ハギ2 の山 6 月 4 週
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○自由な題名
○わたしの長所
★清書(せいしょ)

○小学生のとき、夢中になって
 【1】小学生のとき、夢中になって『ファーブル昆虫記』を読んだ。理科よりも国語、算数よりも社会が好きだった私は、はじめこの本のタイトルを見て、敬遠していた。
 「おもしろいわよ。たまには、こういうのも読んでみたら?」
 物語にばかり偏る私に、勧めてくれたのは母だった。
 【2】朝顔の観察とか、蟻の巣づくりを調べるとかいうことは、好きなほうではなかった。たぶん、そんなようなことが、たくさん書いてある本だろうと思っていた。そして実際に読んでみると、たしかに内容は、そんなようなことである。【3】にもかかわらず、ぐいぐい引き込まれていった。勧めた母親のほうがあきれるくらい、寝ても覚めても『ファーブル昆虫記』、という感じだった。
 それでは、私はファーブルによって、昆虫への理科的な興味を開眼させられた、といっていいだろうか?
 【4】ちょっと違うような気がする。それまで夢中になった本と同じように、私はそこに「物語」を読んでいたのだ。
 登場する昆虫たちは、ユニークで頭がよくて愛嬌のある主人公。彼らのくりひろげる「生きる」という物語にすっかり魅せられてしまった。
 【5】『ファーブル昆虫記』の素晴らしさは、ここにあるのだと思う。自然のなかに隠されている、楽しくて不思議でときには厳しい物語の数々を、現在進行形でファーブルとともに発見してゆく喜び。『オズの魔法使い』や『不思議の国のアリス』を読んでいるときにも似たような興奮が、そこにはあった。
 【6】なかでも印象に残っておもしろかったのは「ふんころがし」すなわち「オオタマオシコガネ」の章である。今回あらためて読みかえしてみて、この虫を描くときのファーブルの筆には、ひときわ愛情がこもっているように感じられた。子ども心にもそれが伝わったのだろうか。
 【7】自然の恵みを受けることと、自然と戦うことが、表裏一体となって紡がれるドラマ。西洋ナシの形をしたお団子のなかで生きる∵幼虫の話は、何度読んでも飽きないものである。虫の持つ知恵への驚きも、もっとも大きい章だった。
 【8】ところで、昆虫というと、最近ちょっと気になる報道があった。
 昆虫採集は自然破壊につながるのでやめようという意見があるという。子どもにも自然を大切にする心を教えなければ、と。
 一瞬、なるほどと思いかけて、いやいや待てよ、と思った。【9】蝉を採ったり甲虫をつかまえることは、自然と親しむことにこそなれ、自然を破壊することにはならないのではないだろうか。むしろ、そういう体験をすることなしに大人になってしまうことのほうが、こわいような気がする。【0】
 貴重な高山植物や珍種の蝶を採ることはもちろん規制されてしかるべきだろう。が、そういう特殊な例を除けば、昆虫採集の禁止は、それこそ近視眼的な発想ではないかと思う。子どもが採集するぐらいで、蝉や昆虫は絶滅したりはしない。山を切り崩したり、ゴルフ場を造ったりするほうがよっぽど虫たちを脅かすことになるだろう。
 そんな愚行から虫たちを守ろうと、将来発想することができるのは、どんな育ちかたをした子どもだろうか。蝉も甲虫も見たことがない、というのでは、はなはだ心もとない。
 ファーブルも、さまざまな実験の途中では、多くの虫たちを死なせてしまっている。蝉をフライにして食べちゃったりもする。が、ファーブルが心から虫を愛していた人であることはいうまでもない。昆虫採集禁止をとなえる人は、ファーブルの行為もまた残酷だというのだろうか。
 愛情は、なにもないところからは生まれない。まず「知る」ことが、愛情のめばえのスタートだ。

(俵万智「二十一世紀の子どもたちへ」(『世界文学の玉手箱四 昆虫記 下』(解説)(河出書房新社)所収)より)