓(ふじづる)を切ってきて乾かし、裂いてしごいて丈夫な繊維を取り出さなくてはならない。これだけの手間をかけて作り、いつも持ち歩いて使用し、時にはそれによって危険から脱したりもする斧となれば、持ち主にとって貴重なものであるのもうなずける。貴重ではあるがそれは宝石などのような経済の法則が勝手に決めたあやふやな価値ではなく、使われるが故の単純な価値である。道具は作られ、使われ、次第に手になじみ、時にはこわれ、修理され、ゆっくりとある特定の変化をとげてゆく。またすべての道具が自作で粗末で原始的である必要はない。サン=テクジュペリにとっての飛行機は、まさに農夫にとっての鍬(くわ)のように、道具だった。飛行機が人間について万巻の書よりも多くを教えるからだと彼は言う。だから晩年あまりに複雑になりすぎた飛行機を操縦するようになってからの彼はもう飛行機のことは書かなかった。
 道具が道具になってゆく過程と対応してその前で一人の人間が作られてゆく。それが珍しいことになってからもうずいぶん長い時間がたった。人がものを大事にしなくなったから、ものの方も居心地悪げで、折を見ては逃げだそうと待ちかまえている、とリルケが書∵いたのは今世紀初頭のことだ。それ以来人と物との関係は劇的な速度で悪化した。われわれはみな甘やかされて駄目になった子供たち、鉛筆をけずることさえできない子供たちの時代に属している。