フジ2 の山 10 月 1 週
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○自由な題名
◎はじめてできたこと
★私の名前、私の好きな遊び

○私には一つ、自分の好奇心を(感)
 【1】私には一つ、自分の好奇心を呼び覚ます発見があった。お茶室というものが時代を経る中で、広い書院からだんだん小さく縮んでいって、最後は一坪だけの空間に至るという、その縮小の流れを見つけてハッとしたのだ。【2】このお茶室の面積が縮小していく流れが、ある不思議な引力をもって見えたのである。
 前から気になっていたことだが、懐石料理というものは、何故大きな器にホンの少々の食品を載せるのだろうか。
 【3】同様に、生花というものもおうおうにして、大きな器にホンの一輪の花をすっと斜めに生けたりする。そんなことが何故か気にかかっていた。
 懐石料理がほんの一口の分量を大きな器に入れてあること、それを経済要素から見れば貧乏性である。【4】大きな花器に花一輪も同じことだと思う。ヨーロッパでは花はたくさんあるほど美しく、それが豊かさの表現となっている。それに対して一輪の花で満足しようというのだから、これは貧乏性の美学というより、むしろ貧しさの美学、といった方がいいのかもしれない。【5】しかしお茶室の縮小していく流れには、ただ経済からの解釈による貧乏性とは違う別の引力があるのではないか、という印象があるのだった。
 懐石料理というものは、利休たちの茶の湯の世界が究められていく過程で生れたものだ。【6】つまりお茶を飲むために、その事前運動として料理を食べる。
 私たちがいまふつうに飲む煎茶にしても、まず食事をすませたその後に、ゆっくりと飲むものである。まして茶の湯でいうお茶とは抹茶である。【7】お茶の葉を摺って粉にしたものを、そのままお湯に溶かして飲むのだから、ずいぶん濃い。それでも薄茶と濃茶(こいちゃ)とあって、お濃茶(こいちゃ)というのはほとんどドロドロである。カフェインであるから、空っ腹(すきっぱら)には相当こたえる。【8】何か食べたあとの満たされたお腹でなければ受けとめられない。そこでお茶の前には必ずお茶受けのお菓子が出るわけで、そのお茶受けをさらに強化したものとして懐石料理があらわれてくる。∵
 【9】つまり食欲を満たすための食事ではなく、あくまでお茶に至るための食事であるから、分量的には最低限のものでいいわけである。しかしそうやって生れた極小の懐石料理が、お茶という最終目標を失ったところでもなお美しい料理として崇められていく。そういう美意識がこの国にはあるのだった。
 【0】その極小を愛でる美意識が、貧乏性と重なってあるのである。そもそもディテールへの愛というものが、基礎的な感性としてあるのだ。
 たとえば大和心のシンボルともいわれるサクラというもの、漢字ではこれを櫻と書く。嬰という字には、まとう、めぐらす、とりまくという意味があるという。中国ではサクラの花がぐるりと木をとりまいて咲く全体像を見て櫻という文字が出来ているのだ。
 それでは漢字が伝わってくる前、サクラという和音による呼び名にはどのような意味があるのか。日本語の古訓でサクの音のものは裂、割、刳、その他、いずれも「二つに分かれる」という意味を持っているという。
 おそらく桜を見てサクラと発音していた古代の日本人たちは、桜の花びらを見つめていたのであろう。ご存知のように桜の花びらの先端には小さな切れ込みがあり、M字形となっている。花びらの先が二つに分かれる。つまり大陸の人々は茫洋とピンクの固まりに包まれた桜の木の総体を見ていた。そして列島日本人は、散った桜の花びらの一つを掌に載せて、その先端部分に見入っていたのである。
 そもそも日本人の崇める神さまたちは、自然の風物の樹や、石や、動物の一つ一つに宿っているわけで、自然のディテールを愛でる感性はこの列島の条件として備わっていたものなのだろう。
 おそらくそのような感性は、この国の人々に、自然に、無自覚的にあったのだと思う。

(赤瀬()川原平『千利休 無言の前衛』〈岩波新書〉)