フジ2 の山 11 月 2 週
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○自由な題名
○お父さんやお母さんと遊んだこと
○続けるということ、私の好きな日

★価値が変動し(感)
 【1】価値が変動し、混乱していくなかで、健康な体というのは、ひとつのよりどころにはなるでしょうが、健康な体、たくましい体だけがあればいいのかといえば、そうではないことは当然です。
 【2】前にC・W・ニコルさんから南極かどこかへ探検に行ったときの話を聞いたことがあるのですが、彼はこんなことを言っていました。
 【3】南極などの極地では、長いあいだテントを張って、くる日もくる日も風と雪と氷のなかで、じっと我慢して待たなければいけないときがある。そういうときに、どういうタイプの連中がいちばん辛抱づよく、最後まで自分を見失わずに耐えぬけたか。【4】ニコルさんに言わせると、それは必ずしも頑健な体をもった、いわゆる男らしい男といわれるタイプの人ではなかったそうです。
 【5】たとえば、南極でテント生活をしていると、どうしても人間は無精になるし、そういうところでは体裁をかまう必要がないから、身だしなみなどということはほとんど考えなくてもいいわけです。【6】にもかかわらず、なかには、きちんと朝起きると顔を洗ってひげを剃(そ)り、一応、服装をととのえて髪もなでつけ、顔をあわせると「おはよう」とあいさつし、物を食べるときには「いただきます」と言う人もいる。【7】こういう社会的なマナーを身につけた人が意外にしぶとく強く、厳しい生活環境のなかで最後まで弱音を吐かなかった、というわけです。これはおもしろい話だと思います。
 【8】礼儀、身だしなみ、こういうことは極限状態のなかでは最後に考えることのような気がします。しかし実際には、そういうなかで顔をあわせたときにきちんと「おはよう」とあいさつのできるような人、「ありがとう」と言えるような人、【9】あるいは朝、ほんのわずかな水で顔を洗い、ひげも剃(そ)って、それなりに服装をととのえ、そして他人と礼儀を忘れずに接するという、小さいときからの自分の生活態度をずっと守りつづけたようなタイプの人のほうが、最後までがんばりぬいて弱音を吐くことがなかった、という。【0】そんな話を聞いたりすると、うーん、それも新しいサバイバルの方法であるな、という感じがします。
 同じようなことは、今世紀最大の悲劇と語りつがれるアウシュヴィツの強制収容所でもいえそうです。∵
 第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人を連行し、そして強制的な収容所をつくり、そのなかでもっとも残虐な殺戮が行われたのがアウシュヴィッツです。
 その地獄から奇蹟の生還をしたフランクルという人が、そこで起こったことを記録にまとめ世に出します。それが翻訳されて日本では『夜と霧』というタイトルの本になり、多くの人びとに、人間存在の残酷さと、そのなかで宝石のように光る生の尊厳を静かに訴えて、いまでもロングセラーとして読まれつづけています。
 ほとんどの人が死んでゆくなかでフランクルがどのようにその極限状態を生きぬいて奇蹟の生還をとげたか、ということが、ぼくにとっては興味の的だった。いろんなことがあります。
 精神科医だったフランクルは、人間がこの極限状態のなかを耐えて最後まで生きぬいていくためには、感動することが大事、喜怒哀楽の人間的な感情が大切だ、と考えるのです。無感動のあとにくるのは死のみである。そして自分の親しい友だちと相談し、なにか毎日ひとつずつおもしろい話、ユーモラスな話をつくりあげ、お互いにそれを披露しあって笑おうじゃないか、と決めるのです。
 あすをも知れない極限状態のなかで笑い話をつくって、お互いに笑いあうなんていうことになんの意味があるのか、と思われそうですけれども、そうではないのです。あすの命さえも知れないような強制収容所の生活のなかでユーモアのあるジョークを一生懸命に考え、お互いに披露しあって、栄養失調の体で、うふ、ふ、ふ、と、力なく笑う。
 こういうことをノルマのように決めて毎日実行したというのですが、むしろそういうことも、ひょっとしたらフランクルが奇蹟の生還をとげる上での大事な役割を果たしていたのではないか、と思います。
 ユーモアというのは単に暇つぶしのことでなく、ほんとに人間が人間性を失いかけるような局面のなかでは人間の魂をささえていく大事なものだ、ということがよくわかります。
 また、同じように――風景というものに対して非常に感受性のつよい人間がいる。そして、たとえば強制労働のなかで水たまりに∵映った冬の枯れ枝の風景を眺めて、あの、レンブラントの絵のようだ、なんていうことを考えたりする人がいる。こういう感じかたをする人のほうがじつは強制収容所の非人間的な生活のなかでは、むしろ強く、生き延びることができたのです。

 このエピソードは、人間が健康とか体力だけで厳しい条件に耐えられるものではない、ということを如実に表現しているような気がしないでもありません。

(五木寛之の文章より)